第9話 悪魔の取り引き


「本当に……悪魔なんですか?」


 瑛二はスマホを握りしめながら、冷や汗を垂らした。


 たった今、異常な発熱が嘘のように消え去った。病み上がりの軽さとも違う――まるで最初から何もなかったかのような感覚。常識で考えればあり得ない。だが、それが今まさに自分の身に起きた現実だ。


「うん、わかるでしょ? 本当の話だって」


 渡邉の声は穏やかだった。まるで世間話をするかのように、当たり前のことを話しているような口調。しかし、その何気なさがむしろ恐ろしかった。


 しばらくの沈黙の後、彼は続けた。


「契約したくなったら、いつでも言ってほしい。病さえ乗り越えれば、その後に報酬が確実に得られるんだから、悪い話じゃないと思うけど?」


 瑛二は唾を飲み込んだ。


 確かに、たった一日、症状に苦しむだけで三万円。それだけ見れば、悪い話ではないのかもしれない。だが――


「俺は……インフルエンザでもキツかったです。もう契約はしないと思います。それより、本当にこんなことって……」


 言葉を探しながら話す瑛二の耳に、電話越しの小さな笑い声が届く。


「……グククッ」


 それは、楽しげでありながらも、どこか底知れぬ響きを含んでいた。


「まあ、あり得ないって思うよね。だけど、見えないだけで、世界にはいろんな不思議や陰謀がそこら中に転がってるものだよ。みんな、見ないようにしてるだけでね」


 渡邉の言葉が、妙に現実味を帯びて聞こえる。


 しかし、それを認めたら最後、自分の世界が変わってしまいそうな気がして、瑛二はかぶりを振った。


「とにかく……俺は契約なんてもうしたくないです。怖いですし、しんどかったです……」


「ふーん、そう?」


 渡邉は少し考えるように間を置き、それから口調を変えた。


「精神的な病もあるよ? あー、だけど瑛二くん鬱気味だから、鬱病とかを処方してもあんまりお金にはならないかなぁ。腸閉塞とかだと死ぬほど辛いから、3時間耐えるだけでも500万とかになるけど」


「ご、500万……」


 その額に、思わず息を呑む。


 それだけあれば、何でもできる。もっといい部屋に引っ越すこともできるし、まともな生活を取り戻すことだって可能だ。


 3時間、耐えるだけで――


 ――いや、そういう問題じゃない。


 死ぬほど痛い病にかかるなんて、まともな選択肢ではない。


 渡邉の声が、愉快そうに続く。


「おー、食いついたね。どう? 経験してみる?」


 冗談めかした口調。しかし、冗談ではないことは、今朝までの発熱が証明している。


 瑛二は恐る恐る尋ねた。


「……お金以外の報酬も、あるんですか?」


「もちろん」


 渡邉はすぐに答えた。


「可愛い恋人ができたり、友達ができたり、家族関係を修復できたり……あとは、過去に戻ることもできるよ。ただし、それ相応のペナルティが必要だけどね」


「過去に……戻る……?」


「やり直したくない? 過去」


 渡邉の言葉が、瑛二の胸に深く刺さった。


 やり直したい。


 もし本当に過去に戻れるのなら――


 戻りたい。


 そう、思ってしまった。

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