第2回 夜勤中の反省と自戒②
その数日後――私がいつも通り出勤すると、なんと玄関前に薄田さんが立っていた。
最初はいつものタバコかと思ったが、喫煙所に行く様子は見られず、じっと仁王立ちで誰かを待っている様子。
「薄田さん、こんばんは。この時間は一気に冷えますねえ」
私は、いつも通り(だったはず)のテンションで話しかけてみる。
すると薄田さんは、気まずそうに私の顔を見て、ゆっくりと頭を下げたのだ。
「この前はごめんね」
「あなたはちゃんと仕事をしていただけだもんね」
「なのに、頭ごなしに怒鳴ってしまったね」
「若い女性の方に、ごめんね」
何度も何度も、そう言ってペコペコと頭を下げる。
私はとてもびっくりして、胸がギュッと締めつけられた。
こうして自分よりずっと年下の小娘に頭を下げてくれる人なんて、なかなかいないだろう。
それに、薄田さんが怒りたくて怒ったわけじゃないことなんて、もちろん分かっている。
このホームでは、何かあってもすぐに忘れてしまう利用者さんが多い。いや、正確には忘れているわけじゃないのかもしれない。
でも、大抵のことは数時間もすれば気にしなくなるし、みんな割とケロッとしている。
だけど薄田さんは、この数日、忘れられなかったのかな。
ずっと考えてたわけじゃなくとも、どこか頭の片隅に後悔があったのかな。
私はどうしたら「もう気にしないでほしい」という自分の気持ちが、薄田さんに伝わるのか分からなかった。
人より容量の少ない脳味噌をフル回転させて、必死に考える。
その結果、自信は全くなかったが、なんとか言葉を捻り出した。
「私の方こそ、薄田さんの気持ちをすぐに汲み取れなくて、上手く伝えられなくてごめんなさい」
そして、内心これで合ってるのか……?と思いながら、恐る恐る手を差し出してみる。
すると、薄田さんは、やっぱり申し訳なさそうな顔をしながら、そっと、その手を握り返してくれた。
♚♚♚
数時間後――私はリビングの長机の一角で、書類を書いていた。
すると、薄田さんがチラチラとこちらの様子を伺いながら、そっと目の前に座る。手は止めずにいたけれど、何か話したそうだなと思った。
「なんかさっきよりまた寒くなりましたよね」
「明日、何時ごろまで雨降るんでしょうね」
そんな何気ない言葉を投げかけていると(こうして振り返ってみると天気の話しかしてない)、薄田さんがふいに口を開いた。
「……あのさ、」
そこから、薄田さんはポツリポツリと、自分のことを話し始めた。
昔から、人と関わるのが苦手だったこと。
そのかわり、小説を読むのが大好きで、いつも本の世界に浸っていたこと。
気づいたときには、小説の中の世界と、目の前の現実のギャップに苦しむようになっていたこと。
けれど、その苦しみを、誰にも理解してもらえなかったこと。
……うわ、その気持ちは、ちょっと分かるかも…………。
不覚にも共感してしまった私は、自分も読書が好きで、大学では文学を専攻していたことを話してみた。
すると、薄田さんはパァッと花が咲いたように笑ってくれた。
その顔を見て、私も嬉しくなる。
でも同時に、やっぱり胸がキュッと締めつけられた。
きっと、たくさんの葛藤があったのだろう。
自分の理想とかけ離れた現実の中で、誰にも理解されない孤独を抱えながら、それでも必死に生きてきたのだろう。
たまに、「ここにいる利用者さんの話は、話半分で聞くべきだ」と話す先輩がいる。
「どうせ相手も次の日には忘れている」「そもそも作り話のことだって多い」とも。
確かに、それは間違いではないのかもしれない。
私はまだ経験が浅いし、仕事をする上ではそういう考え方も必要なのかもしれない。
でも私は、それにかこつけて、相手が懸命に伝えたがっている大切な気持ちを取りこぼしたくない。
きっと薄田さんは、あの日のことがあったからこそ、私に「自分のことを知ってほしい」 と思ってくれたんじゃないか。
ただ謝るだけじゃなくて、彼なりに誠意を持って、私に向き合おうとしてくれたんじゃないか。
そう思うと、先輩たちの「利用者さんの話は話半分で聞けばいい」「どうせ翌日には忘れているし、作り話のことも多い」なんて言葉が、心底どうでもいいと感じた。
少なくとも、あのとき薄田さんが精一杯私と向き合って、自分のことを話してくれた時間は、私にとってかけがえのない事実だ。
♚♚♚
もうすぐ、私はこの仕事を辞める。
そして、4月から新しい夢を叶えるために、専門学校に入学する。
新しい夢は、人に寄り添うことのできる職業(であってほしいと願ってる)。
ただ私は本当に、体力も根性もない。
ましてや、こんな思考回路の鬼面倒な豆腐メンタルの私が向いている仕事か?と聞かれたら、正直、自信はない。なんならちょっと怪しい。
今のところ、数少ない友人たちの反応は、心配7割・応援3割くらいの割合だ。
それでも、頑張りたいと思っちゃったんだから、仕方ない。
自分の気持ちを上手く伝えられず、苦しくて悔しくてもがいている人たちに、少しでも寄り添える人間になりたい。
もちろん今までも、いろんな利用者さんと、いろんなことがあったけど――今回の薄田さんとの出来事は、絶対に忘れたくない。
この文章は、ある意味自戒でもある。
べつに「苦しんでる人を救いたい」なんて大層な願いじゃない。
ただ、苦しんでいる人がいることを、忘れたくない。
私が今書いてる内容は、ほとんどが綺麗事なんだと思う。
もしかしたら、数年後――夢を叶えて働き始めた私は、理想と現実のギャップに絶望するかもしれない。
でも、この綺麗事を抱いていた事実だけは、忘れずにいたい。
そうやって初心を思い出せば、薄田さんのことを思い出せば、私はまた立ち上がれる気がする。
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