第20話 約束

 母は好きでもない男との子を産まされた。それが自分だ。


 父は跡継ぎができたことを褒めこそすれ、母を愛することはなかった。外に向かって白幻素レアものを持つ妻の夫だと散々に自慢はしていたようだが。そんな父に母が愛情を抱くのは無理な話で、年が離れすぎて価値観も会話も合わない夫より、彼女が子に支えを見出したのは当然だと言えよう。


 よく母は、自分を抱き締めて泣いた。

 肩に染みこむ母の涙の冷たさは今でも覚えている。


 よく母は、白幻素を持ってしまったことを後悔していた。

 ずっとずっと、すべてを後悔していた。


 だから、六歳だった自分は母に言ったのだ。


『もう、母様がコウカイしないでいいように、ぼくが守りますから』

『……ッサイネル、サイネル……あなただけは私を一番に愛して……っ、あなたは私のすべてなんだから』

『はい、ぼくの一番はずっと母様ですから。だから、泣かないでください。ぼくを……どうかぼくを産んだことを……コウカイしないでください』

『ええ……あなたが私を愛してくれるのなら後悔なんてしないわ。あなたの一番は私で、私の一番はあなたよ。この家には、私とあなたしか信じられる人はいないのよ。いい? サイネル約束よ……絶対、母をひとりにしないでね』


 化粧が涙でグチャグチャになった顔で嬉しそうに笑った母の姿を、まだ忘れられない。


 それからは、ずっと母だけを見てきた。父のことを思い出させないように、父と同じ氷源素魔法も使わなくなった。そして、父は自分が十二の時に亡くなった。それから母が泣くことはなくなった。

 それでも、母の一番は自分のままだったし、自分もやはり母が一番だった。






 それなのに今、母は昔の約束を忘れてしまったかのように、自分よりもフィフィーを大切にしろと言う。


「つまり……もう母様に僕は必要ないってことで……っ」


 病気から回復して母は変わった。とても明るくなったし感情豊かになった。それは自分が本来望んだような母親の姿で、しかし、つまり母を変えたのは自分ではないということ。


「……フィフィーか」


 所詮、自分は母を苦しめるだけの存在だったのだろう。

 サイネルはソファから起き上がると、手にしたままだったハンカチを見つめた。そして、乱暴に上着の内側へとねじ込むと、静かに部屋を出た。




        ◆



 

「ん?」


 日が傾き、そろそろ仕事場に戻って仕事をしていたフリでもするかと、リーマ達はしていた使用人棟から出たのだが、そこで自分達の若き主人が屋敷を出る姿を目撃した。


「サイネル様じゃない。こんな時間から外出?」

「何か用事でもあるのよ。それより、早く戻らないと」

「それもそうね。ほら、リーマも行きましょうよ」


 一緒にサボっていたメイド仲間が呼んでくるが、リーマの足は止まったまま。そして、にんまりとした笑みを二人へと向けた。


「あたし、用事ができたから先に戻ってて。メイド長には具合が悪いから先に休んでるとか適当に誤魔化しといてー」


 リーマが使用人棟へと踵を返したのを見て、二人の仲間は「あーあ」と顔を見合わせた。





        ◆





 私は、寝室の文机で頭を抱えていた。

 文机の上には、青い背表紙の小説――ロザリアの日記がある。元より、少しずつ読んでいたのだが、今日のサイネルの言葉に違和感を覚え、残りの日記もすべて読んだ。


 読後感は最悪だ。

 最初は、ただのマザコン故の独占欲から、フィフィーちゃんに嫉妬しているのだと思った。しかし、彼の母親に向ける感情が、自分の知るただのマザコンとは違う気がしたのだ。そして、予感は当たった。


「ロザリア、あんたねえ……っ」


 なぜ彼が、ああも私を一番に据えているのか理解した。

 すべてはロザリアの呪いとも言える言葉のせいだった。


 親を愛することしか知らない雛鳥のような幼子に、『自分を一番にして』『ひとりにしないで』と泣きながら約束を求められたら、子供は頷くしかない。一心に純粋な愛を母親に捧げ続けるだろう。

 ロザリアはその時のことを『嬉しい』と書いていた。


 彼女の結婚経緯は同情すべきものだったし、その後も決して幸せとは言いがたい夫婦関係だったようだ。白幻素魔法が使えることを知って、なぜ彼女は自分の病気を治すのに使わなかったのか不思議だったが、日記には『もう疲れた』とだけ書かれていた。


 無責任にもほどがあるだろう。


 子供にかけた呪いを解くこともせず、自分だけは疲れたからと解放されるのを願う。彼女がいなくなったあとも、ずっとサイネルは彼女の言葉に縛られ続けるというのに。


「サイネル……」


 そう呟いた時、隣の私室からバタバタとした騒がしさと共に、「奥様っ」という切羽詰まったセバスチャンの声が聞こえてきた。


「どうしたの」と、寝室から私室へと向かえば、そこにいたのは珍しく焦った様子のセバスチャンで。


「奥様っ、サイネル様が……!」


 心臓が嫌な跳ね方をした。




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