あなたの声で語らせます

セクストゥス・クサリウス・フェリクス

第1話

第1章 「理想の共生社会」作文コンテスト

教室の窓から差し込む2月の日差しは、午後の眠気を誘うには十分だった。歴史の教師・井上先生の単調な声が、第二次世界大戦後の国際情勢について語り続けている。

「……そして冷戦構造の中で、イデオロギーの対立が……」

僕——雪村翔は、ノートに歴史の内容ではなく、小説の構想を走り書きしていた。歴史には興味があるが、正直、井上先生の授業はあまりにも教科書通りで退屈だ。

「雪村くん」

突然名前を呼ばれ、僕は慌ててノートを閉じた。

「はい」

「今説明した冷戦下での言論統制について、君はどう思う?」

思わぬ質問に、クラス中の視線が僕に向けられる。しかし、こういう質問には慣れている。

「イデオロギーによる言論統制は、表向きは『正しい社会の実現』というきれいな言葉で包まれていましたが、実際は多様な意見を封じ込める手段だったと思います」

井上先生は少し驚いたように眉を上げた。

「なるほど。教科書には書かれていない視点だね。では、そういった過去の事例から現代に通じる教訓は?」

「言葉の定義を独占する権力には警戒すべきだと思います。『正しさ』の名の下に行われる言論操作は、過去も現在も形を変えて存在していると思います」

教室が静まり返る。井上先生は複雑な表情を浮かべた後、「興味深い意見だ」と言って授業を続けた。

放課後、担任の佐々木先生が教室に入ってきた。手には何かの書類の束。

「みなさん、お知らせがあります。銀雪市教育委員会主催の『理想の共生社会』作文コンテストが開催されます。市長直々の依頼で、若い世代の意見を市政に反映させたいとのことです」

クラスメイトたちからは「めんどくさい」という小さなつぶやきが漏れる。

「参加は任意ですが、優秀作品には豪華賞品があります。最優秀賞は市長との夕食会と市役所での一日職場体験、さらに賞金3万円です」

賞金の額に、教室がざわついた。

「作文の締め切りは2週間後です。詳しくはこちらの資料を読んでください」

配られた資料を見て、僕は思わず眉をひそめた。「理想の共生社会について」というテーマ自体はいいのだが、添付されている「作文の手引き」が妙に詳細だ。

"【使用すべき表現例】"と題されたボックスには、

・「性のグラデーション」は自然な多様性を表す

・共生社会は「誰一人取り残さない」包括的な社会

・「正しい言葉遣い」が偏見をなくす第一歩

などが列挙されている。

さらに"【避けるべき表現例】"には、

・男女の区別を前提とした表現

・「普通」や「一般的」という言葉

・個人の自由や選択を過度に強調する表現

などが書かれていた。

「これって、書く内容が決まってるようなものじゃん」と小声でつぶやくと、隣の席の星野美月が振り返った。

「でも、共生社会って大事なテーマだよね。みんなが尊重される社会は素敵だと思う」

美月は生徒会副会長で、いつも真面目で模範的。長い黒髪に大きな瞳、ちょっとクラスでは浮いた存在だが、先生たちからの信頼は厚い。

「たしかに大事なテーマだよ。だからこそ、こうやって『正解』が用意されているのが気になるんだ」

美月は少し考え込むように資料を眺めた。「確かにちょっと詳しすぎるかも。でも、市が本気で若者の意見を聞きたいんだとしたら、協力するべきじゃない?」

そこへ、放送部の霧島匠が近づいてきた。茶色の髪を少し跳ねさせた明るい性格の男子だ。

「おー、作文コンテストやるんだってな!おまえら出る?」

僕が答える前に、美月が「わたしは出るつもり」と言った。

「さすが優等生!」霧島は笑った。「実はさ、俺も関わることになったんだ。放送部として、この作文コンテストの取材と、優秀作の朗読会の撮影をすることになってさ」

「へえ、それは意外」と僕。霧島は普段、学校行事にはあまり積極的ではない。

「教育委員会から直々に依頼があったらしいんだよ。なんでも『若者の声を広く伝えたい』とかで。翔も文才あるんだから出てみろよ」

「検討するよ」

その日の帰り道、僕は作文の手引きを読み返していた。まるで「模範解答」のようなガイドラインに違和感を覚える。歴史の授業で答えたように、言葉の定義を誰かが独占するとき、そこには何かしらの意図がある。

家に帰ると、母が新聞記事を読んでいた。

「ただいま」

「おかえり、翔。あ、そういえば市の作文コンテストのこと、聞いた?」

元新聞記者の母・香は、今はフリーライターとして働いている。いつも鋭い視点で物事を見ている。

「うん、学校で案内があったよ。なんか変だと思わない?」

「変?」

僕は手引きを見せながら説明した。母は資料に目を通すと、静かにため息をついた。

「これは……なるほどね」

「なに?」

「銀雪市で今、『共生社会実現条例』の可決を目指してるのは知ってる?」

「ニュースで少し見たかも」

「この条例、市議会ではかなり意見が分かれているの。賛成派は『多様性尊重と差別解消のため必要』、反対派は『言論統制につながる恐れがある』って主張してるわ」

母の説明を聞きながら、僕はピースが繋がるのを感じた。

「つまり、この作文コンテストは……」

「そう、条例を通すための『若者の声』を集めている可能性があるわね」

翌日、僕は美月と霧島にこの話をした。美月は少し考え込んだが、霧島は興味を示した。

「おお、それは面白い仮説だな。でも、だからって教育委員会が高校生の作文を操作するとは思えないけど」

「だといいけど」と僕。「ねえ、美月はどう思う?」

美月は少し迷った表情を見せたが、やがて決意したように言った。「わたし、やっぱり作文出すよ。たとえ市に利用されるとしても、共生社会は本当に必要だと思うから」

「そうか」と僕は頷いた。「なら、俺も出してみようかな」

「え、出るの?」と霧島。

「ああ。でも、『手引き』通りのお行儀のいい作文をね」

美月は不思議そうな顔をした。「どういうこと?」

「手引きの通りの『模範的』な作文を書いて、どう反応するか見てみたいんだ」

霧島が笑った。「なるほど、実験ってわけか。面白そうじゃん!」

僕は決めた。とびきり模範的で、教育委員会お気に入りの言葉が散りばめられた作文を書いてやろう。そして、彼らが本当に若者の声を聞きたいのか、それとも自分たちの言いたいことを若者に言わせたいだけなのかを確かめてやる。

作文を書き始める前に、僕は母の言葉を思い出した。

「言葉は思想を反映するだけでなく、思想を形作ることもある。だから、言葉を独占しようとする動きには敏感になるべきよ」

そうだ、これは一つの実験だ。教育委員会が本当に聞きたいのは若者の本音なのか、それとも都合のいい「若者の声」という看板なのか——。

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