第18話 死と意味

春の風が、やけに乾いていた。



桜井真琴は、スマートフォンの画面を見つめながら、立ち尽くしていた。駅前のベンチに座っていたはずが、いつのまにか立ち上がっていた。


胸の奥に、濁った水のような感情が渦巻いている。


「……嘘、だよね……」


メッセージアプリのグループに届いた、ひとつの報せ。


 “千夏、亡くなったって。事故だって。”


高校時代、いちばん近くにいた親友。真琴が哲学書を読み始めたきっかけをくれた人。

それでも、最後に連絡をとったのは、もう三年前のことだった。


「久しぶり!元気にしてる?」

 ──そのメッセージの後に、続きはなかった。


 真琴は駅を離れ、足が向くままに歩いた。


目の前に現れたのは、いつものカフェ「フィロソフィア」。


扉を開けると、木の香りと珈琲の香ばしさが迎えてくれる。時間の止まったような空間。今日はなぜか、その静けさが、妙に胸に染みた。


カウンターの奥から、マスターの井上さんが優しく声をかける。


「おや、真琴さん。今日は少し元気がないね」


「……高校の親友が、亡くなったんです。突然、事故で」


井上さんの手が止まり、目線が静かにこちらに向けられる。


「そうか……それは……言葉がないね」


しばらく沈黙が流れる。やがて、奥から中村さんが姿を現した。いつものように文庫本を小脇に抱え、ソファに腰を下ろす。


「死について考えるのは、いつだって難しい。でも、それを避け続けることの方が、よほど不自然だとも思う」


真琴は、カウンターの端に座り、珈琲を受け取った。湯気の向こうに、言葉がひとつずつ浮かび上がってくる。


「私、思ったんです。死って、すべてを無にするものなのかなって。千夏の夢も、言葉も、記憶も、もう、どこにも届かないのかなって」


中村さんは頷く。


「死は、たしかに“終わり”をもたらすように見える。でもね、たとえば、ハイデガーという哲学者は言うんだ。人間は“死にゆく存在”であり、自分の死を意識することで初めて、真の自己として生きることができる、と」


「……死を意識して、生きる?」


「そう。私たちは、永遠に生きると思っていると、今日という日が当たり前になってしまう。でも、“自分もいつか死ぬ”ということを忘れずにいることで、人生の一瞬一瞬が、かけがえのないものとして輝く。ハイデガーはそれを“本来的な存在”と呼んだ」


井上さんが、カップを磨きながら口を開く。


「でもね、そんなふうに“死が意味を与える”って考え方も、どこかで現実から距離を取ってる気もする。大切な人の死に直面した時、“これは私に生きる意味をくれる”なんて、すぐには思えない。むしろ、すべてが崩れていくような……」


真琴は黙って頷いた。まさに今、自分が感じている喪失のことだ。


「そうですね。今の私にとって、千夏がもうどこにもいないって思うと……言葉にできないんです。ただ、空っぽで」


「だからこそ、考えるんだ」


と中村さんが言った。


「“意味”は、死が決めるものじゃない。残された私たちが、どう意味を与えるかなんだ。たとえば、スピノザは“死は、自由な人間の思考の中に属さない”と言った。彼にとって大切なのは“今をいかに生きるか”であって、死に心を支配されてはいけない、ということだった」


「……じゃあ、死って、やっぱり“無”なんですか?」


「それは、ニーチェも向き合った問いだよ」と中村さんが本を開く。


「彼は“神は死んだ”と宣言し、世界に絶対的な意味がないことを前提にして、なおかつ自分で意味を創り出せ、と言った。死がすべてを奪うのなら、それに抗って、意味を創り出すしかない、とね」


真琴は、カップの中の珈琲に目を落とす。黒く、静かで、どこか深淵を思わせる。


「私、千夏と最後に話したの、たった一行のメッセージだったんです。『久しぶり!元気にしてる?』……それだけ。でも、今思うと、それが、彼女と過ごした時間のすべてにつながってる気がして……。意味って、どこかにあるんじゃなくて、私が感じるしかないのかなって」


「その通りだと思う」と井上さんが微笑む。


「人は、亡くなった人の言葉や記憶を通して、意味を編み直すんだよ。そして、それがいつか、自分の生き方にも繋がっていく」


中村さんは静かに言った。


「千夏さんの死が、君に問いをくれた。それだけで、意味はきっと生まれ始めているよ」


外を見ると、桜が風に揺れていた。


真琴はふと、千夏が好きだった詩を思い出す。高校の帰り道、二人で語り合った、あの時間。今はもう戻らない時間。でも、確かにあった日々。


 珈琲の香りが、やさしく心に染みていく。


「ねえ、中村さん。井上さん。死って、やっぱり怖いものですか?」


「怖くないと言えば嘘になる」と中村さんは笑った。


「でも、怖いからこそ、考える。考えることで、生が深くなる。恐れは、意味の始まりでもあるんだよ」


その言葉に、真琴はゆっくりと頷いた。


 “千夏。あなたの死が、私に問いをくれたよ。私は、あなたと過ごした時間を、これからどう生きることで、意味に変えられるだろう?”



翌週、真琴は再び「フィロソフィア」のドアを押した。


あの後、千夏の訃報に寄せられたメッセージのやり取りや、同級生たちとの久しぶりの連絡が続いた。みんなそれぞれに、千夏の死に意味を見出そうとしているようだった。「彼女は自分を犠牲にして誰かを助けたらしい」と聞いたのは、昨日のことだった。


「真琴さん、こんにちは。今日は少し、顔色が良いですね」


井上さんの声に、真琴は小さく頷いた。


「……少しだけ、気持ちが整理できてきた気がします」


カウンターに座ると、中村さんがすでに来ていて、古びた詩集を開いていた。


「ねえ、中村さん。意味って……誰かが亡くなった後に、自分で勝手に編み直していいものなんでしょうか? それって、都合のいい解釈になってしまわない?」


中村さんは本を閉じて、ゆっくりと顔を上げた。


「大事な問いだね。たとえばヴィクトール・フランクルという心理学者は、強制収容所という極限の状況に置かれても、“人は意味を見出すことができる”と語った。彼にとって、意味は“発見”されるのではなく、“見出す”ものだった。つまり、誰かの死も、人生も、それに意味を与えるのは他でもない“生きている私たち”なんだ」


「でも、それって傲慢じゃないですか? 千夏の人生を、私が勝手に意味づけてしまうことが……」


「もちろん、忘れちゃいけない。意味づけは、敬意と謙虚さの中で行われるべきだ。でもね、何もしなければ、ただ“無”に飲み込まれるだけかもしれない。だから、意味を与えるという行為は、誰かの人生を自分の中で生き直すことなんだよ」


そのとき、井上さんがそっと言葉を添えた。


「真琴さん、千夏さんと最後にどんな時間を過ごしたか、よかったら、話してくれませんか?」


真琴は、一呼吸おいて話し始めた。


 ──放課後、桜の木の下でおしゃべりしたこと。


 ──哲学の本を読んで、「こんな世界の見方があるんだね」と興奮して語り合ったこと。


 ──将来、一緒に海外に行って、もっと広い世界を見ようと言ってくれた千夏の瞳の輝き。



ひとつひとつ話すたびに、空白だった感情が輪郭を帯びていく。


「……でも、あの夢も、言葉も、全部、もう彼女の口からは聞けないんですよね。それが、一番つらいんです」


中村さんは、静かに頷いた。


「それでも、君の記憶の中に、千夏さんは今も生きてる。そして、その記憶を通して、新しい問いが生まれてる。これは、哲学者のパスカルの言葉なんだけど――“人間は考える葦である”。弱くて儚い存在だけど、考えることによって、意味を紡ぎ続ける力を持っている。死に出会ってもなお、考え続けることで、人は希望を持つことができるんだ」


真琴はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。


「私、千夏の死を、“終わり”じゃなくて、“問いの始まり”として受け止めてみようと思います。彼女が残してくれた時間や言葉を、私の生き方の中で意味にしていきたい」


外では風が吹き、花びらが舞い上がっていた。


春の風は、まだ少し乾いていたけれど、その中に確かに、温もりが混ざっていた。



その夜、真琴はひとり部屋で、千夏との過去のメッセージをもう一度読み返した。


「久しぶり!元気にしてる?」


たったそれだけの言葉。


でも、そこには無数の思い出が詰まっていた。

 

「千夏。あなたがいたから、私は今ここで考えている。死とは何か、生きるとは何か。あなたがいなくなったことが、私に問いをくれた。……私は、その問いに応えながら、生きていくね」


彼女の目に、涙が浮かぶ。

けれど、それは悲しみだけではなかった。


祈るように、真琴はそっとつぶやく。




 『ねえ、読者のあなたにも、聞きたいの。あなたにとって、“死”とは何ですか? 大切な誰かの死を、あなたはどう意味づけますか? その人の不在と、どう生きていこうとしていますか?』

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