第15話 意識と世界

雨上がりの朝だった。


アスファルトに残る水たまりに、雲の切れ間から差し込む光が映り込んでいた。揺れる水面を覗き込みながら、私はふと足を止めた。


「……世界は、ほんとうに“こんなふう”に見えているのかな」


その瞬間だった。小さな手が私のスカートの裾を引っ張った。幼い男の子が、まっすぐな目で言った。


「おねえさん、そっちの空、青いよ」


私は振り返り、彼の指さす方向を見た。そこには確かに、雲がちぎれて空の青が覗いていた。でも、不思議だったのはそのときの感覚だ。


――さっきまで、青なんて、どこにもなかったのに。





そのまま、私は「フィロソフィア」の扉を押した。


いつものように、カウンターには井上さんがいて、新聞を折りたたむ音が響いた。


「雨、上がったね」


「ええ。でも……」


私はカウンターに腰を下ろしながら言った。


「空の“青さ”が、どこから来るのか、ふと不思議になって」


井上さんは少し笑って、コーヒーを淹れはじめた。


「また難しいこと考えてるなぁ」


「いえ、本当に一瞬の出来事だったんです。子どもが空を指差して、『青いよ』って言ったんです。そのとき、“ああ、青い”って思ったんですけど……でも、さっきまでは気づきもしなかった」


「なるほどね。それは、意識の話かもしれない」


「意識……ですか?」


ちょうどその時、ドアが開いて、中村さんが入ってきた。哲学を教えている彼は、私の隣に座ると、にこやかに言った。


「意識と現実、ですか? 面白いテーマですね」


私は、先ほどの出来事を二人に話した。すると中村さんが、少し身を乗り出して言った。


「“世界”を私たちは見ているようで、実は“意識”のフィルターを通して感じ取っているに過ぎない、という考え方があります」


「それって、どういうことですか?」


「たとえば“赤い花”を見たとき、その“赤さ”は花そのものにあるんでしょうか? それとも、あなたの目と脳が感じている“現象”なんでしょうか?」


私は言葉に詰まった。考えたこともなかった。


「それじゃあ、あのときの“青い空”も……」


「そう。空は“青い”のではなく、“青く見える”んです。そして、“青く見える”ということは、見る者の意識がその色を創り出している、とも言える」


井上さんが静かにコーヒーを置きながら言った。


「哲学者の中には、“クオリア”という言葉でそれを表す人もいるよ。感覚的な質、主観的な体験のことだね。たとえば“痛み”は、他人には分からない。でも、自分には確かに“感じられる”。それが“意識”なんだ」


「つまり、私たちは、“世界そのもの”を見ているんじゃなくて、“感じられた世界”を見てるってこと……?」


「うん。そして、それは“唯一の世界”ではない」


中村さんは、いつになく真剣な顔で言った。


「たとえば、夢の中。あれも、その瞬間は“現実”に感じられる。でも、目覚めればすべてが“ただの夢”になる。“現実”と“意識”の境界は、そんなに明確じゃない」


私は、あの子どもが指さした“空の青”をもう一度思い出した。あれは、私が見ていたのか。彼が見せてくれたのか。それとも、意識と意識のあいだで、一瞬だけ生まれた“共有された感覚”だったのか。


「でも、それって……少し怖くもありますね。じゃあ、“この現実”も、本当に“現実”かどうか分からないんじゃ……?」


井上さんがやさしく笑った。


「そう感じた時点で、それは“あなたの現実”なんだよ。意識があるから、世界がある。逆に言えば、意識がなければ、世界は“存在しない”のかもしれない」


「……存在しない、世界」


私は呟いた。目の前のコーヒーの湯気が、少し揺れて見えた。


中村さんが最後にこう言った。


「だからこそ、私たちは問わなければならない。“私は、何を見ているのか”。そして、“それは、誰の世界なのか”」





その帰り道、私は立ち止まって空を見上げた。


青いかどうかは分からなかった。でも、その瞬間の“感じ”だけは、確かにあった。


あなたは、いま見ている世界が、“本当に存在している”と思いますか?


それとも、それはあなたの“意識”のなかにだけ、あるのでしょうか――。

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