応援コメント

すべてのエピソードへの応援コメント

  • 第18話 死と意味への応援コメント

    難しい問いだと思います。「死」を考えるときには、私は2つの視点で考える必要があると思います。一つは「自分」がいつか迎えるであろう「死」、つまり「自分」にとっての「死」。もう一つは、大切な人が死を迎え、「遺された者」として対峙する「死」、という事です。

    後者については、大切な人の「死」という意味付けは、各人の信仰や死生観によって一定には定まらないと思います。「死」が「無」だとは思いません。「死せる孔明、生きる仲達を走らす」という言葉がありますが、「死」をもってしても、生きている他者に影響を与えることはできます。

    太宰治の「人間失格」の中に、「ただ一切は過ぎていきます」という一文があります。本質はそこで、それにどう色付けするか、というのは、本当は「遺された者」の在り方で決まるものだと思います。

    「自身が迎える『死』」についても、誰も「自分が死んだとき、死んだ後」を表現することができないので、やはりその人の「死生観」に影響される、と思います。

    私自身は家族の信仰に連なる形で、子供のころから、日蓮の教えに親しみ、日蓮の教えを信仰するものであり、生業として「医師」をしています。たくさんの方の「死」の現場に立ち会ってきました。

    様々な人が、様々な死生観を持っています。共産主義、唯物史観を心に保つ人が、死を前にして穏やかに、「私はもう死にますが、死ぬのが怖いとは思いません。私は『唯物論者』ですから」とおっしゃって亡くなっていかれたことを覚えています。時に、若くして旅立つ人の中には、「愛しい人たちを残して旅立っていくのはつらい」と血を吐くような思いで言われる方もいますが、ある程度高齢で、「この世での仕事をある程度やり切った」と思っている方は、痛みなどをしっかりコントロールすれば、「死にゆく自分」を静かに受け入れているようにも見えます。

    キュブラー・ロスの「死の受容」に書かれたとおり、多くの人は「死」が目の前に来るまでは煩悶されますが、多くの方は、最後には死を受容して亡くなられます。

    日蓮の教え、あるいは釈尊の経典に沿えば、「死」は「瞬間」ではなく、一つの「状態」として、「生」と表裏の関係にある、と考えます。これは、日蓮の教えであり、浄土宗とは異なる考え方です。

    妙法蓮華経(法華経) 従地涌出品 第十五では、仏の教えを広めるために地面を割って、たくさんの菩薩が涌き出してきます。それらの菩薩は、釈尊よりもはるかに威厳があるように見えます。釈尊は、「これらの菩薩は、私が説法教化してきた」と告げ、菩薩も「釈迦牟尼仏に説法教化を受けてきた」と述べます。これに驚いた弥勒菩薩は、「それは、まるで100歳の老人が20代の若者に『これが私の父である』といい、20代の若者が100歳の老人に『これが私の息子である』と言っているようなものです。これは一体どういうことなのか教えてください」と釈尊に質問します。

    そして次の 如来壽量品 第十六で、釈尊が、「これまで、皆は私が現世で仏になった、と考えているが、実は想像できないような昔から、仏としてこの娑婆世界で法を説いてきた」と語ります。当時の釈尊は80歳より少し前、晩年でいつ死んでもおかしくない年齢でした。釈尊は「方便現涅槃」と言い、「仏が入滅し、いなくなってしまったと思っても、それは衆生を教化する「方便」である」と説きました。

    世界三大宗教の中で、「仏教」だけが「全知全能の絶対神」を持ちません。この如来壽量品 第十六の最後の4つの偈は「毎時作是念 以何令衆生 得入無上道 即成就仏身」とあります。仏は、どのようにして衆生を、無上の教えに導き、速やかに仏身を成就させるかを、常に考えている、という事です。つまり、衆生も「仏」になることができる、という事は、衆生の中に「仏となるポテンシャルがある」という点で、本質的に「仏」と「衆生」に絶対的な断絶はなく、「如来の入滅」が「方便」であるならば、「衆生の入滅」も同じく「方便」である、ということになります。

    「釈迦牟尼仏」がはるか昔から、この娑婆世界で「生を受け、死んでいく」ことを繰り返しながら前述の菩薩を説法教化してきた、また、「死」というものが方便で、「死んでいる」けど「存在している」という事、また「衆生」も「如来」と本質的には同じポテンシャルを持っている、と考えるなら、「死」は何かが無くなる、というものではなく、「生」と「死」が、表裏の関係でどちらも「状態」を表している、という考えにたどり着くのでは、と考えます。

    仏教では「衆生」あるいは実存する万物は「五陰仮和合」として、世界の構成物が「仮に」集まったもの、と見ます。「生」の状態は、「五陰仮和合」して肉体を持ち、activeに活動する状態。「死」の状態はinactiveな状態、でも決して「無」ではなく、「縁」に触れて、またactiveな状態になる、というのを繰り返している、ととらえています。

    私自身が仕事の上で、このような話をすることはありませんが、私の内面の死生観は、このようなものとなっています。

    長くなりすみません。

    作者からの返信

    ご丁寧で、深いコメントを本当にありがとうございます。

    「死」に向き合うときの二つの視点――「自分が迎える死」と「大切な人の死を受け止めること」――その区別はまさに本質を突くものだと感じました。そして、その両方に共通するのが、私たちの死生観に根差した意味づけの営みである、というお考えには強く共感します。

    『死せる孔明、生ける仲達を走らす』という言葉を引用されたことも印象的でした。死が単なる「無」ではなく、「影響を与え続ける力」として存在しうる。まさにそれは、死者が生者の内に「問い」を残す、ということなのかもしれません。

    また、「ただ一切は過ぎていきます」という太宰の言葉の引用に、胸を打たれました。物事は過ぎていく。しかし、私たちはその過ぎゆく出来事に、意味を与え、色を添えずにはいられない存在なのかもしれません。そして、その営みこそが、生きるということなのだと改めて感じました。

    お話にあったように、医師として、そして日蓮の教えを信仰されるお立場から、多くの死に立ち会われ、様々な死生観に触れてこられたご経験は、私などが想像も及ばぬ深みに達しているように思います。唯物論者の穏やかな最期、若くして旅立つ人の無念、高齢で仕事をやり切った方の静かな受容……その一つひとつの死が、それぞれ異なる物語と哲学を湛えているという事実が、尊く、そしてどこか痛切です。

    特に、法華経における「方便現涅槃」の思想、そして如来壽量品における「仏もまた死を方便として示す」という教えには、深く心を動かされました。死が単なる終わりではなく、教化の一環であり、「衆生と如来の間に絶対的断絶はない」というお考えは、死を静かに抱きしめるような優しさを感じさせてくれます。

    「死」を「瞬間」ではなく「状態」として捉えるという仏教的視座――それは、私たちが死を恐れるときに陥りがちな「存在の喪失」という感覚に、もう一つ別の視界を与えてくれます。「生も死も仮の姿であり、縁によって生まれ変わり続けている」。それは、死が“終焉”ではなく、“転換”であるという見方であり、生の儚さと共に、その力強さも感じさせます。

    この作品「死と意味」は、私自身の親しい友人の喪失体験から生まれた物語です。書きながら、何度も「死に意味はあるのか」「残された者に何ができるのか」と問い続けました。そんな中、今回のように誠実に、そして深い思索をもって受け止めてくださる読者の存在が、私にとって何よりの救いであり、灯火です。

    いただいたコメントは、まさに「死」に新たな意味を与えてくださいました。そしてこの意味づけの営みそのものが、誰かの死が他者の生の中で生き続けるということなのかもしれません。

    ぜひ、またあなたの思索のかけらを、聞かせてください。

    心からの感謝を込めて。

    海月

  • 第15話 意識と世界への応援コメント

    この問題は、仏教の「般若心経」ともつながる話だと思います。般若心経でも、「ものを、ありのままに見ることはできず、フィルターがかかったものを現実、とみているが、実際にはそうではない」というものが要旨だったように記憶しています。「色即是空 空即是色」(ものがある、と思うが実は「存在」しているのではなく、また、「何もない」ように感じるものの中に、「もの」が存在する)という事ともつながるのだろうと思います。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    仏教の「般若心経」とのつながりに言及していただき、とても深い視点だと感じました。「色即是空 空即是色」という教えが示すように、私たちが「ある」と認識しているものは、実は固定された実体ではなく、常に変化し、関係性の中で成り立っているものなのかもしれませんね。

    「意識と世界」のお話でも、私たちが見ている世界は本当に“そのまま”なのか、それとも意識というフィルターを通して再構成されたものなのか、という問いを通じて、「見る」とは何か、「世界」とは何かを問い直したかったんです。

    仏教的な見方は、まさにそのフィルターを取り払って「あるがまま」を見ようとする試みであり、それは哲学とも深く響き合うものだと思います。このような形で読んでいただけたこと、本当に嬉しいです。

    またぜひ、感想やご自身の視点を教えてくださいね。

  • 第1話 自己とは何かへの応援コメント

    こんにちは。

    この話、とても考えさせられますね。よく、学校で自己紹介をしますが、それはただの飾りっぽくて本当の自分ってなかなか見つからないということがわかります。

    作者からの返信

    こんにちは。読んでくださってありがとうございます。

    本当の自分って、言葉にしようとするとすぐにこぼれ落ちてしまうような感覚がありますよね。
    学校での自己紹介も、名前や趣味を言って終わりになりがちですが、それが「私」のすべてではないと、どこかで感じてしまう…。
    まさにその違和感から、この物語は生まれました。

    きっと「自己」は一つの答えにたどり着くものではなく、出会いや出来事の中で少しずつ見えてくるものなのかもしれませんね。
    そんな風に、一緒に考えてもらえたことがとても嬉しいです。

    またぜひ、カフェ「フィロソフィア」にお越しくださいね。


  • 編集済

    第9話 言葉と現実への応援コメント

    初めまして。ウィトゲンシュタイン好きのキムオタです。

    >>日本語では『雪』とひとくくりにしてしまう
    ここに疑問を持ちました。津軽には七つの雪が降るとか といいますが如何なものでしょうか?

    それはともかく。拙作、「思い出のかたち」 第34話 種の起源 で、機械生命体が初めて自己に目覚めて急速に進化する様子と、自分に無い 膨大な記憶 に翻弄される様子を書きました。お目汚しと思いますが、ぜひ、一読頂き、ご講評を賜れれば幸いと思いましてコメントしました。よろしくお願いいたします。

    追伸:
    雪の件。なるほど、良くわかりました。
    あと、私が最初、間違えたのですが、32話ではなく34話です。
    よろしくお願いいたします。

    作者からの返信

    ご返信ありがとうございます。そして、なるほど、「津軽」の冒頭ですね。おっしゃる通り、津軽にも七つの雪の表現があることは私も存じておりました。今回のテーマでは、雪そのものの違いを細かく認識する日常的な言語感覚――という観点でエスキモーの例を取り上げましたが、津軽の七つの雪は、雪が存在した上での文化的・詩的な分類という印象を持っておりまして、少しニュアンスが異なるかもしれないと考えていました。

    ただ、改めてご指摘いただいて、「日本語では雪を一括りにしている」という表現が、読者によっては誤解を与える可能性もあるなと気づかされました。とても大切な視点をありがとうございます。

    私もまだまだ哲学については勉強中の身で、こうしてやりとりを通して問いが深まっていくことに、大きな意味を感じています。これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

    また、「思い出のかたち」第32話、ぜひ読ませていただきます。機械生命体の目覚めと進化というテーマ、とても興味深いです。楽しみにしています。

  • 第12話 変化と同一性への応援コメント

    はじめまして。
    この小説をフォローさせていただいてます。

    ぼくは哲学のことをなんにも知らないので、だいぶ変なことを言うかもしれないんですが、今回の「変化と同一性」を読んで思ったことをお尋ねしてもいいでしょうか?

    〈私(=ぼく)〉って、変化しているって、まず素朴に思ってしまうんです。昨日と今日とでは、そんなに変化を実感できないかもしれないけど、十年前の自分と今の自分は、とっても変わってるって、思います。まずそういうことはすごく素朴に思うんです。

    それで、ぼくっていうのは、そういう風に変化しているって思っているんですけど、過去のぼくとか今のぼくとか未来のぼくとかって全部同じだとも、思っているとか考えているっていうより、そう感じてます。

    (1)ぼくは変わっている。
    (2)ぼくは同じだ。
    この二つを同時に主張したら矛盾ってことになっちゃうので、このことをどう考えたらいいんだろう?

    というのが、今回の話だったのかなって思っているんですが、だいたいそういうことでいいでしょうか?

    それで、このことをちょっと考えたら思い浮かんだことがあったので、それを聞いてもらいたいんです。長い話ですみません。

    (2)の「ぼくは同じだ」って感じているときに〈ぼく〉と言って指示していることと、(1)の「ぼくは変わってる」って考えるときに〈ぼく〉と言って指示していることって、べつのことだなぁ、って思ったんです。

    (1)のときの〈ぼく〉っていうのは、〈ぼく〉の要素というか属性というかどういうのがいいのかよく分からないんですけど、〈ぼく〉の内容というようなことかなって思います。

    一方で(2)のときの〈ぼく〉っていうのは、〈ぼく〉の内容はぜんぜん関係なくて、それを指し示す言葉をぼくは知らないので、どう説明したら通じるのか難しいんですけど、世界を経験するときの中心点というか視点っていうかパースペクティブっていうか、心の声みたいなのが響いているようなコノ、この場所みたいなの、ありませんか? これって何て言うんでしょう? 魂みたいな? 哲学の世界で、何か名前がついてますか? そもそも、ぼくが今何のことを言おうとしているか、分かってもらえますか?

    通じなかったかもしれないんですけど、この(2)の〈ぼく〉は、なんかずっと同じだって気がしてます――視点の場所は移動しない――。(1)の〈ぼく(の内容)〉は変化しているのが当り前かな、と。それで(2)と(1)の〈ぼく〉って、同じようにぼくって言ってますけど、違うものを指しているから、じつはぜんぜん矛盾なんかしてないなぁ、と。

    いうようなことを、思いました。

    それでぼくは、問題は、ぼくは変化しているか同一か、なんていうことより、魂みたいなこのコレは何なんだろう? ということの方が気になったんです。

    この、世界が開けてくるこの場所(視点)って、〈私〉って言って指し示す以外に、なにか言い方があるんでしょうか? ご存知でしたら、教えていただきたいです!

    作者からの返信

    はじめまして。
    ご丁寧で深いご感想を、本当にありがとうございます。

    「変化と同一性」というテーマに、ここまで真摯に向き合い、ご自身の感覚と思索で受け止めていただけたことに、心から感謝します。まさに今回の話は、

    (1)ぼくは変わっている
    (2)ぼくは同じだ

    という、相反するようで共に感じられる“私”の不思議な感覚を描こうとしたものでした。そこを読み取ってくださったことが、本当に嬉しいです。

    ご指摘の「〈ぼく〉が(1)と(2)で指しているものは違うのでは?」という視点は、まさに哲学の核心だと思います。

    哲学ではこの「心の声が響いている場所」や「視点そのもの」を、さまざまに表現してきました。
    たとえば:
    ・フッサールの「純粋自我(pure ego)」:すべての経験の背後にある“見る私”
    ・「第一人称の視点(first-person perspective)」:私にとって世界が開かれているその立場(トマス・ネーゲルなど)
    ・「意識の中心」や「クオリアの主体」といった言い方もあります

    あなたが語ってくださった「魂のような何か」は、多くの哲学者が言葉にしようとしてきた“私”の核そのものだと思います。

    また、
    「変わる〈ぼく〉」=属性・内容
    「変わらない〈ぼく〉」=世界を体験する視点

    と捉えることで、「同じ人なのに変わっている」という一見矛盾した感覚すら、人間らしさとして捉えることができる気がします。

    私もまだ哲学を学びはじめたばかりで、知識も探究も途上です。だからこそ、こうして一緒に考え、言葉を交わせることが本当にありがたく、大きな学びになります。

    「魂みたいなこのコレは何なのか?」
    この問いは「なぜ私は私なのか?」という、心の哲学の問いであります。よければぜひ調べてみてください。Wikipediaにもあると思います。

    答えになっているかは分かりませんがこれからも、一緒に問い続けていけたら嬉しいです。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。


  • 編集済

    第10話 正義と公平への応援コメント

    「私の正義は、誰かを傷つけていないか」を問い続けること、その通りだと思います。

    私の駄文「何でも内科医の・・・」でも、医療が抱える「正義」という問題を書いてみようと思います。

    作者からの返信

    ご感想をお寄せいただき、誠にありがとうございます。

    「私の正義は、誰かを傷つけていないか」という問いを持ち続けること――本当に、その姿勢こそが思慮深い正義への第一歩だと、私も改めて感じました。

    「何でも内科医の…」で医療における正義の問題を扱われるとのこと、とても興味深く拝読させていただきたいです。医療という現場ほど、正義と公平が重く交錯する場所はないかもしれませんね。

    今後とも、ぜひ一緒に考え続けていけたら幸いです。

  • 第9話 言葉と現実への応援コメント

    論議の最中には適切な言葉が出ず、後で、「あぁ、そうだ!」と出てくること、日本語にもその表現は古くからあって、「馬鹿の知恵は後から」ということわざがあったと思います。

    それはそれとして、今回も興味深いテーマ、面白く読ませていただきました。ありがとうございます。

    作者からの返信

    ご感想をお寄せいただき、誠にありがとうございます。

    ご指摘のとおり、L’esprit d’escalier に通じる日本語として「馬鹿の知恵は後から」や「後知恵」がありました。改めて気づかされ、大変勉強になりました。

    また、返信が遅れたこと、そして私自身の知識不足により至らぬ点がありましたことをお詫び申し上げます。

    それでも興味深くお読みいただけたとのお言葉、とても励みになります。今後も丁寧に思索を深めてまいりますので、引き続きよろしくお願いいたします。