あけぬ夜はなし

Tempp @ぷかぷか

prologue 泡沫

第1話 泡沫

ぬしさん、どうされなんし?」

 闇の中から艷やかな声が空気を震わせた。

「いつも朝になる」

「そうおすな」

「いつか身請けしてやると言ったが、いつになるかわからない」

 言葉の前半に込めた陽二郎ようじろうの決意は変わらない。けれども後半の不確かさは最近とみに、黒雲のようにその心に重く堆積している。まるで、藻掻くようだ。毎夜、毎晩。

「主さん、わっちはかまいんせん。また来てくんなんし」

 対する夕霧ゆうぎりの声は、わずかな安堵を滲ませていた。


 そろそろ夜明けだ。

 この夕霧の部屋は一等奥まり窓も何もなく、未だただ、闇の中にある。けれどまだ見えぬ朝の訪れは、楼全体のざわめきからも感じ取れた。陽二郎が着物を羽織れば袖は夜露で濡れ、肩にしっとり重く張り付く。そうして夕霧が行燈を灯せば部屋にも光が訪れる。

 ああ、この夜もこれで終わりだ。夜など明けねばよい。朝など来ねばよい。

 そのように思っていることが、灯りに揺れる陽二郎の表情からありありと見てとれた。

「夜が明けぬようになりんしたら、それが最後でありんすえ」

 陽二郎はこの朝の訪れを心底憎んでいた。けれども夕霧はそれが定めとでもいうように、淡く微笑んでいる。


 客は夜明けと同時に大門から出る決まりだ。

 だから夜明け前に身支度を整える。もうすぐ朝の尖兵、この妓楼の妓夫ぎゅうが、朝を知らせに来る。そうしてこの部屋を追い出される。褥をともにした夕霧は、この神津新地こうづしんち中見世中規模店幽凪屋ゆなぎやの遊女だ。だからこの別れは、夕霧がここにとらわれている限りは如何ともし難い。決まりだ。

 それが嫌なら、身請けをすれば良い。けれども目も眩むような大金が必要だ。果てしなく遠い。

 夕霧はいつも幽凪屋の大階段の上までは見送りに来るが、夜明けを恐れるようにそこから先は出てこない。

「夕霧、名残惜しいな」

東雲しののめほがら朗らと明けゆけば、おのが後朝きぬぎぬなるぞ悲しき。古来よりそう言いしんす」

「俺も悲しいよ。身が千切れるように。今晩も来る」

「あい。お待ちしておりんす」

 夕霧は静かに頭を下げた。陽二郎は微笑みを努めて夕霧を見上げる。その心中は心臓が握りつぶされるように痛む。夕霧はもはや自身の一部としか思われなかったから。丁度、明け六ツ午前六時の鐘が鳴る。この夢と現し世を隔てる大門が開く時間だ。

 客は次々と追い立てられ、慌ただしく朝靄の中に消えていく。毎日の光景なれど、そこに交々の別れの風情が溢れている。一夜の夢から覚めて現実へと戻っていく出立だ。


 けれども自分と夕霧は違う。楼の中も外も等しく、いや、この楼の中こそが自分の現実なのだ。必ず身請けをする。そう心に決めて、陽二郎は確かな足取りで朝靄の中に一歩を踏み出した。

 そのように明治十五年秋の新しい一日が始まった。


注:東雲の~、は古今和歌集のよみひとしらずの歌です。


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