第3話距離ゼロの共同作業

「……ちょっと近いって」


「何が?」


「顔が、だよ!こっち寄りすぎ!」


「えー?別にいいでしょ。音符、見えてる?この譜面のここ、変だと思わない?」


「いや、変っていうか……!」


俺は思わずのけぞった。

彼女の顔が、数センチの距離に迫っていたからだ。

目をそらそうとした瞬間、彼女の長い睫毛が視界をかすめた。


危ない。このままじゃ正気を保てない。


「何赤くなってんの?暑い?」


「暑いのは君のせいだよ!物理的に!」


そんなわけで、俺たちは今、音楽室のピアノの前に並んで座っている。

昨日、彼女が事務所に「今後も神谷に曲を書いてもらう」と無理を通した結果、

今日から“共同作業”が始まることになった。


とはいえ、場所は学校。

授業後、俺が作業している音楽室に、彼女が半ば強引に押しかけてきたのだ。


「でも、このパート……前の曲と似てない?」


「そりゃ、作ってるの俺だし、多少は似るよ」


「ダメ。私は似てるのイヤ。私は毎回、違う“私”でいたいの」


「……アイドルって大変だな」


「うん、大変。でも、やめたいとは思わない。誰かの心に残れるって、すごいことだから」


ふと、彼女の言葉に真剣な響きが混じる。


「だからこそ、あなたにも真剣に向き合ってほしいの。作業とか、私とか」


「……そっちの“私”って、何の話だよ」


「んー、秘密」


そう言って、彼女はいたずらっぽく笑った。

ほんと、気まぐれなやつだ。


「でもさ、ぶっちゃけた話していい?」


「何?」


「昨日から思ってたんだけど……君って、歌、うまいけど不安定だよな」


その瞬間、ピタリと空気が止まる。


「……それ、どういう意味?」


「いや、責めてるんじゃなくて。感情が強く出すぎるから、時々リズムや音程が崩れてる。正直、ちょっと危なっかしい」


彼女の顔が、みるみるうちに曇っていった。


「……そういうの、今まで誰も言わなかった」


「そうなのか?」


「みんな、“気持ちがこもってる”って言ってくれる。でも……本当は、私も気づいてた。自分でも、バランスが取れてないってこと」


言葉の端に、わずかな震えがあった。


「なら、俺が言うよ。ちゃんと、直そう。もっと良くなる。君の歌には、それだけの可能性がある」


「……」


彼女はしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。


「――うん。わかった。信じてみる。あなたの言葉」


その一言が、やけに嬉しかった。


「じゃあ、もう一回最初から合わせてみようか。今度はテンポ気をつけて」


「うん……って、待って、その前に」


「ん?」


「お腹すいた。作業前におやつタイム欲しい」


「おい、今いい話してただろうが!!」


「でも大事だよ?空腹は集中力を奪うって、脳科学の先生も言ってた」


「誰だよその先生!」


「マネージャー」


「ただの言い訳じゃねーか!」


結局、コンビニで買ってきたおにぎりとプリンを分け合って、俺たちは一息ついた。

肩を並べて食べながら、ふと彼女がぽつりと呟く。


「……ねえ、陸くん」


「何?」


「今まで、曲を書いてきた中で……誰かのことを本気で想って書いたこと、ある?」


「……あるよ」


「誰?」


「それは、秘密」


「えーずるい!」


「でも、ヒントはあげる」


「え?」


「……その人の名前には、“か”がつく」


「……“か”? それだけ?」


「うん。あと、今日プリンを半分持っていった人かな」


その瞬間、彼女の顔が赤く染まる。


「……なにそれ、反則じゃん」


「じゃあ次は、君の番だよ。俺にだけ、教えてよ。君の本当の気持ち」


「……そのうちね」


彼女はそっぽを向いたけど、その頬はずっと赤いままだった。


音楽と一緒に、少しずつ――

俺たちの“物語”が動き出している気がした。

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