第4話「供養人の過去」
1
「そういえば、先生はどうして供養人になったんですか?」
助手の夏希が何気なく投げかけた質問に、真琴の手が一瞬止まった。彼女は供養道具を磨いていた手を休め、窓の外を見た。
十一月初旬の夕暮れ。雨上がりの空には、燃えるような赤い夕日が沈みかけていた。
「好きでなったわけじゃないわ」
真琴の声は静かだったが、そこには聞き手の心を凍らせるような冷たさがあった。夏希は質問したことを後悔し始めていた。
「すみません、余計なことを…」
「いいえ」真琴は小さく首を振った。「あなたが知っておくべきことかもしれない。この仕事がどれだけ危険か」
彼女は立ち上がり、部屋の隅にある古い桐箪笥に向かった。最下段の引き出しを開け、そこから古ぼけた写真立てを取り出した。
「私の両親です」
夏希に差し出された写真には、笑顔の夫婦と幼い女の子が写っていた。女の子の瞳は、まだ黒かった。灰色ではない。
「十五歳の時、両親は交通事故で亡くなりました」真琴は静かに語り始めた。「普通なら、そこで終わるはずだった」
彼女の灰色の瞳が、夕日の光に照らされて銀色に輝いた。
「でも、母は成仏できなかった。私に未練があったから」
「先生のお母様が…最初の供養対象だったんですか?」
真琴は小さく頷いた。「ええ。でも当時の私には、供養の方法がわからなかった」
彼女は写真立てを元の場所に戻し、引き出しを閉めた。
「今夜、私は母の供養をします」
夏希は驚きに目を見開いた。「まだ…成仏されていないのですか?」
「ええ」真琴は低い声で言った。「二十年間、ずっと」
彼女が何か言いかけた時、玄関のチャイムが鳴った。
「沢田さんです」夏希が窓から外を確認して言った。「約束の時間より早いですね」
真琴は深いため息をついた。「赤い手の件で新しい情報があるのでしょう」
彼女は立ち上がり、黒いカーディガンを羽織った。夏希に向かって言った。
「今夜の準備をしておいてください。母の写真と、あの白い箱に入っている私の子供の頃の日記を用意して」
「はい」夏希は不安そうな表情を浮かべながら頷いた。「でも、先生…一人で大丈夫ですか?」
真琴は振り返り、微かに微笑んだ。
「心配しないで。これが私の宿命なのだから」
2
「十年前の火災事件の黒幕らしき人物が見つかった」
沢田刑事は車の中で写真を真琴に見せた。そこには六十代ほどの男性が写っていた。冷たい目をした、どこか官僚的な雰囲気の人物だ。
「柏木誠一。十年前、その地域の区画整理事業の責任者だった男だ」沢田は説明した。「再開発のために、あの建物を早く空にする必要があったらしい」
「だから、住人を追い出すために…」
「ああ、脅しが効かない住人たちを排除するために、放火を手配したと考えている。ただ、これはまだ推測の段階だ」
沢田は溜め息をついた。
「問題は証拠だ。あの建物の管理人はすでに亡くなっている。唯一の証人だった男も自殺したと報告されている」
真琴は窓の外を見た。雨が再び降り始めていた。
「でも、まだ証人がいます」彼女は静かに言った。「あの子供たち」
沢田は苦い表情を浮かべた。「霊の証言は法廷では使えない」
「私が見たものは幻覚ではありません」真琴は強い口調で言った。「赤い手の痕。あれは真実です」
彼女は右腕の袖をめくった。そこには依然として赤い手形が残っていた。まるで火傷の痕のように肌に刻まれている。
「これが証拠です」
沢田は真琴の腕を見つめ、わずかに顔色を変えた。
「確かに異常な現象だ。だが、科学的に説明できないものを警察が…」
「科学で説明できないことが、真実でないとは限りません」真琴は窓の外を見ながら言った。「子供たちは真実を伝えようとしています。彼らの怨念は、単なる恨みではない。正義を求める叫びなのです」
車は繁華街を抜け、閑静な住宅街に入った。沢田が車を止めたのは、小さな公園の前だった。
「ここで何か?」真琴が尋ねた。
「ああ」沢田は前方を指さした。「あそこに座っている老人を見てくれ。柏木の元部下で、当時の計画を知っている可能性がある」
木々の間から、ベンチに座る老人の姿が見えた。
「会ってみてくれないか」沢田が言った。「霊感のある君なら、何か感じるかもしれない」
真琴は無言で頷き、車を降りた。小雨の中、彼女はゆっくりと公園に向かって歩き始めた。
老人は七十代半ばといったところだろうか。頭髪は白く、両手で杖を握りしめていた。真琴が近づくと、老人はゆっくりと顔を上げた。
「お待ちしていました」
老人の言葉に、真琴は足を止めた。
「私を知っているのですか?」
老人は微かに笑った。「あなたが『供養人』だということをね」
真琴は警戒心を抱きながらも、老人の隣に腰掛けた。
「沢田刑事から聞きました。十年前の火災について、何か知っているとか」
「私は知っている」老人はゆっくりと言った。「しかし、それを話す前に、あなたに見せたいものがある」
彼は内ポケットから古い写真を取り出した。そこには幼い女の子と若い女性が写っていた。
「この写真…」真琴は息を呑んだ。写っているのは明らかに幼い頃の自分と母親だった。
「なぜあなたが…」
老人の表情が暗くなった。「私はあなたの母親を知っていた。そして、彼女がなぜ死ななければならなかったのかも」
3
「何を言っているのですか?」
真琴の声が震えた。老人の言葉は、彼女の中の何かを揺さぶっていた。
「二十年前の交通事故は、事故ではなかった」老人はゆっくりと言った。「あれも計画されたものだった」
真琴は立ち上がろうとしたが、足が震えて動けなかった。
「母の事故が…計画的だった?」
老人は重々しく頷いた。
「あなたの母親は、ある秘密を知ってしまった。子供たちが失踪する事件の真相を」
「子供たちの失踪…」真琴の脳裏に「赤い手」が浮かんだ。
「そう」老人は続けた。「二十年前から、この地域では定期的に子供が失踪していた。あなたの母親は看護師として、ある患者から真相を聞いてしまった」
真琴は混乱しながらも、記憶の断片を辿り始めた。子供の頃、母は病院で働いていた。そして、ある日突然、仕事を辞めたのだ。
「母は何を知ったのですか?」
老人は周囲を警戒するように見回してから、低い声で言った。
「子供たちは実験に使われていた。新薬の人体実験に」
真琴の体が冷たくなった。
「そして、その実験の主導者が…」
「柏木誠一だ」老人は言い切った。「私も当時、その組織の末端にいた。記録係としてね」
彼は震える手で別の写真を取り出した。そこには研究施設のような場所で、白衣を着た男女が写っていた。その中心に立っているのは、若かりし日の柏木だった。
「証拠です」老人は写真を差し出した。「私はずっと罪の意識に苦しんできた。今こそ、真実を明らかにする時だ」
真琴が写真を受け取ろうとした瞬間、鋭い銃声が響いた。
老人の胸から血が吹き出し、彼は真琴の腕の中に倒れ込んだ。
「逃げろ…」老人の最後の言葉が聞こえた。「彼らはまだ…活動している…」
真琴は混乱と恐怖の中、咄嗟に身を低くし、近くの木々の陰に隠れた。雨が激しくなり、視界が悪くなっていた。
彼女は震える手で携帯電話を取り出し、沢田に電話をかけた。しかし、応答はなかった。
「沢田さん…」
周囲を見回すと、駐車していたはずの沢田の車が見当たらなかった。彼はどこに行ったのか?
真琴は身を潜めながら、ゆっくりと公園の出口に向かった。老人から受け取った写真を握りしめながら。
彼女が公園から出ようとした時、背後から足音が聞こえた。振り返ると、黒いコートを着た男が立っていた。
男は何も言わず、ポケットから何かを取り出した。それは銃だった。
「待って!」真琴は叫んだ。
その瞬間、彼女の右腕の赤い手形が突然、激しく灼けるように痛み始めた。そして、男の周囲に幾つもの赤い手形が浮かび上がった。子供たちの手だった。
それらの手は男の腕を掴み、銃を向けることを妨げるかのように見えた。
真琴はその隙に走り出した。雨の中、彼女は必死に走った。安全な場所を求めて。
そして、ある場所に辿り着いた。それは母の墓があるお寺だった。
4
雨に打たれながら、真琴は母の墓前に立っていた。小さな石塔に刻まれた「綾瀬文子」の名前が、雨に濡れて光っていた。
「母さん…」
真琴の声は風に消された。彼女は右腕の赤い手形を見つめた。痛みは引いていたが、手形はより鮮明になっていた。まるで新たに押されたかのように。
「あなたも知っていたのね。子供たちのことを」
彼女は墓石に手を置き、目を閉じた。長年培ってきた供養人としての能力を使い、母の霊を呼びかけた。
「母さん、話を聞かせて。あなたが成仏できない理由を」
真琴の灰色の瞳が強く光り始めた。しかし、彼女の周りに現れたのは母の姿ではなく、幾つもの赤い手形だった。それらは空中に浮かび、墓石を中心に輪を作っていた。
「子供たち…」
真琴は手形を見つめながら呟いた。そして、ある直感が彼女を貫いた。
「あなたたちが、母を守ったの?」
赤い手形が一斉に動き、まるで応えるかのように上下した。
「母はあなたたちを助けようとした。そして、それが原因で命を狙われた…」
再び、手形が動いた。肯定しているようだった。
真琴はポケットから、老人から受け取った写真を取り出した。雨に濡れていたが、まだ画像は確認できた。
写真をよく見ると、白衣を着た人々の中に、母親らしき姿が写っていることに気がついた。彼女は何かの記録を手に持ち、明らかに不安な表情をしていた。
「母さんは証拠を持っていたのね」
そのとき、背後から声がした。
「その写真を渡してもらおうか」
振り返ると、沢田が立っていた。彼の手には銃が握られていた。
「沢田さん…あなたも関わっていたの?」
沢田の表情は硬く、目に感情は見えなかった。
「申し訳ない、綾瀬」彼は冷たく言った。「私も組織の一員だ。柏木の右腕として、証拠を隠滅する役目を担っている」
真琴は一歩後ずさりした。
「子供たちの実験…十年前の火災…そして母の事故も、あなたが…」
「全て必要な犠牲だった」沢田は銃を真琴に向けた。「新薬の開発には、時に大きな犠牲が必要なんだよ」
雨が激しさを増す中、二人は向かい合っていた。
「写真を渡せ」沢田が命じた。「そして、左腕の手形についても説明してもらう。あれは何なんだ?」
真琴は写真を強く握りしめた。
「これは証拠です。子供たちの、そして母の復讐のために必要なもの」
「馬鹿な。お前一人で何ができる?」
その時、真琴の周りに浮かんでいた赤い手形が、突然動き始めた。それらは沢田に向かって飛んでいき、彼の体を取り囲み始めた。
「何だこれは!?」沢田が驚きの声を上げた。
彼の手が震え、銃が落ちた。手形は彼の体を締め付けるように見え、沢田は苦しそうに呻いた。
「子供たちの怨念です」真琴は静かに言った。「あなたたちへの裁きが、始まったのです」
沢田が膝をつき、地面に倒れ込んだ。彼の口から血が溢れ出した。
「こんな…ことが…」
彼の言葉は途切れ、意識を失った。
真琴は混乱した頭で携帯電話を取り出し、警察に通報した。しかし、沢田が所属する部署ではなく、別の部署に。
「緊急事態です。御霊寺の墓地で発砲事件が…」
通報を終えると、彼女は再び母の墓に向き直った。
「母さん、あなたが守ろうとした子供たちが、今度はあなたの娘を守ってくれたわ」
雨の中、彼女の灰色の瞳から涙が流れ落ちた。
5
「その後、沢田は病院で死亡した」
鶴子が真琴に告げたのは、事件から三日後のことだった。真琴は自宅の縁側に座り、庭の紅葉を眺めていた。
「警察の調べでは、心臓発作だったという」鶴子は続けた。「しかし、不自然な点が多い。彼の体には何の外傷もなかったのに、内臓が大きなダメージを受けていたらしい」
真琴は黙って頷いた。
「柏木は?」
「逃亡中だ」鶴子は座り直した。「しかし、沢田のアパートから押収された資料により、二十年前から続いていた違法な人体実験の証拠が見つかった。組織のメンバーも次々と逮捕されている」
「あの老人は?」
「残念ながら、命は助からなかった」鶴子は悲しげに言った。「しかし、彼の勇気ある行動が、全ての真実を明るみに出したと言えるだろう」
真琴は右腕の赤い手形を見つめた。不思議なことに、それは薄れ始めていた。
「子供たちの怨念が、少しずつ解消されているのね」
鶴子は真琴の表情を心配そうに見つめた。
「しかし、お前は母親の供養をまだ終えていない」
真琴は静かに頷いた。
「今夜、最後の供養を行います」
夜が来た。真琴は自宅の「供養堂」で、母の供養の準備をしていた。堂の中央には、母の写真と、幼い頃の真琴の日記が置かれていた。
夏希も手伝おうとしたが、真琴は一人で行うと言って彼女を帰した。これは家族の問題だった。
三本の黒い蝋燭を三角形に配置し、中央に水晶の鉢を置いた。そして「鏡水」を注ぎ、母の写真をその上に浮かべた。
「母さん、今から最後の対話をします」
真琴は供養数珠を手に取り、目を閉じた。彼女の灰色の瞳が、閉じた瞼の下で光り始めた。
「二十年間、あなたは成仏できなかった。それは私への未練と、子供たちへの責任感からでした」
彼女の声が堂内に響く。
「しかし、今、真実は明らかになりました。子供たちの魂も、少しずつ救われています」
鏡水の表面が波打ち始め、母の写真が動き出した。写真の中の母の姿が立ち上がり、水面から浮かび上がったかのようだった。
透明な姿ではあるが、確かにそこに文子の霊はいた。
「真琴…」
かすかな声が聞こえた。二十年ぶりに聞く母の声に、真琴の目から涙が溢れた。
「母さん…」
文子の霊は微笑んだ。
「よく頑張ったわね。一人で」
「母さんが守ろうとした子供たち、私も守りたかった」真琴は震える声で言った。「だから供養人になったの」
文子の表情が悲しみに満ちた。
「私のせいで、あなたはこんな宿命を背負うことになってしまった」
「違います」真琴は強く言った。「私は自分の意志で選びました。供養人という道を」
文子は静かに娘を見つめていた。
「でも、あなたはまだ私を供養できないと思っていたのね」
真琴は驚いて目を見開いた。
「なぜなら」文子は続けた。「私を供養することは、あなたが私を手放すことを意味するから」
真琴は言葉を失った。母の言葉は真実だった。彼女はずっと、母の霊を手放すことができなかったのだ。それは孤独への恐れ、そして最後の家族を失うことへの恐怖からだった。
「母さん…」
文子の霊は、優しく真琴の頬に触れるように見えた。しかし、その手は物質を通り抜けるだけだった。
「もう良いのよ、真琴。私を手放しても、あなたは一人じゃない」
真琴は母の言葉に、ゆっくりと頷いた。
「わかりました。最後の供養を…」
彼女は深く息を吸い、供養のマントラを唱え始めた。
「過去の未練は過去に還れ。魂の安息を得よ」
文子の霊が光に包まれ始めた。
「真琴、一つだけ約束して」文子の声が遠くなりかけていた。「あなた自身の幸せも、忘れないで」
「約束します、母さん」
文子の霊は微笑み、そして光の中に溶けていった。完全に消える前に、最後の言葉が聞こえた。
「供養人としての宿命は、いつか終わる。その時が来たら、普通の幸せを選んで…」
光が消え、堂内は静寂に包まれた。
真琴は深いため息をつき、目を開けた。彼女の灰色の瞳は、いつもより明るく輝いていた。
「さようなら、母さん」
彼女が立ち上がろうとした時、携帯電話が鳴った。画面には「不明」と表示されていた。
「綾瀬です」
電話の向こうからは、老人のような声が聞こえた。
「綾瀬さん、私は柏木の元同僚です。彼の居場所を知っています。会いましょう」
真琴は一瞬、躊躇ったが、決意を固めて答えた。
「どこで?」
「鶯谷の古い廃工場です。一人で来てください」
電話が切れた。真琴は黒いコートを手に取り、供養堂を出た。
外では満月が空に浮かんでいた。彼女は月を見上げ、小さく呟いた。
「最後の供養に向かいます。子供たちのために」
そして、彼女の右腕の赤い手形が、再び鮮やかに浮かび上がり始めた。
【終】
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