『供養人 -Requiem-』~赤き手の記憶~

ソコニ

第1話「鏡の中の母」



1


「見えますか。その霊の、未練が」


薄暗い部屋の中で、香炉から立ち上る白い煙が宙を舞う。和室の中央に座った黒髪の女性——綾瀬真琴は、目を閉じたまま静かに問いかけた。彼女の前には、小さな鏡と奇妙な形をした数珠が置かれている。数珠は透明な水晶と黒曜石が交互に並んでおり、時折、不思議な光を放っていた。


「見えます…母が、毎晩鏡に映るんです…」


依頼者の佐伯美奈は震える声で答えた。三十代半ばの女性は、両手を膝の上で強く握りしめている。彼女の目の下には、幾晩も眠れなかった痕が濃い影となって刻まれていた。


真琴はゆっくりと目を開ける。その瞳は通常の黒ではなく、薄い灰色に変わっていた。


「供養人」——それが彼女の職業だ。霊を成仏させることを専門とする霊能力者である。しかし一般的な霊媒師とは違い、真琴は霊の「未練」を直接見ることができる特殊な能力を持っていた。その代わりに彼女は「代償」を払わなければならない。


「佐伯さん、お母様が亡くなられたのはいつですか?」


「一ヶ月前です。心臓発作で…突然でした」


美奈は言葉につまりながら言った。真琴は静かに頷き、香炉に新たな香を落とす。香は特殊な成分が含まれており、霊の気配を強める効果があった。


「お母様の霊が現れるのは、あなたのお部屋の鏡だけですか?」


「はい。私の化粧台の鏡です。最初は幻かと思いましたが…」美奈の声が震える。「三日前からは、鏡の中の母が口を動かすようになって…」


真琴の灰色の瞳が微かに光る。


「未練がある霊は、伝えたいことがあるのです」そう言いながら、真琴は自分の数珠を手に取った。「今夜、あなたのお宅に伺わせてください。お母様と対話します」





2


雨が降り始めた夜、真琴は佐伯家を訪れた。彼女は黒いコートの下に白い着物姿で、背には小さな木製の箱を背負っていた。その箱には「供養道具」と呼ばれる特殊な道具が収められている。


「こちらです…」


美奈が案内したのは、二階の寝室だった。部屋の隅に置かれた古風な化粧台の上には、アンティークの楕円形の鏡がある。


「毎晩、何時頃現れますか?」


「夜の零時…母が亡くなった時間です」


真琴は頷き、供養道具の箱から必要なものを取り出し始めた。まず、三本の黒い蝋燭、次に小さな銀の鈴、そして透明な水を入れた盃。最後に取り出したのは、先ほどの数珠より大きな、古びた黒曜石の数珠だった。


「これは先祖代々、私の家に伝わる供養数珠です」真琴は静かに説明した。「霊との対話を可能にします。ただし…」


彼女は言葉を切った。


「ただし?」美奈が不安そうに尋ねる。


「対話には代償が必要です。私は霊の未練を見るたび、自分の寿命が少しずつ削られていきます」


真琴はそう言ってから、軽く微笑んだ。「でも、それが供養人の宿命です」


彼女は蝋燭を三角形に配置し、それぞれに火を灯した。湯気の立つ水の入った盃を鏡の前に置き、数珠を手に取る。


「時間です」


時計の針が零時を指した瞬間、部屋の温度が急激に下がった。蝋燭の炎が揺れ、鏡の表面がゆっくりと曇り始める。


「来ています」真琴の声は冷静だったが、その灰色の瞳は強く光を放っていた。


鏡の中に、ぼんやりとした人影が現れる。それは美奈の母親——佐伯茜の姿だった。しかし、その表情は生前の優しさとは異なり、苦悩に満ちていた。


「お母様…」美奈の声が震える。


真琴は数珠を両手で握り、霊に向かって静かに語りかけた。


「佐伯茜さん、あなたには未練があります。それは何ですか」


鏡の中の茜は口を動かし始めた。しかし、声は聞こえない。


真琴は目を閉じ、より深く集中する。彼女の額から汗が流れ落ちる。これが「代償」の始まりだ。


「……秘密、伝えられなかった…娘に…」


かすかな声が部屋に響いた。それは茜の声だったが、まるで遠い場所から届いているようだった。


「秘密?」美奈が驚いて前のめりになる。


真琴は目を開け、美奈に向かって言った。「お母様には、あなたに伝えられなかった秘密があるようです」





3


その夜、真琴は佐伯家に留まることになった。霊との対話は、簡単に終わらせることができないからだ。


「佐伯さん、お母様の遺品はありますか?」


美奈は押し入れから古い木箱を取り出した。「母の思い出の品です…」


箱の中には写真アルバムや手紙、いくつかのアクセサリーが収められていた。真琴は丁寧にそれらを調べる。そして一枚の古い写真に目が止まった。


「この方は?」


写真には若い茜と見知らぬ男性が写っていた。二人は幸せそうに笑っている。


「父ではありません」美奈は首を振った。「見たことがない人です」


真琴は写真を手に取り、その瞬間、激しい頭痛に襲われた。彼女の視界が一瞬、闇に包まれる。そして幻影が浮かび上がった——若い茜が男性と抱き合う姿、そして小さな赤ん坊を抱く茜の姿。


「綾瀬さん!大丈夫ですか?」美奈の声が遠くから聞こえる。


真琴は震える手で額の汗を拭った。「すみません…霊の記憶を見ました」


彼女はゆっくりと顔を上げ、美奈をまっすぐ見た。「佐伯さん、あなたにはきょうだいがいますか?」


「いいえ、一人っ子です」


「そうですか…」真琴は写真を見つめながら言った。「でも、お母様の記憶には、もう一人子供がいました」


美奈の顔から血の気が引いた。「何を…言っているんですか?」


その時、突然、部屋の電灯が点滅し始めた。鏡が小刻みに震え、水の入った盃の水面が波打つ。


「来ています」真琴は即座に立ち上がり、数珠を手に取った。


鏡の中に茜の姿が現れる。今度は先ほどよりはっきりと見えた。そして鏡の表面が歪み始め、茜の手が鏡から這い出ようとしているように見えた。


「触れないで!」真琴は美奈に警告する。「霊に直接触れると、魂を奪われることがあります」


茜の霊は苦しそうな表情で、何かを伝えようと必死だった。


「伝えなければ…許されない…」


かすかな声が響く。


真琴は再び数珠を握り締め、目を閉じる。彼女の体から微かな光が発せられ始めた。


「私はあなたの未練を受け取り、言葉にします」


彼女の声は自分のものではないような響きに変わっていた。そして突然、真琴の口から茜の声が発せられた。


「美奈...あなたには兄がいるのよ。私が若い頃、恋をした人との間に生まれた子なの。当時の状況で養子に出すしかなかったの。ごめんなさい。」


美奈は茫然と立ち尽くした。


「その子は今、白血病で入院しているの。臓器提供者が必要で、血のつながった家族が唯一の希望なの。」


茜の言葉が途切れる。鏡の中の姿が薄れ始めた。


「待って、母さん!どこにいるの?その人は!」美奈が叫ぶ。


真琴は激しい痛みに耐えながら、最後の力を振り絞った。「名前は…佐藤光…京都中央病院に…」


そして彼女は意識を失って倒れた。





4


真琴が目を覚ましたのは、翌朝のことだった。彼女は佐伯家の客間のベッドに横たわっていた。体が鉛のように重く、特に右手の感覚がない。これが「代償」の一つだ。霊の強い未練を受け取ると、体の一部が一時的に機能を失う。


「起きましたか」


部屋の隅から声がした。美奈ではなく、見知らぬ男性だった。スーツ姿の四十代前半の男性で、黒縁の眼鏡をかけている。


「倉橋です。美奈さんの幼馴染みで、家の近くに住んでいます。彼女から連絡を受けて来ました」


「…佐伯さんは?」真琴はかすれた声で尋ねた。


「京都に向かいました。兄を探すために」倉橋は真琴にお茶を差し出した。「昨夜のことは聞きました。信じがたい話ですが…」


「信じないなら、構いません」真琴は静かに言った。「私は霊の未練を解消するためだけに存在します」


「いいえ、信じます」倉橋は真顔で答えた。「実は私も…その子の存在を知っていたんです」


真琴は驚いて倉橋を見つめた。


「茜さんの初恋の相手は、私の従兄でした」彼は苦しそうに言った。「二十年以上前のことです。当時、彼らは若すぎた。茜さんの両親が猛反対し、子供は養子に出されました」


「なぜ、美奈さんに教えなかったのですか?」


「茜さんが望まなかったからです。そして…」倉橋は言葉を切った。「私にはずっと美奈さんを見守る約束があったのです」


真琴は倉橋の表情から、彼が美奈に特別な感情を抱いていることを悟った。


「霊は未練が解消されると成仏します」真琴は言った。「でも、まだ茜さんの霊は完全に成仏していません。他にも何か…」


その時、窓ガラスに何かが映った。真琴と倉橋は同時に振り向いた。窓に映るのは茜の姿だった。


「まだ伝えていない...子供たちが危険にさらされている...」


かすかだが切迫した声とともに、窓ガラスにヒビが入り始めた。


「佐伯さんが危ない」真琴は即座に立ち上がろうとしたが、体が言うことを聞かない。


「どういうことですか?」倉橋が緊張した声で尋ねる。


「わかりません。でも霊がこれほど強く警告するのは、命に関わる危険があるときだけです」


倉橋は携帯電話を取り出し、美奈に電話をかけ始めた。「繋がりません」


「急いで京都に行かなければ」真琴は必死に言った。「供養はまだ完了していません。霊が暴走すると、周囲の人間に害をなすことがあります」






5


京都中央病院——美奈はここで兄を見つけた。佐藤光、三十八歳。確かに彼は白血病で入院しており、ドナーを探していた。


「あなたが...私の妹なのですか?」


病床の光は信じられない表情で美奈を見ていた。


「はい、私も昨日初めて知りました」美奈は戸惑いながらも、決意を固めていた。「私がドナーになれるか、検査を受けようと思います」


光は弱々しく微笑んだ。「ありがとう…でも、なぜ今になって…」


「母が…亡くなった母が教えてくれたの」


光の表情が変わった。「母さんが?茜さんが?」


美奈は頷いた。「あなたを知らせるために、母は成仏できなかったの」


光はしばらく黙り込んでから、静かに言った。「実は…彼女からの手紙がある。毎年誕生日に届いていた」


彼はナイトテーブルの引き出しから、古い封筒の束を取り出した。


「最後の手紙には、『もし私に何かあったら、美奈に会ってほしい』と書かれていた」


美奈は手紙を受け取り、震える手で開いた。そこには母の筆跡で、長年隠してきた真実と、光への変わらぬ愛情が綴られていた。


「彼女は…君のことをずっと見守っていたんだ」


美奈の目から涙があふれた。


その時、病室のドアが勢いよく開き、倉橋と真琴が現れた。真琴は松葉杖をついており、顔色は悪かったが、目の光は鋭かった。


「佐伯さん、危険です!」


「綾瀬さん?どうして…」


真琴の警告の直後、部屋の電気が突然消え、窓ガラスが激しく振動し始めた。


「来ています」真琴は低い声で言った。「茜さんだけではない…別の霊も」


倉橋が美奈を守るように立ちはだかる。「どういうことだ?」


真琴は数珠を取り出し、病室の中央に立った。彼女の灰色の瞳が強く光る。


「光さんを狙う霊がいます。おそらく…」


真琴の言葉が途切れたとき、部屋の温度が急激に下がり、息が白く見えるほどになった。天井のライトが爆ぜ、部屋は暗闇に包まれる。


「誰だ!」倉橋が叫んだ。


月明かりだけが差し込む病室で、真琴は幽かな光に包まれていた。彼女の灰色の瞳は今や、まるで銀の鏡のように輝いている。


「光さんを養子に迎えた夫婦の霊です」真琴は声を震わせながら言った。「二人は交通事故で亡くなりましたが、その事故は事件だったようです。」


「そうなんだ...」光が震える声で言った。「養父母は殺されたんだ。養父が大きな企業の機密情報を持っていたから標的にされたんだ。」


壁に黒い影が浮かび上がり始めた。不気味な形の二つの影が、光のベッドに近づいていく。


「やめて!」美奈が叫ぶ。


その時、窓ガラスが急に曇り、茜の姿が現れた。彼女は両手を広げ、黒い影から光を守るように立ちはだかっている。


真琴は数珠を高く掲げ、詠唱を始めた。


「過去の怨念は過去に還れ。未来の命を脅かすなかれ」


彼女の周りに光の輪が広がり、部屋の中の黒い影が揺らめき始めた。


「供養とは、ただ霊を成仏させることではない」真琴の声が部屋に響く。「真実を明らかにし、残された者の平安を守ること」


茜の霊が真琴に近づき、彼女の肩に手を置くように見えた。その瞬間、真琴の体から強い光が放たれ、黒い影が消え去った。


「光の養父が持っていた機密情報は...」茜の声が部屋に響いた。「大阪の第七倉庫に隠されています。そこに全ての証拠があります。」


光と美奈は言葉を失って立ち尽くした。


倉橋が前に出て言った。「私が調査します。真実を明らかにして、二人を守ります」


茜の霊はゆっくりと頷き、二人の子供たちに最後の視線を送った。そして、まるで朝靄が晴れるように、その姿は徐々に薄れていった。


「ありがとう…」最後の言葉を残し、茜は完全に姿を消した。


真琴はゆっくりと床に膝をつき、深く息を吐いた。


「終わりました。茜さんの未練は解消され、成仏しました」


窓の外では、夜明けの光が静かに広がり始めていた。





エピローグ


一週間後、真琴は自宅の「供養堂」と呼ばれる小さな祠の前に座っていた。彼女の右手は、まだ完全には感覚が戻っていない。


「代償は大きかったようね」


声の主は、真琴の助手を務める老婆・鶴子だった。供養人の能力を持たないが、霊的な知識が豊富な彼女は、真琴の数少ない理解者だった。


「佐伯さんはどうなった?」真琴は尋ねた。


「弟子の夏希から連絡があったわ。佐伯さんは兄のドナーになれるそうよ。そして倉橋さんが見つけた証拠のおかげで、養父母の事件も再捜査されるとか」


真琴は安堵の表情を浮かべた。「良かった…」


鶴子は心配そうに真琴を見つめた。「でも、あなたはもう限界よ。これ以上供養を続ければ…」


「それが供養人の宿命です」真琴は静かに言った。「私は霊の未練を解消し、彼らを正しい場所へと導く。それが私の使命」


彼女は立ち上がり、祠の中の小さな鏡を見つめた。そこに映る自分の姿は、以前より一層憔悴していた。そして、彼女の瞳の灰色は、より深く、より暗くなっていた。


「供養人は、最終的に自らも供養される運命にある」真琴は呟いた。「でも、その時はまだ来ていません」


彼女の携帯電話が鳴った。新たな依頼だ。


「綾瀬です」彼女は電話に出た。「赤い手の痕…ですか?」


真琴は窓の外を見た。雨が降り始めていた。


黒い雨の中、新たな供養の旅が始まろうとしていた。


【終】

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