香炉峰の雪のように、地獄を眺めていたいだけ
由田 甲
プロローグ:日課
でも、あえて真冬に雪山へ行くのはどうかしてる。そんなの清少納言もノーサンキュー、どころか「いと変態なるもの」とか書くんだろう。
見るのはオシャレ、行くのはヘンタイ。
僕は見ているだけでいい。
ちなみに、これは雪山の話じゃない。
* * *
昨夜の地獄絵図は、南アフリカ共和国だった。
ヨハネスブルク、O.R.タンボ国際空港、午後5時。
悲劇の主人公は日本人のビジネスマン。地味なスーツに地味なネクタイ。彼は空港を出てタクシーを拾う。
でも空のタクシーが来る前に、ひとりの巨漢がやってきた。そいつは、ナイフか
巨漢が何か言ってるけれど、
巨漢はイラ立ってビジネスマンの腕を軽く突き刺し、彼は電気ショックを受けたようにビクッと
そいつが時計をキャッチしてる間に、脱兎のごとく逃げだした。
わざわざビジネスで危険地帯に来るだけあって、現地のルールをみっちりと学ばされたらしい。彼は運よくタクシーを見つけ、跳び乗った。
そのころ、同じ街の別の場所で、カナダ人のバックパッカーが強盗に襲われた。彼は抵抗したため、鉈で右手の中指と人差し指を切り落とされていた。
世界の良いところを見に来た彼だが、この国を甘く見ていたらしい。でも不幸中の幸い、指と財布を盗られただけで、命は取られず、そのうえ救急車にも乗れたんだ。泣きわめく若者を乗せて、救急車は走りだした。
ビジネスマンを乗せたタクシーは空港を出た。彼はようやく人心地ついた。目的地に着くまでは、赤信号でもタクシーは止まらない。止まったら強盗に襲われる。走っているうちは比較的安全だ。
ビジネスマンは後部座席でジャケットを脱ぐ。腕からは血が出てる、でも傷は浅い。ハンカチを巻いた。ため息をつくと、今ごろになって体が震える。財布から家族の写真を取りだし、「ああ」とつぶやいて、すがるように見つめ、抱きしめた。
一方、救急車の中では対照的に、若いバックパッカーがわめきちらし、罵声の限りをぶちまけてた。俺の指、指がなくなっちまった、ちきしょう、クソ野郎、返せ、指を返せよ、なんでこんなところで、クソが、この世はクソだ、クソまみれの便所の国だ、とか叫んでは暴れ、救急隊員に取り押さえられていた。
ところが、しばらくすると、ビジネスマンを乗せたタクシーが止まってしまう。渋滞だ。もともと混雑していたところ、救急車が走り抜けようとしてつっかえ、渋滞になってしまった。
救急車の中では、このままじゃカナダ人の指はもう繋がらないかもしれないと、救急隊員がやきもきしていた。
タクシーの中では、ビジネスマンが悪態をついた。なんてことだ、救急車のせいで、強盗に襲われるかもしれない。救急車は人を助けるため走っているのに、そいつに殺されるかもしれない。
ビジネスマンは腕を抑え、ドアロックを確かめ、素早くキョロキョロ周囲を見回す。ヤバイのが来てないか。路上にいる連中すべてが、危険人物に見えてくる。あいつが怪しい、そいつも怪しい。くそっ、早く走ってくれ。
待てよ、なんだあいつら、車の屋根に飛び乗って、
……目が合った。
黒光りした顔に、血走った白目。彼はあわててうつむく。ちがうんだ、来るな、こっちへ来るな!
バン!と車が揺さぶられる。強盗たちがとりついて、黒い手の白い
ハンマーが振り下ろされた。窓ガラスが砕け散る。やつらは叫ぶ、「ヤパニェス! ヤパニェス!」
…………
「
僕は目をつむったまま、布団の中で自分自身を抱きしめた。
まぶたを開けたら、いつもの部屋。
暗がりで、雑誌の美少女が笑ってる。
なんて静かなんだ。平和ばんざい。美少女ばんざい。
おやすみなさい。
僕は眠る前に、安全で平和に生きているのを
ヨハネスブルクにうごめく犯罪者たち。ブラジルの刑務所の狂騒。あるいは、バンコクの裏通りや、中国の闇っ子が売買される村。アフリカのどこか、エイズに冒された娼婦と肉体労働者がたむろする不潔な売春宿。麻薬の密造現場に、船の上での密輸取引。かつては町だったシリアの戦闘地域。世界の難民キャンプ……
日本を出たことなんかない、もちろんだ。この近所からさえほとんど出ない。
だからニュースの断片、グーグルマップにウィキペディア、情報を集めて
そこには必ず主人公がいる。
彼/彼女は、いつも理不尽な運命に翻弄され、不運な終わりを迎える。デタラメ世界の実験動物、危険な事例を教えるダミー人形。
昨夜もまた、僕の脳内の南アフリカで犠牲者がでた。
まったく可哀そうだけど、ただの空想。安心だ。
そうして残酷な世界にさよならを言い、柔らかな布団の温かさをしみじみと感じて、平和に眠るってわけ。
それにしても、と僕は不思議に思う。人はどうして傷付けあうのか。やめればいいのに、彼らはやめない。やめたかったらやめるはず、なのにずうっと続いてる、きっとやめたくないんだろう。
「それが世界の選択か」ってこと。なぜかは分からないけれど、世界はいつもそのように
ちょっと前まで僕は不眠症で、医者に薬をもらってたけど、これが体に合わなかった。一日中、なんだか頭がぼーっとして、いいことなんか全然ない。これは新しい薬ですよとか言われたって、薬なんか飲むもんじゃない。
医者の話じゃ、『寝る前の数時間はPCなど見ずに「リラックス」するのがいい』らしい。そこで僕は、僕なりの「リラックス」を見つけた。
窓辺で降りしきる雪を見てお茶を飲むのは素敵だ、とても落ち着く。みんなだってそうだよな?
そうして平和な朝を迎え、僕は工場へ働きに行く。
派遣労働者なんだ。
(続く)
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