第2話 スカウト
数時間後の夕方。アルバイトを終わらせたペトロは、デリバリーバッグを背負ったまま、名刺に書いてある事務所へ向かった。
住所は、中心街から南下した、ネオクラシック建築の五階建ての
この辺りの建物は形も色も同じなので、ペトロはスマホの地図アプリを頼りに探し、キャラメル色の扉の建物の前で立ち止まった。ここが、目的地のようだ。
二つある扉のうち、左の扉の前に掲げられている小さな看板と、名刺の社名を照らし合わせたペトロは、呼び出しブザーを鳴らした。するとすぐに扉が開き、先程と同じスーツとメガネ姿のユダが、爽やかな笑顔で出迎えた。
「いらっしゃい。お待ちしてました」
「どうぞ入って」と促されたペトロはオフィスに入り、奥の応接スペースに通され、合皮の黒いソファーの横にバッグとヘルメットを置いた。顕になったブロンドは、照明に当たると旭光の色に近く、前髪と横に癖毛がぴょんと跳ねている。
座ると、さっきと同じ色のカーディガンを着たヨハネが、コーヒーを出してくれた。縁に花柄が描かれたカップから、香ばしい中に、苦味と酸味を感じる香りが鼻腔を通る。
コーヒーカップに手を伸ばす前に、向かいにユダとヨハネが腰を下ろした。堅苦しい雰囲気はなく、話はフランクな感じでお互いの自己紹介から始まった。
「さっきは不躾に声を掛けてしまって、すみませんでした。改めて、私は使徒で、この
「同じく僕も使徒で、事務所の副社長兼事務の、ヨハネ・モランです」
ヨハネからも、名刺を渡された。にこやかなユダに対してヨハネは真顔で、まるで取引先と対面しているような姿勢だ。
ユダは無地のコーヒーカップに口を付け、ペトロの名前を尋ねる。
「きみの名前は?」
「ペトロ・ブリュールです」
「ペトロくん、か。見た目が中性的だから、
「よく間違われて、ナンパされます。間違われ過ぎて、もう軽くあしらえるようになりましたけど」
ペトロは呆れを通り越して、気疲れした様子で答えた。
「使徒が、自ら会社をやってるんですね」
応接スペースの隣のオフィスには、デスクトップパソコンが乗ったデスクがコの字に三つ並び、コピー機など事務用品が揃えられている。
パキラなどの観葉植物も所々に配置され、壁には、街中で見たことのあるシューズメーカーや、チョコレート専門店のポスターも飾られていた。
「ご存知の通り、ありがたくも世間から認めてもらえているおかげで、企業の商品イメージキャラクターに起用させて頂いていますから。仕事の受け皿を用意するために、自分たちで環境を整えたんです」
「二足のわらじ、大変そうですね」
コーヒーにミルクだけを入れて飲んだペトロの言い方は、他人事丸出し。上辺感が半端ない。
「そうでもないですよ。飽くまで使徒としての役目が、私たちの最優先するべきことなので、広告の方は支障が出ない程度にセーブしてます」
「それで。オレに話って、何ですか。まさか、芸能活動に誘おうとしてませんよね?」
「いずれは、と思いますが。声を掛けた理由は、他にあります」
それまで、にこやかに話していたユダの表情が、真剣なものに変わった。
「
唐突に言われたペトロは驚いて、コーヒーカップを口に持って行こうした手を止めた。
「オレが、使徒に?」
「ペトロくんには、その特性があります。さっき守護領域内にいたことも、その証明です」
ペトロは、カップをソーサーに置いた。
守護領域内は、悪魔と使徒しか立ち入ることができない仕組みになっている。それは、一般人が巻き込まれ、不要な犠牲が出るのを防ぐためだ。
だから使徒になれると言われたペトロだが、たったそれだけの理由で……と、戸惑うばかりだ。
「でも、そんなことで……」
「それだけが特性だと、言っているわけではありません。……それでは。私たちが戦っている理由とその術を、説明します」
ヨハネはひとまず説明をリーダーのユダに任せ、ペトロの反応を窺った。
「数ヶ月前から、このベツィールフに悪魔が現れ始めているのは、ご存知の通りです。悪魔たちは、過去に過酷な経験をして心に深い傷を負った人───つまり、トラウマでその魂を濁らせた人間を狙って憑依し、負のエネルギーを貪っています。神から力を与えられた私たち使徒は、悪魔から人間の魂を守るために戦い始めました。憑依する悪魔を祓い、憑依された人の魂を浄化するために……。ペトロくんは、何度か私たちの戦いを見たことがありますよね?」
「はい。今日以外にも」
「じゃあ。どうやって戦っているかも、何となく?」
「魔法みたいな力と……。武器を使ってますよね」
「そう。戦闘方法は二つあります。一つは、力で悪魔を弱体化させる方法。もう一つは、悪魔を祓う時に武器を使います。私たちはその武器を、『ハーツヴンデ』と呼んでいます」
「『ハーツヴンデ』……」
「ハーツヴンデは、自身の中にあるトラウマを具現化させたものです」
「トラウマを?」
「僕たちもそれぞれ、過去に巻き込まれた出来事によってトラウマを抱えている。その力を具現化させ、人々を救う武器としているんだ」
ヨハネはユダの説明を補足するように、使徒の真実を教えた。まだ他人事のように話を聞いていたペトロは、それを初めて知り、碧眼を少し大きくさせた。
特別な力を持った使徒は、選ばれた者たちだと思っていた。それに間違いはないが、自身のトラウマを力に変換するという戦い方をしているなんて、考えもしなかった。
「本当に、そんなことを……」
「ヨハネくんの言った通りです。ペトロくん。きみにも、思い当たることがありませんか。思い出す度に身体が震えたり、胸が握り潰されるほど苦しかったり、どうしようもなく悲しくなる記憶が」
問われたペトロは、目を伏せた。
脳裏に記憶の断片が走ると、無意識に身体に力が入って拳を握った。そして、暴れようとする気持ちを落ち着かせようと、ゆっくり浅く深呼吸をした。
「私たちは、一度嫌というほど苦しめられた人々を、再び苦しめる悪魔を許さない。平穏を生きる人々の心を掻き乱すのを、見過ごさない。話を聞いて同じように考えてくれるなら、仲間になる検討をしてほしいんです」
「けれど。戦闘には苦痛が伴うことも、承知しておいてほしい」
ヨハネは、使徒の戦闘におけるデメリットも包み隠さず明かした。
「苦痛?」
「救う人によっては、自身の傷を刺激することになるんだ。悪魔にこちらの心の内を悟られて、攻撃されることはないが、避けて来たものと向き合う覚悟が必要になる」
「向き合う覚悟……」
ヨハネが醸す真剣な雰囲気につられるように、ペトロもにわかに緊張を滲ませる。
その機微を感じたユダは、再び微笑を浮かべ、空気を穏やかなものに変えた。
「ちょっと怖がらせてしまったかもしれませんが、きみだけに危険な戦いを強いるわけではないので、安心して下さい。どんな状況になっても、一緒にいる仲間が必ず支えます。それに。戦うことで、自身の“弱み”が“強み”となる可能性もある。怪我をすることはありますが、決して悪いことだけではありません」
「あんたたちは、今までそうやって戦って来たんだよな」
「そうだ。今言ったように、キツいこともある。けど、これまで誰一人として抜ける仲間はいなかった。それが、使徒として戦う上で保証できることと言ってもいい」
ヨハネは、仲間の絆の存在を言葉だけで示した。その声音だけでも、使徒の仲間同士の信頼感は感じ取れた。
「それらを承知で私たちの理念に同意してくれるのなら、一緒に戦ってくれると心強いです。苦しめられる人々を、どうか私たちと一緒に救ってほしい」
ブラウンの瞳に静かな熱意を込めて、ユダは訴えかけた。
ペトロは視線を下げ、考え込む。温度が下がり湯気がなくなったコーヒーと、見つめ合う。
そして。しばらく沈黙したのち、口を開いた。
「使徒の特性があるとか言われても、実感湧かないし、自分が戦うとか想像できない……。でも。オレにも、忘れることが許されない過去がある。それを、周りの人や、自分のために生きる力にできるなら……」
「それじゃあ……」
「だけど。もう少し、考えさせてほしい」
唐突な話に困惑したペトロだが、持っているトラウマがマイナスの生きる力ではなく、誰かを救うことでプラスの力に働くことにはいい印象を抱いた。けれど、仲間になることは、今一度よく考えたかった。
「わかりました。よく考えて下さい。いい答えを待っています」
たわやかに振る舞うユダは、無理に引き入れようとせず、最後までにこやかだった。
その数日後。ペトロは、使徒になることを決意した。
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