第4話 塾講バイト
結局、シャワーを浴びることなくバイト先の個別指導塾に着いてしまった。今日私が見てあげる子は今年受験生らしい。バイトを始めて、まだそう時間は経っていないのに責任重大である。
「こんにちは。今日もよろしくお願いします」
「こんにちは。こちらこそよろしくね。まだ君が担当する子は来てないから、ゆっくりしてていいよ」
バイト先の塾長さんへの挨拶は欠かさない。若いスーツの男性がここの塾長さんだ。これから長いことお世話になるだろう。
火、水、金、土の週に四日間シフトを入れてもらっている。月曜と木曜は一応サークルの活動日となっているためシフトは外してもらった。
まだ担当の子が来ていないとのことなので、お言葉に甘えて休ませてもらおう。
「なんか汗かいてるね? 走ってここまで来た?」
やっぱりシャワーを浴びてから来るべきだっただろうか。電車に乗っている間に多少汗は流せたと思っていたのだが全然そんなことはなかったらしい。
「ええ……まあ、友人と追いかけっこしてまして……」
「追いかけっこて。本当に大学生?」
塾長さんが苦笑しながらツッコミを入れる。私だって大学生にもなって追いかけっこすることになるとは思わなかった。
「だって友人が私の寝顔を盗撮して、その写真がほかの人に見られるかもしれなかったんですよ? 追いかけっこにもなりますよ」
「理由くだらないね……でも確かに、柳さんの寝顔には興味あるかもだ。……待って。今のセリフ、セクハラになったりする?」
塾長さんが真面目な顔で変な心配をしていた。確かに昨今はなにかとコンプラが厳しいが、さすがに今の発言でセクハラ認定は無理があるだろう。
「なりませんよ。心配のしすぎです」
「いやー分からないよ? 最近の世の中、何が地雷になるか分かったもんじゃない。気を付けて発言しないとなぁ……」
どうやら社会は私が思っている以上に世知辛いらしい。心なしか塾長さんの表情が曇っているように見える。そんな会話をしていると、塾の扉が開かれた。
「こんにちは~。柳先生と塾長さん、なんか楽しそうに話してましたね。何話してたんです?」
入ってきたのは私の担当している女の子。今年中学三年生の受験生。
「まあ、中学生にはまだ早い話です。それよりもほら、柳先生との授業が待ってますよ」
さすが社会人、流すのが上手い。
「ちょっとくらいいいじゃないですか~。柳先生は教えてくれますよね?」
前言撤回。全然流せてなかった。なんなら私に流れ弾が飛んできた。
「うーん、じゃあ君が今日の授業頑張ったら教えてあげようかな」
「なんか上手いこと釣られた……じゃあ今日はいつもより頑張っちゃおうかな」
私の方が流すの上手かった。
彼女の言葉に嘘はなく、本当にいつも以上に張り切って私の授業を聞いてくれていた。教えている科目は英語なのだが、いつも以上に出来がいい気がする。
受験生ということで、意識も変わっているのだろうか。一コマ九十分の授業を、ほとんど集中を切らさずに取り組んでくれていた。
「はい、じゃあ今日はここまでだね。いつもよりずっと調子よさそうだったし、この調子で頑張ろう」
「は~い。じゃあ柳せんせ、約束。授業の前何話してたか聞かせて?」
ちゃんと覚えていた。あわよくば流れで忘れないか、とも期待していたが、中学生の記憶力を舐めるべきではなかった。
それから、次の授業が始まるまで私は今日あったことを話した。授業中に寝てしまって寝顔の写真を撮られたこと、それを巡って追いかけっこしたこと、その後のコンプラの話は必要ないと思ったからしなかった。
「柳せんせって授業中寝るんだ……ちょっと意外かも」
「私だって今日が初めてだよ? 授業中に寝たの」
これまでは授業中に寝るなんてありえないことだと思っていたが、今日寝てしまったせいでもう何も言えなくなってしまった。今なら授業中に寝ていた人たちの気持ちが分かる。
「んー、でも残念だな~。私も柳先生の寝顔を写真に収めたかった」
なぜ私の寝顔はこんなに人気なのだろうか。この話をする度に寝顔を見たかったとか、写真に収めたかったとか言われている気がする。
「やめなさい。あと、お金払えば写真あげるよ~、みたいなことを言う人に会ってもお金出しちゃだめだからね」
なぜか私の寝顔を売ろうとしているえりちゃんの姿が頭に浮かんだので、一応釘をさしておく。それで本当に売れていたらたまったものじゃない。
「いや、そんな怪しい人いないでしょ。疲れてるの? 柳せんせ」
すごい真顔で心配された。
だって売りさばく可能性のある人間が一人いるから……。
そこまで話した頃には、もう休憩時間も終わりそうだった。時間を理由にして強引に話を切り上げてしまおう。
「ほら、もう休憩時間終わるから次の準備をしなさい」
「なんか強引に流された……まあいっか! 面白い話聞けたし!次の授業も頑張っちゃおうかな!」
強引に流したことには気づかれたが、やる気を出してくれたのでOKだろう。
その後の授業も、彼女の調子は良いままだった。彼女がどこの高校を目指しているのかは知らないが、この調子ならある程度のところまでは行けるのではないかと思う。
そうして、授業が終わる頃には外も暗くなっていた。今塾に残っているのは私と塾長さん、あとは同じようにバイトをしている講師たちだけである。今日の彼女の様子を簡単にまとめて、塾長さんに提出した。
「はい、お疲れ様です。どれどれ……今日は彼女の調子、すごく良かったんですね。何かしたの?」
「いえ、特に……。休憩時間に、今日の大学の話をしたくらいですかね」
「あ、結局あの話したんだ。それでこんだけ調子よくなるなら、毎回なんか面白い話持ってきて欲しいけどな~」
「無茶言わないでくださいよ、狙ってできる訳じゃないんですから」
「ま、それもそうだね。とにかく、今日はお疲れ様~」
でもできるだけ面白い話持ってきてね~、なんて塾の扉を出る直前に言われた。
狙ってできるものじゃないって言ったばかりなのに……。
今日は何か色々あった気がする。
先輩にビンタしたり、えりちゃんと追いかけっこしたり、塾長に無茶ぶりされたり……くだらないことばっかりだな。
大学生なんてこんなもんか、と思いつつ帰路につく私であった。
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