第一章 ことの始まり①

 五十万円。


 それが、たった一時間の実験に協力するだけで得られる報酬だった。


 破格である。急に大金が入用になった身としては、有り難いことこの上ない。


 何の実験かは聞かされていない。何も聞かないことが条件の一つなのだ。


 ついでに言えば、この仕事を持ちかけてきた相手の正体も定かではなかった。


 金策に悩み高校からの帰りに駅の無料求人誌を手に取った際に、声を掛けられただけの関係なのだ。


 新村にいむらと名乗った男は聞き覚えのない研究所の職員だと告げてきたが確かめる術はない。


 さらに言えば、実際に目にした装置も意味不明の代物だった。


 実物を見てからでも、と案内された雑居ビルの一室の中央には、奇妙な椅子が鎮座していた。


 椅子は無骨な木製で、拘束用と思しき革のベルトが要所に備え付けられている。背もたれには被れば目元まで覆ってしまうヘルメット状の機器が据え付けられていて、そこからリモコンと思しき装置が有線で接続されていたが、何のためのものかは想像できない。


 一応、この実験は法律で保障されているいかなる権利を侵害するものではないと聞かされてはいたが、それは嘘でこのまま拉致され臓器を抜かれる可能性もゼロではないと思う。


 だが、一応は世間一般の常識から外れた術を引き継ぐ身である。


 仮にそうなったところで問題なく切り抜けられる自信はあった。


 その際は返り討ちにした後、時給分は財布から抜いても罰は当たらないだろうと考えたが、今は亡き両親の教えと我が身に及ぶ様々な社会的制約を思い出して考えを改める。


 ただ、そこまで考える一方で、本当に報酬を得られる可能性もゼロではないと考えていた。


 世の中には永久機関や万病に効く治療装置を発明できたと本気で主張する人間がいることは知っている。彼がその類いなら、その妄想に付き合って報酬を得るくらいは許されるはずだ。  


 そして今──俺は拘束を受け入れ、謎の装置を頭から被り、実験の開始を待っていた。


「それでは、これより実験を開始します」


 右手から新村が落ち着いた声で告げてくる。


 被せられた装置のせいで姿は見えないが、年の頃三十程度の、特徴がないことが特徴のような、茫洋とした印象の男の姿が思い出される。


「アシタニマサオさん、よろしいですか?」


「はい」


 適当に騙った偽名で確認を求めてくる新村に、短く答えを返す。


 この偽名は本名の芦屋珠雄あしやたまおをもじったものである。


 本名と違いすぎるととっさに反応できなくなると昔読んだ小説にあったことを思い出しての対応である。ついでに発音だけだと女の名のように聞こえる下の名前は──幼い頃に珠緒という女性名があると知ったときは本気で衝撃を受けた──低めの身長と並ぶ密かなコンプレックスだったので、あえて男らしいものにしてみた。


「では、処置を行いましょう」


 男がそう言ったのとほぼ同時に、装置を操作する音が聞こえる。


 頭に被せられた装置が重低音を発し、次第に意識が遠のいていく感覚に襲われ──完全に意識を失う寸前に、カチリとスイッチを押す音が聞こえたような気がした。


    ◇


「──が確認できました。おめでとうございます。これで実験は成功しました」


 朦朧とする意識の中、新村の声が耳に入ってきた。


 気の利いた言葉でも返してやろうと思ったが、尋常ではない倦怠感が全身を包んでいて、気を抜くと意識を失いそうになる。舌を動かすこともできない。


 だが──


「喜ばしいことだな」


 俺の代わりに野太い男の声が新村に答えた。


 被せられた装置のせいでその姿を窺うことはできないが、新村の言葉はいつの間にか現れた謎の男に向けられてのものだったらしい。


「それでは、約束のものをお引き渡しいただけますか?」


「まあ待て。これから用意する」


「……それは約束が違うのでは?」


「いくら私でもあれを持ち出すのは容易ではない。立場さえ危ぶまれる。最低限の確認も済んでいなかった状況で動けというのは酷というものだろう」


 僅かに険を帯びた新村の声に、謎の男は尊大な声で言葉を返す。


「二度目ですよ、これで」


「これが最後だ。安心しろ、約束は守る。そうだな──十日待て」


 傍から聞いても、著しく信義にもとる発言だと思う。


「わかりました。よろしくお願いします」


 だが、新村は意外にも、それに応じた。


 一体彼らは何を話しているのだろう。疑問に思うが意識が遠のいていく。


 抵抗する意思さえも、身体を支配する謎の倦怠感に飲まれ──再び思考は闇に落ちた。


 そして──新村に起こされ、拘束を解かれたときには既にもう一人の男の姿はなかった。


 一体あの男は何者だったのか。先程の装置はどういったもので、俺を実験台にすることで何を確かめたかったのか。本当に身体に悪影響はないのか。


 様々な疑問が頭に浮かび、新村を問い詰めたい衝動に駆られたが、何も聞かないことも含めての報酬であったことを思い出して、結局は何も尋ねず報酬だけ受け取って雑居ビルを去ることにする。


 渡された茶封筒に入れられた、五十枚の諭吉の厚みはどこまでも現実的かつ説得力のある報酬だったが──自分が何を代価にそれを得たのか理解できないことは、想像以上に思考に影を落とし、素直に喜ぶことはできなかった。


 だが、いつまでも悩んでいても仕方がない。


 気分直しに本でも買って帰ろうと思う。確か今日は先が気になっていたSF小説の下巻の発売日だったはずだ。

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