砂時計の嘶き、午の燐火

白い願いと赤い厄

白い願いと赤い厄



 この光景も慣れた。

 今年が最後になるかもしれないけれど……割りの良いバイトには違いない。

 それに……ちょっとした『ミス』も相まって、わたしと翠(みどり)は内心でほくそ笑んでいた。



 元日――。



 神社の境内には長蛇の列ができている。

 朝から、ずらっと初詣の参拝者が並ぶ。

 わたしは社務所で天照大御神のお札や交通祈願のお守りを販売していた。

 赤と白の巫女服を着て、アルバイトで集まった女の子たちに混じってお金を受け取り、札を渡す。

 高校生の子もいれば、社会人の人もいる。

 みんな巫女装束を着て「新年おめでとうございます」と言いながら札やお守りを渡す。

 わたしはお守りを渡しながら、すごいよな、と思う。

 こんなお札ひとつで安産を得られるわけでもないし、交通事故に遭わない確約になるわけでもない。

 それなのに、みんなはポンポンと千円札を財布から出して買っていく。


「えっとね、うちは三人家族だから……交通安全のお守りを三つと安産祈願をひとつ。上の娘がね、二月に出産なのよォ……あっ、あと天照大御神と氏神さまのお札ね」

「ありがとうございます。六千円になります」

「じゃあ、はい。一万円――」

「こちらが、お釣りになります。よい一年を」


 そう言ってわたしはほほ笑む。

 地元で洋品店を営むおばさんは、上機嫌で帰っていく。

 ちらと翠に目を向けた。

 別の客と応対していた彼女も、一万円を受け取ってお釣りを渡したところだった。

 愛想よく、彼女も笑う。

 それを見て、心の底から思ってしまう。



 ――宗教って、チョロいわ。



 服を買うにも、鞄を買うにも、靴を買うにも……。

 一万円を支払うことに抵抗がある。

 これは果たして、一万円を支払ってまで購入するべきだろうか。

 買ったはいいけれども、着ない、履かない、使わない。

 よくあることだ。

 だから、わたしは物を買う時には慎重になる。これはお母さんも一緒だ。

 三枚で千円とか、そういうものを量販店で買う。

 みんな節約しながら、家計の事を考えて日々を生きている。

 だからこそ、バイト代が入った時は買いたかった化粧品やブランドものの靴を慎重に選んで買う。どうしてもこれが欲しかった。三か月も我慢して、やっと買えた。そのときの喜びはひとしおだった。

 翠はそういう『アイテム』を鋭く見つけて「うわっ、買ったんだ、それ!」と言ってくれる。

 彼女とはウマが合う。

 だからこそ、幼いころからずっと交流が続いているのだ。

 そうした金銭的な価値観は、今日の異常性に少なくない疑問を投げかける。

 普段は来ない神社の社務所で、なんの効果があるのかもわからない札やお守りに数千円や一万円を支払う。

 彼らが支払ってくれる代金が、わたしのバイト代になるのだから――感謝はしている。

 けれども、四年前に弟が交通事故で死んでから、こんな札になんの効果もないし、神様も仏さまも(いたとしても)守ってくれないのだと『理解』した。

 新年になったら手を合わせて、お賽銭を投げて、お札を買っていく人たちが滑稽に見える。

 あなた達がどれだけ必死に願っても、なんの効果もありません。

 もし効果があるのなら、多額のお布施や高価なお守りを飾っているヒトに多大なご利益があるはずだ。現実はそうなっていないのだから、このような年始の儀式に意味なんてない。

 わたしはちらと翠を見る。

 彼女はわたしの視線に気づいて、ニヤッと笑う。

 同じなのだ。

 翠とは同じ地元の友達だ。

 小学校も中学校も、そして高校も違う。

 町内会のお手伝いで八歳のころから神社の催しで顔を合わせていた。

 学区がニアミスしているだけで、地元が同じことに変わりない。

 中学生のころに通っていた地域の進学塾では一緒だったし、仲のいい友達のひとり。

 年末年始の神社でのバイトも、翠と一緒だからやっている。

 高校一年生のころからだから、今回で四回目だ。ちょっとした雑務なら、小学生の頃からずっとだから……神社のお手伝いという意味では、結構なベテランになる。

 そんなベテランなわたし達は、まったく神仏を信じていない。

 わたしは弟を交通事故で。

 翠は父親が別の女のところへ。

 お正月に敬虔な祈りを捧げていたのに、相応の不幸が降って来た。

 だから、わたし達は神も仏も使えない連中だと思っている。

 こんな不心得者が、なぜアルバイトとして採用されたか。それは昔から雑務をやっているという地域のよしみに他ならない。

 神主の小山田(おやまだ)が「今年も頼めるかね?」と母に言い、母から「今年も神社でバイトするでしょー?」と問われる。「するー」とコトバなりチャットで答えれば、わたしも翠も年末年始はバイトの予定が入る。

 臨時の、稼ぎの良い、なぜか憧れを持たれる巫女のバイトが。


 それに今年は――。


 ちらと翠に目を配る。

 彼女もにんまりと笑う。

 まだ小山田は間違いに気づいていないのかもしれない。

 わたし達は口頭でアルバイトに参加したが、神社が正式に告知を出している募集要項には『時給一二〇〇〇〇円』と書かれていた。


 時給十二万円――。


 そんなわけない。

 きっと千二百円のタイプミス。

 わたしと翠は事前に小山田から渡された募集要項に、そうした『ミス』がある事に気づき、お互いに顔を見合わせ、口をつぐんだ。

 本気で時給が十二万円であると信じているわけではない。

 けれども、もしかしたら……上乗せで多くバイト代を出してくれるかもしれない。そんな淡い期待があったのだ。


「アキちゃんと翠ちゃん、ちょいといいかいね?」


 物販を行っていると神主の小山田に呼ばれた。

 好々爺である小山田は「鈴木さん、ちょっとふたりを借りてもいいかい?」とイチバン年上の巫女に問いかけた。


「ええ、どうぞ。落ち着いてきたころですので」


 この問いかけに、わたしは翠と視線を結んで「きたかも」「アレの件だ」と無言の申し合わせをしていた。

 リーダーでもある鈴木の許しを得て、わたしと翠は小山田と一緒に社務所から本殿へと向かった。

 本殿にはお供物や地域の企業や地主から預かった奉納品が所狭しと並べられている。

 新年の祈祷についても、まだ定刻ではない。


「なんだろうね。新年の祈祷前に、いっかい掃除してほしいとか?」

「うえー、昨日したじゃん!」


 隣を歩く翠の言葉に「掃除やだなあ」とわたしは呻いた。

 社務所から外廊下を歩き、本殿へと続く階段の手前で小山田は立ち止まった。


「掃除じゃなくてね、もっと大切なことをやってもらいたいんだ」

「もっと大切なこと……?」


 小山田はこっくりと頷いて、台に乗せられた真っ赤な銚子と杯を示した。

 翠が「うわっ、やっぱそうだよ」と言って、わたしの肘を小突いた。


「ほら、地域のお偉いさんが本殿にいてさ。わたしらみたいな若い女の子と酒盛りするわけ。で、新年早々に、あーでもない、こーでもないって……あっ痛っ!」

「しょーもないこと言ってないの! そんなわけないじゃん」


 バカっぽい翠の発言を制しつつ、わたし達は小山田から杯を受け取った。

 その流れで小山田はお銚子を傾ける。


「えっ、小山田さん……?」

「もうふたりとも大人だろうから、飲んでも平気だろうと見込んでね。ただ、翠ちゃんが心配しているような事じゃあ、ないよ。これを飲まないとできない仕事なんだ」

「それって、儀式みたいなものですか?」

「神事だからね。すごく大切な」


 お神酒で身体を清めてから挑む神事だろうか。

 わたしは翠と杯を交互に見て「あんまり、お酒が強くないんだよなァ」と呟く。


「いいじゃん、ちょっとぐらい」


 翠はぐいと杯のお神酒を飲み「ぐうー」と顔を顰める。

 わたしも彼女に倣って、お神酒を煽った。

 独特な風味と鼻に残る鋭い匂いが、お正月の冷たい空気をさらに際立たせた。

 甘酒のようなまろやかさではなく、もっと凛とした氷のような匂いだった。一方で喉から胸元にかけてカッと焼けるような熱さが広がる。


「ううっ、やっぱりお酒だ」


 わたしが呻いたとき、小山田はお銚子を差し出してきた。


「お使いなさい」

「つ、使う……?」


 わたしと翠、それぞれにお銚子を差し出す。

 いや、こんなにたくさん飲まないし。

 そもそも使うってなに……?

 先ほどまでの好々爺とは少し違う、暗い雰囲気の表情を見せた小山田は「では……」と本殿へと続く階段を登る。

 それは正面ではなく、側面から本殿へと登る外階段である。

 お酒のせいか、少しだけ視界がぼやけている。

 頬が火照っている気がして、冷たい風がありがたかった。

 本殿に上がったとき、温められた木材や着物の匂いがムッと全身を貫いた。


「えっ……」


 そこには、十名ほどの巫女が一心不乱に透明な形代のようなものを木箱に仕分けていた。

 透明な絹のような小さな形代を右の箱へ、次の形代を左の箱へ……と作業をしている。

 それがなんなのか。

 どんな意味があるのか。

 小山田は「おふたりは、こっちへ」と座に案内してくれる。

 わたしと翠は夢見心地なふわふわとした意識で、少し汗ばむような熱気のこもる本殿を進んだ。

 本殿の向こう側には、賽銭箱があり、その向こう側には参拝客が二礼二拍手で手を合わせている。

 きらきらとラメのように光る透明な形代が、見慣れない巫女の手元にするりと現れる。それを彼女は手早く右の青いシールが貼られた木箱へ。左には赤いシールが貼られた木箱がある。


「願いを聞き、叶えたいものは青い箱へ。叶えるべきではないものは、赤い箱へ分別するのです」


 小山田はそう説明したが、わたしは「えっ、えっ……」と戸惑ってしまった。

 なにを言っているの――?

 叶えるべきものは青い箱で、叶えないものは赤い箱――?

 ちょっとなに言ってるの、それ。

 小山田に声をかけようとしたが、うまく声が出なかった。

 まるで夢のなかにいるように全身が重く、身体の自由がきかない。


「……はい、そのように致します」


 翠はそう答えて、用意された座に正座をした。


「ねえ翠ッ……どうしちゃったの!」


 わたしは必死に問いかけたが、虚ろな目をしている翠は「願い、頂きます」と口にして、掌を擦り合わせて、くるりと返す。

 するとほかの巫女たちと同じように……きらきらと光るラメのような絹の形代が現れた。それは短冊のようにも見えたし、ヒト型のようにも見えた。

 一つ目の形代を青い箱へ入れ、また掌をくるりと返して『願い』を手元に手繰り寄せる。

 わたしは翠の身体を立ち上がらせようとしたが、重量がずんと身体にのしかかったみたいに座布団へ押し付けられた。

 したくもない正座をして、翠のように手を差し出す。

 冷たい新雪のような手触りのする形代が現れ、耳の奥で願いの声が響く。

 それは参拝者の心の声であり、形代に刻まれた想いだった。


『左肩の痛みが取れますように――』


 女性の声。そんなに若くない。

 わたしは「いいじゃん、そんなの叶えてあげてよ」と青い箱に入れる。

 すると別の形代が現れる。


『××大学に受かりますように』


 いいじゃん、受からせてやんなって。

 青い箱へ。


『世界征服したいっ!』


 あほか、このガキッ!

 赤い箱へ。

 わたしは憑りつかれたように手を動かした。

 額や頬から玉の汗が流れる。

 遠くでボイラーのような暖房器具が、薬缶をカタカタと鳴らしながら熱気を放っているような気がした。

 本殿の畳の上で、わたし達は一心不乱に参拝者の願い事を仕分けしていく。

 これは叶うべき、青の箱に。

 これは叶えることはできない、赤の箱へ。


 喉が渇く。


 お銚子を丁寧に持ち、杯にお神酒を注いでぐいと煽る。

 つんとした清酒の舌触りが鼻に抜ける。

 どくん。心臓が脈打つ。

 どれぐらい、わたし達は参拝者の願い事を仕分けていただろうか。

 次から次へと途切れることのない人々――。

 ひとりひとりから、年始の願いが放たれる。

 膨大な数の『願いごと』が、わたし達の審査を経て木箱に仕分けられる。

 意識が急激に回復したのは、聞き覚えのある声に気づいたからだ。


『峰岸くんと付き合えますように!』


 その声は中学時代の同級生――広瀬美沙だった。

 三年間も同じクラスで、たいして仲のいいクラスメイトじゃなかった。

 陰鬱な感じの女で、妙にデカい眼鏡をかけていた。

 勉強が出来るわけでもなく、運動神経がいいわけでもない。最初はバスケ部に入っていたのに、いつの間にか手芸部に転部していて……なんかダサいやつだった。

 そんな広瀬が、必死に手を合わせて『峰岸くん、峰岸くんが好きなの。付き合えますように!』と願っていた。

 彼女は眼鏡をかけておらず、メイクでぱっちりとした目を強調している。

 カラコンも入れているのか、少し瞳が大きく見えた。

 色白で鬱屈していた雰囲気が、白い雪のような美しい肌と女々しい柔らかさに満ちた『女性』になっていた。

 わたしは峰岸という人物は知らない。

 べつに付き合えるなら、付き合えばいい。

 素直にそう思いたかったのに――。

 自分よりも美しい女性になっていた広瀬にハッとして、その願いを赤い箱へ仕分けた。

 願いの叶わない、赤い箱――。

 広瀬に恨みがあるわけじゃない。

 でも、広瀬がわたしよりも幸せな日々を送るのは……なんか悔しかった。

 卑屈な思いが胸に宿る。

 そうだ、いまのわたしは『願い』を思いのままにできるんだ。

 ひんやりとした形代が手元に現れる。


 次の願い。


『今年こそ、東京大学に合格できますようにッッッ!!!』


 知らない男の願いを無意識に赤い箱へ入れた。

 来年も頑張れ、浪人生――。


『お父さんが歩けるようになりますように』


 ごめん、歩けないよ、今年も――。赤い箱へ。


『あのバカと離婚できますように! 二度と会いたくないの!』


 結婚したなら死ぬまで一緒だよ。赤い箱へ。

 次から次へとやって来る願いを容赦なく赤い箱に放り込む。

 手元に置かれていた青と赤の箱には、それなりの数の『願い』の形代が溜まっていた。

 まわりの巫女を見る。

 半々の巫女もいれば、青の箱に形代が多く入っている巫女もいる。


 翠は――赤い箱の方が多かった。


 参拝者の波が引き、本殿に朱色の夕暮れが差し込んでくると……小山田がパンと手を叩いた。


「ご苦労様でした。皆々様の働きに感謝を致します。参拝者の皆様からの『願い』は、こうして信仰の篤い巫女様によって聖別されました。皆様の寛大な心が、多くの人々の幸福につながる事でしょう」


 そう言って小山田は満足そうにうなずいた。


「では例年通り、鏡開きをもちまして巫女さまの最終的なご承認となります。出口に鏡餅を準備いたしましたので、お持ち帰りください」


 本日はどうもありがとうございました。

 小山田がそう言い、わたし達も「ありがとうございました」と声を合わせて頭を下げた。

 その瞬間に、ふっと意識が遠のいた。



* *



 目が覚めたとき、わたしは自宅のベッドにいた。

 部屋着姿でスマホが着信履歴があることを点滅で示していた。


「……翠?」


 翠から着信が入っている。

 寝ぼけ眼でスマホを持ち上げる。

 目が慣れていないのか、スマホの光が眩しく目に響いた。

 時間は深夜の三時をまわっている。

 翠からの着信は午前二時半ごろだ。


「あした、電話しよっと……」


 そう言って枕に伏して瞼を閉じたとき、奇妙な本殿での『仕分け作業』を思い出した。

 酒のツンとした感じ。

 胸に残っている清酒の気配――。

 わたしはハッとして身を起こし、スマホに飛びついた。


「翠ッ、翠ッ……ああっ、翠ッ!」


 ウソであって。

 わたしはバカな夢をみた。

 その夢が現実と地続きになっていない……。

 そうであってほしい。



 バカじゃん。アキってば、何寝ぼけてんの。しかもいま何時だと思ってるわけ?



 長いコール音のあとに、不機嫌な声で言ってほしい。

 そう願っていたのに。


『アキ……?』


 不安げな声で翠は電話に出た。ツーコールもしない、早取りだった。


「遅くに、ごめん。あの、いま起きて。電話、もらってたよね」


 心臓がばくばくしていた。


『あのさ。わたしら、バイトしてたよね。神社で』

「待って。やめて……。なんか、すごく嫌な予感する」

『ああァ……やだ。じゃあ、あの変な仕分け作業。みんなの願いの仕分け作業――』


 翠は魂が抜けていくような声で嘆いていた。

 それを聞いて、わたしも呆然としてしまう。


「――夢じゃ、なかったの?」


 ぽすん、とスマホがベッドに落ちた。

 うそじゃん。

 あんなの、うそじゃん。

 わたし、いろんな人の「願い」を叶わない『赤い箱』に入れてしまった。

 すごく単純な理由だ。


「わたし、誰かの幸せ……ぜんぶ『赤い箱』に入れちゃった」


 小山田が勧めたお神酒のせいとはいえ、あれほどまでに軽々しく参拝客の『願い』を拒絶してよかったのだろうか。

 良いわけがない。


『ねえアキ……。あれは夢だったんだよ。そうじゃなかったら、おかしな話じゃない?』


 わたしに問いかけるというよりも、翠は自分自身を説得するように電話口で言った。


「でも、わたしらがおんなじ夢を同時に見るとか、あり得るの?」

『その『あり得るの』っていうの、重要だと思わない?』

「どういう意味?」

『神社の本殿で、人間の願いを巫女が仕分けする。そんなの、あり得るの? しかも、あの感じだと青い箱に入れた願いは叶って、赤い箱に入れた願いは叶わない。そんなの、非現実的じゃん』

「そ、そうだけどさ……」


 しばらくの沈黙が漂ってから、翠は言った。


『わたしだって、俳優と付き合いたいよ。そう願って、どっかの巫女が青い箱に願いを突っ込んでくれたら、わたしはドラマの俳優と付き合えるの? なんかバカバカしいじゃん』


 うん……とわたしは頷く。


『わたしは祈ったんだよ。幸せな家庭が戻ってきますようにって。おいしくて、あったかい夕飯をパパとママと食べられますようにって。でも、叶わなかった。どっかの巫女が『赤い箱』に入れたんだよ。わたしの大切な、絶対に叶えてほしかった『願い』を!』


 翠の言葉にわたしは「うん……」と頷かなくちゃいけなかった。

 わたしだってそうだ。

 弟が事故にあったとき、わたしは神社に手を合わせた。

 たしかにお正月じゃなかったけれども……弟が生と死の瀬戸際を彷徨っているとき、どうか向こう側に連れて行かないでください、と祈った。

 むかつく弟で、よくケンカした。

 でも、死んでしまうのは話が違う。


 わたしは棺桶のなかで眠ったままの弟を前に泣き崩れた。


 祈りは通じなかった。


 願いは叶わなかった。


 神も仏もいなかった。


 翠は言った。


『カミサマなんていないんだよ。宗教なんて、意味ないんだよ。ずっとずっと前から、そうだって言ってたじゃん』


 彼女はそこで言葉を切り、意を決するような間をおいてから……続けた。


『あれは夢だった。わたし達はたくさんの『願い』を『赤い箱』に詰めた。でも『青い箱』に詰めたら絶対に叶うなんて、誰が保証してくれるの?』


 翠は電話口で正論を並べるが……。

 小山田の怪しげな表情が脳裏をよぎる。

 地域の優し気な神主とは思えない、青白い光を宿した妖しい目が……物憑きのように思い起こされた。


「あれは、夢だった」


 わたしは懸念を振り払うように声を絞り出す。


『そう、あれは夢だった。タチの悪い、幻覚だった』


 翠は繰り返してくれる。

 初夢にしては、タチの悪いものだ。

 わたし達は簡単な会話を交わし、電話を切った。

 本当に、最悪な初夢だった。



 一月十一日に鏡開きをすると母親が言った。

 最悪な初夢を忘れようとしていたのに、神社から持ち帰ったであろう立派な鏡餅を神棚から降ろす姿に――嫌な胸騒ぎを覚えた。

 小山田は言っていた気がする。


 ――鏡開きを持ちまして巫女さまの最終的なご承認となります。


 それってどういう意味なの?

 お父さんが「よおおし、あとは任せろよう」と軍手をして、木槌を手にリビングへやって来た。


「ちゃんと新聞紙の上でやってよ。いつも飛び散るんだもの」

「今年は平気だよ。ちゃーんと一発で仕留めてやるぜっ! 見てろよ。見事にカチ割るから、昼飯はお雑煮かお汁粉で頼むよ」

「焼いて海苔巻いて、醤油で食べて!」


 お父さんとお母さんは、いつものお正月のように朗らかに会話を交わしている。

 胸のなかがぞわぞわとした。

 正月休みが終わってバイト代が口座に振り込まれた。

 九十六万円が振り込まれていて、胸が詰まった。

 まだ翠とはその話はしていない。

 してしまうと……現実とは違う世界線に引き込まれるような恐怖があった。


 わたしは仕事をした。


 その報酬として、神社から『バイト代』が振り込まれた。

 たった、それだけ。

 それだけなのだ。


「うっしっ、やっちまうぞ!」


 お父さんは得意げにそう言って勢い込んで木槌を握る。

 わたしは遠くからそれを眺めて、お父さんが「っしゃーっ!」と気合を入れて木槌を振り上げるのを見ていた。


「やっぱりダメええっ!」


 怖かった。

 正体のわからない、ぞわぞわとした寒気のようなものが足元から這い上がってきて、わたしは思わず叫んでいた。

 叫ぶと同時に、身体が動く。

 鏡餅を守るように手を伸ばしたが、お父さんが振り下ろした木槌がアタマをしたたかに打った。


「あっ――!!!」

「アキッ!」


 当惑するお父さんの声とお母さんの悲鳴が重なった。

 わたしは鈍痛に視点をチカチカさせながら、飛び込むように鏡餅を守った。

 腕の中で鏡餅は形を保っている。

 アタマに経験したことのない痛みがある。

 お母さんが、お父さんが、あわあわと慌てながら……なにかを叫んでいた。


「ごめんなさい……」


 わたしは無意識に謝った。

 それが言葉になったかどうかはわからない。

 とにかく、頭が痛い。

 木槌で叩かれた頭が、痛い。

 うっすらと意識が遠退いていく……。

 お母さんが半狂乱に叫んでいる。お父さんを強く罵倒している。

 お父さんは呆然としながら「いま、救急車を呼んでるから!」と反論していたが、その声も遠く響いている。

 お母さんがお父さんの頬を引っぱたいたのが分かった。


 ケンカ、しないで……。


 悪いの、わたしだから。

 そう言いたかったが、舌がぼってりと固まって動かなかった。

 わたしは薄れゆく意識の向こう側で、小山田の姿を見つけた。

 彼はぬっと背を伸ばして、座布団の上に正座する巫女の手元を眺めている。



 やだ、わたし……死にたくない。



 ぽつりと漏れた本音の願い。

 それは鏡餅から絹の糸のようなきらきらとなって巫女の手元に伸びていく。

 巫女はわずかな逡巡を経てから、それを片方の木箱に入れた。

 わたしの願いは『青い箱』に置かれた。

 それを見届けて、わたしはゆっくりと眼を閉じる。

 ごめんなさい。

 そして、ありがとう。



 わたしは神様を信じます。

 胸に抱いた鏡餅を……さらにギュっと強く抱きしめた。

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