淫紋の功力

淫紋の功力



 まだ夜明け前の、七月の上旬の事である。

 約二週間分の可燃ごみをマンションのゴミ捨て場へ捨てに行き、ガサガサと鳥よけのネットをかけていると行脚の僧侶に声を掛けられた。

 痩せた僧侶は編み笠をかぶり、錫杖を手にしていた。


「もし、そこのお若い方」


 僧侶はそう言って合掌した。数珠がじゃらりと鳴った。


「えっ、俺ですか?」

「失礼ですが、あなたにひどい憑き物が見えます。ここ数か月は、ひどい災いに苦しんでいるのではありませんか?」


 この発言に俺はぎょっとした。

 トランクスにTシャツ、サンダルにゴミ袋、それにひげ面である。

 なにか問題のある男と見受けられても不思議ではない。

 実際に、俺は問題を抱えていた。

 ぐっと視線を背けて「誰しも、なんか問題を抱えてるでしょ」と言い捨てて、マンションのエントランスへと戻ろうとした。


「もし、若い御方! あなたには悪しき憑き物がある。それがあなたの行く末をより困難な、災いのある方向に導こうとしている」


 しゃんと錫杖が鳴る。

 午前五時ごろの、夜明け前のエントランスに僧侶の声が響く。

 今日も暑くなりそうな匂いがしていた。

 僧侶は言った。


「わたしは、あなたに憑く悪しきものを祓う事が出来ます。どうか、気を楽にしてほしい」


 彼の主張に俺はグッと奥歯を噛んだ。


「なんだよ。あんたは、なんなんだよ。俺が抱える問題を解決できるって言うのかよ!」

「経文をあなたに刻む。それが消えたとき、あなたは元の生活に戻れる。少なくとも、いまの悪しき道からは逃れることが出来よう」


 妙に通る声で僧侶は言い「どうか、部屋にあげていただきたい」と念を押してきた。

 普通ならば無視する。


 無視するが……その時の俺は無視できなかった。



 マンションは未海(みみ)の名義だった。

 半年前に、年明け早々に未海は死んだ。

 この令和の時代に、お産で死んだ。

 腹に宿った子どもと一緒に、大学病院の婦人科病棟で死んだのだ。

 高齢出産だったこともある。

 それでも、俺たちの間に……待望の第一子が天から与えられたことは、一抹の不安がありながらも夫婦で抱き合って泣いたほど嬉しかった。

 不妊治療も、少しやった。

 けれども、不妊治療と言うよりは『仕事をどうするか』の方が意味合いが大きかった。

 俺たちは共働きで、お互いにそれなりの企業で役職をもって働いていた。

 未海はもっと働きたいと言った。

 だから、子どもを作るのは先延ばしにしていた。

 マンション価格は高いし、物価は高いし、車の維持費もきつい。

 夫婦ふたりで働いて……やっと普通の生活ができる。俺たちは『それなりの企業』で働いているのに、生活はずっとずっと不安だった。ここに子どもが生まれたら、絶対に多くの物事が壊れてしまうという確信が、ふたりにあった。

 そうした不安のなかで「子ども、欲しい」と未海が決意したのは、やはり彼女の年齢が関係していると思う。

 彼女は妊活のために休職した。それは彼女のキャリアプランに響く選択だった。

 本当は東京でマンションを買いたかった。けれども、金額が折り合わなくて……埼玉県の、東武東上線の、ずっとずっと奥の駅で新築のマンションを買った。

 静かで、緑豊かで、朝陽が綺麗に臨めるマンションだ。

 僕が頭金を払い、未海がローンを組んだ。

 そうして彼女と妊活に励み、やっとのことで宿った第一子だった。

 俺の両親も、未海の両親も、それはそれは喜んだ。

 孫の顔を見ることは出来ないだろうと諦めていた義父は、飲めない酒を飲んで「トモキくん、よくやった。ああ、よくやった!」と酔いつぶれた。

 子どもが宿ること。

 それは多くの人を幸福にするんだ、と実感した。

 それなのに……未海は死んだ。

 リスクはあると聞かされていたが、平安時代でも、江戸時代でもない。昭和の初期でもない。令和の現代である。

 未海と名前のない子どもは、現実世界の入り口で立ち止まり、俺の立ち入ることができない世界へと行ってしまった。



 未海が死んだことで、団体信用生命保険が発動して家のローンが消えた。

 同時に、大きな孔が胸に空いた。

 未海の両親とはほとんど会っていない。納骨のときに見たのが最後かもしれない。


 仕事を辞めた。


 働く気力がなくなった。


 あれだけ狭いと思ったマンションは、ひとりになるとがらんとしていた。

 車の音も電車の音も乏しい世界にいると……ひどく世界が薄っぺらく感じてしまう。

 食べ物の味も薄くなった。

 好きだった釣りも行かなくなった。

 ただ茫然と、テレビの前で夕暮れを眺める日々が続いた。

 開きっぱなしのカーテンから月明りを眺めて、長すぎる残りの人生を恨んだ。

 そうして二週間分の可燃ごみが、夏場の熱気に温められて異臭を放っていたので……久しぶりにゴミ捨てに出た。その矢先、あの僧侶と出会った。



 僧侶は部屋に上がるなり。


「水を」


 そう言って五百ミリのペットボトルのお茶を一息に飲み干した。

 編み笠を外すと柔和な赤ら顔の男が、そこにはいた。

 年齢は三十代にも見えたし、五十代にも見えた。

 変な男を部屋に招き入れてしまった、と思ったが……あまり危機感はなかった。ここで刺されてもいいし、モノを盗まれて警察沙汰になってもいい。もう人生どうなっても構うものか、という思いの方が強かった。


「なにか食べるものはあるだろうか」

「えっ」

「腹を満たしたい」


 僧侶の発言に、面倒くさい物乞いだったかと後悔した。

 カップラーメンをふたつ、みっつとテーブルに出すと僧侶は満足そうにうなずいた。


「報酬は、これでよい。では、始めよう。出来るだけ夜のうちに」


 ベランダから見える山の稜線が、うっすらと赤みを帯び始めている。

 夜明けが近い。


「なにをすればいいんです?」

「まず、服を脱いでいただきたい」

「は?」

「そのパンツを、脱いでいただけますか?」


 彼はそう言って肩から掛けていた頭陀袋からマジックのようなものを取り出した。

 どうしてパンツを脱がなくてはいけないのか。


「パンツ、脱ぐ意味あるんですか?」

「脱がなくてはなりません。上のシャツも脱いでください」


 面倒くさかった。

 変態物乞い僧侶を部屋に招き入れてしまった。

 ここで彼に犯されてしまうのだろうか。

 人生はどこまでも転落するものだと思った。

 俺はシャツを脱ぎ、仕方なくパンツも脱いだ。

 すると僧侶は「では、失礼」と述べてから黒いマジックを俺の肌に這わせた。

 最初に上半身にペン先を走らせ、そのまま腹部へと迷いのない筆致で紋章を記していく。


「ちょちょちょっ! なにしてるんですか!」

「動かないで! 淫紋です」

「い、淫紋って――!!! お経とか、そう言うのを書くんじゃないんですか!?」

「そのような冗談で憑き物は祓えません。現実はおとぎ話とは違うのです」

「いやいや、淫紋って……!!! そっちのがおとぎ話でしょうが!」


 抵抗をしたが、僧侶は強い力で俺の腕や身体を押さえつけ、器用にマジックのペン先を走らせる。

 途中から、夢でも見ているのではないかと思った。

 ソファに押し付けられて、身体になにやら書き込まれていく。

 つるりとした美しい形の赤ら顔の僧侶は、真剣なまなざしで俺の身体に淫紋を書き込む。

 美大生が美しい円を描くように、腹部や下腹部にハートを書き込み、唇や涙型の意匠に弦や蔦が絡み合うような線を書き込む。そうして魔法陣や曼陀羅のような幾何学模様を腹部から胸部までに広げ、華や果実を鎖や枷でつなげていく。

 見方によっては黒魔術の魔法陣や古代の民族が呪術のために施す刺青のようにも見えた。

 しかし、しっかりとパーツを見極めていくと『淫紋』なのだ。


「うつぶせになってください。お尻にも書かねばならない」


 そう問われたときには、すでに空は明るくなっていて、俺自身も従順になっていた。

 うとうとと浅い眠気がやってきて、尻になにかを書かれる違和感を覚えながら……短い眠りに落ちてしまった。



 目が覚めたとき、僧侶は三杯目のカップラーメンを啜っていた。


「あ、あの、俺……」

「そのウインドブレーカーを着なさい。そうして、奥様が眠る墓を掃除し、手を合わせるのです」

「待ってくれ。こんな淫紋だらけでコートを羽織れって言うのか。変態じゃないか! それに今は七月で、夏だぞ!」

「暑さ、寒さではないのだ。あなたの憑き物を祓うには、それが必要なのだ」


 そう言って彼はラーメンをすすり。


「お若いの。あなたの妻が眠る墓に行き、手を合わせなさい。淫紋は必ずあなたを救うでしょう」

「バカじゃないのか。ただの変態だろう」

「高速のサービスエリアに現れる全裸ロングコートの人々は、こうした苦悩から逃れるためにあの世とこの世の境目を歩いているのだ。ただ、彼らはこの世の秩序に見つかり、そうした謂れなき罪状を押し付けられたに過ぎない」

「待て待て、そんなわけないだろう!」

「その『淫紋』が消えたとき、おまえの生活は元に戻る。それは保証する。カップラーメン、おいしかった」


 がたんと音を立てて赤ら顔の僧侶は立ち上がり、編み笠を手にした。


「おい、帰るのか」

「先を急ぐので」


 彼は錫杖を手にして、何事もなかったかのように玄関から出て行ってしまった。

 俺は呆然としていた。

 まるで夢でも見ていたかのような錯覚があった。

 けれども、窓から差し込む朝陽は……夢で見るよりも明瞭で現実的だった。



* *



 久しぶりに車に乗った。


 気が付けば、高速道路を飛ばしていた。

 丈の長いウインドブレーカーを着て、冷房をつけて、未海の墓がある関西の某県に向かっていた。

 部屋で『淫紋』を消そうと風呂に入ったが、油性ペンで描いたらしく全然おちない。

 風呂の鏡の前で「くっそ、あの坊主ッ! 油性で描きやがったな!」と叫んだほどだ。

 頑張って擦ってみたが、なかなか落ちない。

 ただ、見れば見るほど『淫紋』の精緻な意匠に目を奪われた。


「まさか、な……」


 風呂から上がり、半信半疑で車のキーとウインドブレーカーを手にして家を飛び出した。

 未海の実家近くにある墓に、彼女は眠っている。

 なぜ彼女が実家の墓に入っているのか。

 その経緯はうまく思い出せない。義父が狂ったように実家の墓に納骨するよう主張したような気もする。

 未海の墓についたのは、その日の夕方だった。

 長時間の運転は疲れたし、サービスエリアのトイレやタバコ休憩も神経を使った。

 膝まであるロング丈のウインドブレーカーであるから『淫紋』を隠すことは出来る。僧侶はそれも考慮して描いているのかもしれない。

 七月の陽射しのなかで裸足でウインドブレーカーを着た男が、サービスエリアでタバコとコーヒーを手に休憩をしている姿は、明らかにオカシイ。

 そうした状況で人の視線を受けながらも、西へ西へと向かった。



 夕日に染まった未海の墓は、ひどく風雨にさらされて汚れていた。

 これほどまでに汚かっただろうかと思うほどだ。

 俺は桶に水を汲み、たわしも雑巾もなかったので……手で墓を磨いた。

 途中で暑くなってウインドブレーカーを脱いだ。

 全裸で淫紋をつけた男が、手で嫁の実家の墓を磨いている。

 変態的な状況であったが、山の丘陵地に設けられた墓苑には誰も現れなかった。時折、遠くで単線列車が駆けていった。

 日が沈んだ頃、墓の掃除を切り上げた。

 ちょっとだけ、綺麗になった。

 膝を抱えて、未海の墓を見上げていた。


「おれ、なにしてるんだろう」


 未海の墓がこんなに汚れていること。

 誰も墓参りに来ていないのかもしれない、と思った。

 そのとき、じゃりっと人の気配がした。


「なにしてるの、まったく」


 全裸で座っていた俺はウインドブレーカーで腹回りを慌てて隠したが、すぐに「えっ」と全身の力が抜けた。


「そんな格好でなにしてるの?」

「未海……?」


 そこには未海が立っていた。

 どこか懐かしいゆったりとしたマタニティドレスのようなものを着て、彼女は立っていた。

 彼女は小さな女の子の手をつなぎながら「もぅ」と眉を寄せている。


「あ、えっ、どうして……?」

「こっちの台詞じゃん。なんで裸で、それなんなの?」

「あっ、いや、……これは、その話すと長いんだ。変な坊さんに、捕まってと言うか」

「意味わかんない」


 未海はそう言って「パパ、ちょっと頭がおかしくなっちゃってるねー」と女の子に同意を求めた。

 その子が何者なのか、俺にはわかった。

 わかったけれども、名前を呼ぶことはできなかった。

 医者から『リスクがありますから』と言われ、生まれる前に名前を決めることを避けたからだ。生まれてきてから、この三候補のなかから……お義父さんに決めてもらおう、と約束していた。

 俺は立ち上がって。

 心臓が、激しく鼓動を打っている。


「未海、あの、帰ろう。車で来てるんだ」

「そんな慌てないでよ。あ、ちょっと!」


 幽霊だとわかっていた。


 わかっていたのに、未海に触れた手は……ちゃんと温かくて、血が通っていた。

 彼女の手を握って「ほら、帰るんだ!」と俺は涙を流しながら連呼していた。

 帰る。帰るんだ。

 また未海と一緒に、あの家で暮らすんだ。

 この子の名前も聞かなくちゃ。でも、帰りの車のなかで聞けばいい。だって、帰路は長いんだから……!!!


「ちょっとトモキ! そんな引っ張んないでよ」

「ごめんっ、でも、あのっ、未海ッ……話したいことがたくさんあるんだ。この三年間……ずっとずっと未海のことを――」


 そのとき、ふっと未海が手を離した。

 離したというよりも、抜けた。


「未海……?」

「いけない」

「なんで!」

「だって……わかってるでしょ」


 未海はそう言って傍らの女の子を抱きかかえて、「ほら、パパにばいばいして」と問いかけた。

 女の子は当惑しながら「ばーばー」と指を曲げた掌であいまいに手を振った。


「ダメだ。ダメだ、ダメだ、未海!」


 まわりを見る。

 俺は墓苑の外に、彼女はなかにいた。


「うそだろ。せっかく、せっかく……会えたのに、こんなのって!」

「そんなふうに言わないで。トモキがそんなんじゃ、わたし達も安心できないよ」

「やめろ。やめろ。ダメだって」


 俺は必死に未海の身体を抱きしめた。

 ぎゅっと抱きしめて、そのまま運び去るように敷地の外へ出ようとした。

 しかし、彼女は身を捩って俺の腕からするりと抜けてしまう。

 吐きそうだった。

 ここで彼女を『再び』失うなんて、気が狂いそうだった。

 絶対に彼女を連れて帰らなくてはいけない。


 向こう側から、こちら側に――。


「未海……」

「もう行かなくちゃ」

「ダメだよ。ダメだって!」

「わたしもつらい。でも、向き合おうよ。つらいけど」

「ダメだよ、おれ、ダメなんだ。未海がいないと……ダメなんだ――」


 すると未海は「ばーか」と笑って。


「弱いパパは見たくありませんって、言ってるよ」


 そう言って愛娘の頬を指で突いて。


「強くなって、トモキ」


 彼女はそう言って墓石へと踵を返してしまった。


「ダメだ、待って!」


 俺は駆け出した。

 しかし、夕暮れが夜闇に溶けてしまうように……山間の墓苑が影に満ちたとき、未海の姿も消えてしまった。


 俺はしばらく彼女の墓石の前で泣いた。


 泣き続けた。


 それなのに、誰も墓苑には現れなかった。

 青い鬼火のひとつでも現れてくれればよかったのに……本当に誰も現れなかった。



* *



 不思議だった。


 涙が枯れたころ、俺はウインドブレーカーを引きずって車に戻り、マンションへ戻った。

 全裸のまま、車を運転して埼玉県の奥地へとノンストップで帰ったのだ。

 マンションの駐車場から部屋まで全裸で歩いてきたのに、誰にも会わなかった。通報もされなかった。

 ひどく汗臭く、ダルかった。

 風呂に入り、頭と身体を洗い、浴槽に頭まで沈んだ。

 ここ一日が、まるで夢のようだった。

 墓で未海に会ったことも、あの僧侶の存在も、すべてが非現実のように思えた。

 けれども、風呂の鏡に映る自分の身体に描かれた『淫紋』はいまも残っている。

 少しだけ……色が薄くなっている。

 風呂に入ったせいだ。

 あと何日もすれば『淫紋』は消えるだろう。

 そうすれば、この奇妙な功力も消えて行くのだろうか……。

 あの僧侶の言葉が耳に蘇った。



『その『淫紋』が消えたとき、おまえの生活は元に戻る』



 未海は戻ってこない。


 けれども、前に進まなくちゃいけない気がした。

 未海の墓をあんな汚いままにしておくのも、忍びないから。

 だから、風呂からあがって……全裸のまま、部屋の掃除を始めた。

 時間は深夜だった。

 それでも気にせず、掃除機をかけた。

 前に進むために。



 自分自身の生活を、元に戻さなくてはいけないから。

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