魔性派

魔性派



 梅田幹次郎(うめだみきじろう)は電車に揺られていた。


 顧問の内村から『情景とか背景に課題があるんじゃないかな』と言われ、その課題を克服するために山間の集落を目指している。

 先週末に顧問の内村は言った。


「俺が美大に入るときは、まだそこまでだった。でも、いまは違う。もうレベルがすごい。わかるだろ、先輩の樋口も幹下も県内だったら神童だったけれども……大学に入ってからは、ぜんぜん名前が挙がってこない」


 幹次郎は黙然と内村の指摘を聞いていた。

 樋口も幹下も優秀な女性の先輩だった。

 県内のコンテストを総なめにするぐらいの実力者で、推薦でもって東京のN美術大学に進んだが……ここ二年はまったく活躍の声を聞かない。

 彼女たちが髪を染め、ナイトプールで「いえーい」という写真をインスタグラムにあげていることを内村は知っているのだろうか。

 幹次郎は反論する。


「先生は樋口先輩や幹下先輩がすごいって言うけど、僕はそう思わない。あのふたりは下手くそだと思う。僕の方がうまい」

「おまえさ、そういうの、よくない。言わない方がいいことってあるんだぞ」

「ふたりがコンテストで勝つの、ぜんぶうちの理事長が主催のコンテストで、僕は参加させてもらえなかったでしょ。僕は県が主催するコンテストで賞を獲れてるし、それを推薦状に書いてくれたら、うれしいんですけど」

「だから、言ってるだろ。今年から学校推薦がなくなっちまったって」

「ふたりの先輩が、まったく役に立たなかったから切られたんでしょ。うちの学校」


 この一言を境に、内村は激しく幹次郎を罵った。

 無理もない。

 樋口も幹下も、内村のお気に入りで……ひどく下賤な噂もある。

 狭い社会だから、そういう男女の秘め事はすぐに聞こえてきてしまうのだ。

 午前の陽射しが、鋭く車窓から足元に伸びてきている。

 幹次郎は陽射しにつま先を溶け込ませて「僕も内村の愛人になってケツを振れば、推薦がもらえたのかな」と呟いた。

 男だから無理か、と諦めたとき、やっと次の駅のアナウンスが流れた。



 幹次郎は自分を神童と思ったことはない。

 小学生のころに襖絵を書いて、日本画家である父にとても褒められた。

 中学生のとき、父と兄と一緒に新興宗教団体の新施設の天井画を書いた。

 鳳凰と三匹の亀が、稲穂の海で対峙しながら輝くイエスを囲う構図のものだ。

 少なくないお金を父はもらい、幹次郎も『お小遣い』として大きな額をもらった。

 兄は東京で日本画を書きながら、別名義で成人雑誌の人気作家になっている。『魔性派』と呼ばれる一派の筆頭になっているのだから、立派なものだ。狩野派の系譜を継ぐ父は笑いながら「面汚しめ」と怒っていた。

 だからこそ、幹次郎は正当な日本画家の後継者として大学に進学し、故郷に戻ってアトリエを守らなくてはいけなかった。


 系譜とか、正統とか、推薦とか……。


 難しい言葉がたくさんあるが、純粋に幹次郎は『描くこと』が好きだった。

 自然体でいられる。

 父親は言った。


「素晴らしいものを描けば描くほど敵が増える。おまえはおまえの信じたものを描きなさい」


 これは金言だった。

 内村は『敵』だ。

 顧問ではあるが『敵』だ。

 彼の指導で絵が上達したことはない。むしろ、彼は幹次郎の絵を破壊しようとする言葉ばかりを述べる。そもそも内村の絵にもいくつかの問題がある。

 彼はあくまでも『顧問』であり、大学へ行くためのツールを提供する管理人に過ぎない。


「なんでもいい」


 ぽつりとつぶやく。

 閑散とした車内で、幹次郎の嘆きを聞く人なんて誰もいなかった。

 坊主頭で詰襟の制服を着た幹次郎が、車窓に映っていた。青々とした初夏の山を背景にして。



* *



 無人駅を出ると黒い軽自動車が停まっていた。

 ジーンズにTシャツ姿の女性は「キミが梅田くん?」と声をかけてきた。

 電車から下車したのは幹次郎だけで、次の電車は二時間後だから……自動的にそうなるのだろう。


「はい、梅田です」

「内村から聞いてるから。乗って」


 短い黒髪の女性で、先生の知り合いだろうかと思った。

 タバコと缶コーヒーの匂いがする車に乗って十分ほど走った。

 山の中にある森林公園で、見晴台があった。

 そこからの景色は美しいものだった。

 幹次郎はベンチに腰かけて、画材を取り出してスケッチの準備をする。


「あんた、絵がうまいんだって?」

「先生には課題があると言われたので、来ました」

「ふうん……。こんな山を描いて、課題が克服できるんかね?」

「どうなんでしょうか」


 幹次郎はそう言って女性を見返した。


「あの、名前とか聞いてませんでしたけど」

「井上でいいよ」

「井上さん」


 年齢は三十代の後半だろうか。だいぶ大人に見えた。

 少しふっくらとして化粧っ気が薄い。そもそもこっちのヒトなのだろうか。見たことのない顔だった。


「失礼ですが、井上さんのご出身は秋田なんですか?」

「そうだよ。この山の、ちょっと下ったところ。でも、去年まで神奈川にいた」

「戻って来たんですか」

「まあね。いろいろあんの」


 サンダルを履いた彼女は、退屈そうに煙草に火をつけた。

 大人にはいろいろあるのだろう。

 幹次郎は鉛筆を握り、簡単に情景をスケッチし始めた。

 見晴台は山間から遠方の平野までを一望できた。

 足元から広がる原生林の深い緑と新緑の常緑が交わっている。太陽の光と雲の影が、薄いグレーの濃淡を演出しながらも、圧倒的な森色の濃さは崩れない。

 見晴台の周囲にはシダが目につく。また傾斜に根強く咲く山野草が、まばらな暖色の花を風に揺らしていた。

 画面に書ききることのできない、オオルリやアカショウビンの声が心地よい。

 湿り気を含んだ土の匂いが、風にのって見晴らし台を撫でていた。

 遠く山の陰から流れ出る渓流を見つけて、その音やせせらぎを想像する。目を閉じると高い梢を揺らす葉音がいっそう強く感じられる。


 太陽で温まった木の香り……。


 それなのに吹き抜ける風はひんやりとした高所の匂いを含んでいた。

 俗世と隔絶された穏やかな世界が、目を開いたらあるのではないか。

 そう思いながら鉛筆を走らせる。

 静かに意識を取り戻し、目をあけたとき……スケッチは大方、完成していた。

 見晴台はちゃんとそこにあって、手元のスケッチも画面のなかにちゃんと収まっている。

 時間が間延びするような雄大な自然の画が、鉛筆色で表現されていた。

 幹次郎は一枚をめくり、またゼロから描きなおす。

 少し、想像を変えて。目線を変えて。挑戦的な画角にして。


 意識が、また薄れる。



「あんたさ、すごいね」


 井上の声でハッとした。

 彼女の足元には缶コーヒーが三本と無数のタバコが散っていた。


「なんですか」

「一時間半で、いま七枚目でしょ。バカ早いし、めちゃくちゃ綺麗に描くじゃん」


 スケッチブックを繰る。

 彼女の指摘通り、いま七枚目を描いている。


「これのどこが課題ありなの? 美大で通用しないって内村は言うわけ?」

「通用しないかどうかはわかりませんけど、課題がある気がするんです」


 内村の指摘じゃない。

 父親の絵と比較したとき、たしかに情景の捉え方が弱い気がする。

 日本画家である父親の鋭い洞察力は、静態が動態になり、無音が有音になる。それが一枚の絵で表現されるのだから、かなわない。


「親父の作品と比較すると……まだ、なんか足んないというか」

「お父さんも絵を描くんだ」

「ええ。梅田春水です」


 この一言に井上は「あっ……」と合点がいったらしく、サッと立ち上がって。


「梅田さんの息子なの……!? くぁああ、納得だわ。めちゃくちゃうまいもん。そりゃあそうか。これじゃあ、かないっこないよ。あたしらじゃ」

「えっ……?」

「だいじょうぶ、あんたは東京の美大に行っても余裕で戦える。内村はね、ちょっと嫉妬してんのよ。あんたにどう頑張っても、勝てそうにないから」

「ああ……。それは、なんとなくわかる気がします」


 ぱたぱたと足をばたつかせて、井上は空を見上げる。梢で空はまばらにしか見えなかったが、胸を張ると……胸元に妙な汗染みが浮いていることに気づいた。


「ケチつけたかったんだよ。あんたの絵に。だから、ここに寄こしたんじゃないの?」

「そうなんですかね?」


 井上の胸が大きいこと。

 そこに言い知れぬ汗の染みがあることに気づいて、幹次郎はぐっと視線を落とした。

 彼女がそんな幹次郎に気づいたかどうかはわからない。

 ただ午後二時まで、幹次郎は再び『集中』して絵を描いた。

 絵を描くことは好きだ。

 無意識でいられるから。


 ――でも、父親を越えられない。


 漠然とした閉塞感のなかで、兄が「親父に勝てないって、なんでだろうな」と嘆いていたことを思い出した。

 それは正月に帰省したときのことだ。

 悩んでいる様子だった兄は「勝てないよな。いつまで経っても」と嘆いていた。

 その年に……彼が成人雑誌の漫画家としてデビューし、父が大激怒した。

 逃げ出したかったのかもしれない、兄は。

 そこに考えが至ったとき……自分よりも素敵な画を描く兄が、成人漫画の『魔性派』を率いる新進気鋭の漫画家に転身した理由が、わかった気がした。



 二時過ぎに一度中断して、自宅から持参したおにぎりを食べた。

 そうして夕暮れの情景を描くためにジッと見晴台から景色を眺めていたとき、雨が降り始めた。

 幹次郎と井上は車に避難して、その日のスケッチはそこで終了となった。

 帰りの車のなかで、幹次郎は言った。


「井上さんは、街に降りないんですか。ずっとここにいるんですか?」

「……ん?」

「不便じゃないですか?」

「かもね」


 短く彼女は言った。

 妙に汗ばんだ井上の横顔に幹次郎は変な胸の鼓動を感じた。

急に降り出した雨によってムッと井上の匂いが濃くなった気がしている。タバコとコーヒーと効きの悪いエアコンの匂い。

 車は山間の道路を進んだ。

 十分も、二十分も。


「あの、駅は……?」

「駅はないよ」

「えっ……?」

「わたしがここから帰さないって言ったら、キミ、どうする?」


 そう言ってやってきたのは、山間に佇む寂れたモーテルだった。

 営業しているのかもわからない、背の低いモーテル――。

 淡い薄桃色の電飾が、空に満ちる暗雲のもとで明滅していた。


「ずっと絵ばっかりでさ、退屈だったんじゃない?」

「絵は、退屈しませんけど」

「なら、絵以外の楽しみに今日は挑戦してみない?」


 この人はなにを言っているのだろうか。

 そのとき、井上はシャツをおもむろにめくって赤い下着を見せてきた。


「……。」

「五時まで描く予定が、二時でおしまいになった。なら、三時間は休憩してもいいと思わない?」


 小首をかしげて、彼女はおとなの余裕を口元に湛えながら呟いた。

 幹次郎は、これから何が起ころうとしているのか、少しばかり想像を巡らせた。

 雨が強くなってきた。

 雷鳴が、光った。


「はじめて?」


 夜の虫のように、彼女は聞いてきた。

 内村の狙いはこれなのか。

 梅田春水の息子だから、こうなったのか。


 ……違う。


 そうだとしても、違う。

 雷鳴が、再びとどろいた。


「――ッ!!!」


 井上は短く悲鳴を上げて、たぶん「あんた!」とか「なによ!」と言ったが、雨脚でよく聞こえなかった。代わりに幹次郎は怒鳴っていた。


「さっさと服を脱げよ。外に出ろ」

「な、なんなの、あんた……」

「暗い森に裸で出ろ。その姿を描いてやる」

「バカじゃないの、あんた……!!!」

「ここには僕とあんたしかいない。いいから、言う通りにしろよ」


 そう言って幹次郎は、再び井上の頬を拳で殴った。

 父が、母をそうしたように。

 井上は呻きながらいくつか言葉を吐いた。

 彼女は暗い森のなかに、裸で立った。

 裸足で森を進み、薄暗い木々のなかで恐怖を抱きながら身を強張らせた。


 美しい姿だった。


 幹次郎は自分に足りない世界を見つけた気がした。

 闇の中に現れた見晴台から、必死に情景を汲み取った。

 井上という女は震えていた。

 それは恐怖で終わってはいけない。

 余韻を作るのだ。これは恐怖であり、愉悦である、という結末を。

 暴力と恐怖の先にある『救済』を、幹次郎は描ききろうとしていた。

 スケッチブックのなかに、そして井上という女の心のなかに。

 それこそが、父の込めた魔力であり、兄が率いる『魔性派』の血脈なのだと……幹次郎は理解する。


「怖がるな。いまに、自分がどんな姿なのか……見せてやるから」


 雷がいっそう強く世界を揺らした。

 それでも幹次郎は手を止められなかった。



 暴力的な幸福を見出した幹次郎は、一時は日本画壇で父親をしのぐとも評されたが、その姿がぱたりと消えたのは……森のなかで恐怖に震える愛おしい伴侶の影響があったのかもしれない。

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