第57話 白いハンガーに掛けられた日々


 ホームルームのあと、昇降口の掲示板を何の気なしに見上げた。

生徒会からの通達、遅刻者の一覧。

その隙間に、少しだけ異質な紙が一枚、貼られていた。


 


「片瀬美緒先生 一身上の都合により退職」


 


行間は空いていたけれど、そこに詰まっているものは多すぎた。

四行目、「在職中はご尽力いただきありがとうございました」。

でも、その言葉の後ろに、誰の名前もなかった。


 


ただ家に帰る気が起きなくて、

ぼくは裏門のほうへ、校舎の影を縫うように歩いた。


 


この道を通るときだけ、

自分がもう少しまともな人間だった気がするから。


 


そして、彼女がそこにいた。


 


グラウンド脇のベンチ。

片瀬は、白いニットに黒のトレンチ。

そして、いつものように髪を後ろで結っていた。


 


「……偶然?」とぼくが訊いた。


「待ってたの」と彼女は答えた。


 


言葉にとがりはなかった。

それだけで、すべてを理解した気がした。


 


ふたり並んで座った。

夕方の空は薄曇りで、まだ春には遠い風が頬を撫でた。


 


「いちおう、“自主退職”ってことで受理されたの。

だけど、本当は逃げたんだよ。

責任も、言い訳も、なにも残さずに」


 


片瀬の声は、透明な膜で包まれたように静かだった。


 


「私ね、教師に向いてなかったと思う。

でも、智也くんのことは……ちゃんと、好きだったよ。

それだけは、ほんと。

……それも、ダメだった?」


 


ぼくは首を横に振った。


「……ダメじゃ、ないよ」


 


そう言いながら、彼女の目を見られなかった。

視線を落とした先に、黒いパンプスのつま先と、

校庭に投げ出された落ち葉があった。


 


「これで、ほんとうに最後。

二度と連絡もしないし、学校にも来ない。

……でも、最後に、言わせて」


 


ぼくはうなずいた。

彼女は、真っすぐこちらを見て、微笑んだ。


 


「たぶんね。

あの子が君のことを好きだった強さの、半分も私は持ってなかった。

……負けたよ」


 


その言葉は、意外なほど優しかった。

それが敗北宣言だったことに、気づくまでに少し時間がかかった。


 


風が吹いた。

片瀬の肩にかかったストールが、ふわりと浮いた。


 


カシミヤだった。

──あのとき、ぼくが選んだのと、同じブランドのタグが見えた。


 


「でもね、“勝とうとしてた”時点で、

私はもう、教師じゃなかったんだと思う」


 


立ち上がった片瀬は、背中でそれを言った。

振り返らなかった。


 


ぼくは呼び止めなかった。

彼女の黒いコートの裾が、校舎の影に溶けていくのを見送った。


 


春の光はまだ遠く、

風だけが、ぼくの制服の裾を揺らしていた。

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