第53話 最後の午後


高島屋に着いて、僕たちはアクセサリー売り場を歩いた。

片瀬は、ショーケースの前で立ち止まりながら、何度も僕の腕に触れた。

自然なふりで、でも少しだけ長く、服の生地越しに指を這わせる。


 


「これとか……いいんじゃない?」

「うん」

「でもサイズ、わかんないでしょ。指輪って、当たると一番うれしいけど、一番むずかしい」


 


僕は頷き、となりのマフラー売り場に向かった。

手に取ったのは、淡いベージュに細いブルーのラインが入った、カシミヤのストールだった。


 


「彼女、顔まわりにこういう色、似合うと思うよ」

「……ありがとう」


 


レジを済ませて袋を受け取ったとき、片瀬がふと僕の腕に絡めるように寄ってきた。


 


「ねえ……智也くん」

「なに?」

「さっきから、触られて興奮してる?」

「……えっ?」

「してるでしょ。わかるもん。耳のうしろ、ちょっと赤いし」


 


僕は咄嗟に言葉を探しながら、紙袋を持ち替えた。


 


「……美緒さん、そんなふうにされると、ほんとに……」

「ふふ。ほんとに?」

「……ほんとに、興奮しちゃうから」


 


買い物を終えたあと、片瀬は「どこか、食べよっか」とだけ言って、

なぜか東京駅の地下駐車場へ向かっていた。

高島屋のレストランフロアを避けたのは、たぶん混雑だけが理由じゃない。


 


車の中では、ほとんど会話がなかった。

静かに流れていたクラシックが、どこか遠くの音みたいに聴こえていた。


 


着いたのは、銀座だった。

駐車場を出て、そのまま歩道を歩く。

片瀬は、どこか知っている道を辿るように、迷いなく建物の扉を開けた。


 


資生堂パーラー。

白いクロスと背筋の伸びた店員、飾りすぎない花。

昼時をすぎて、店内は静かだった。


 


「……ここって」

「高校生とは来ないとこよ。安心して」


 


僕はうなずいた。

テーブルに案内されて、クロスの上に紙袋をそっと置いた。

カシミヤのストールが入っている。

それは、僕が選んだものなのに、今は片瀬の体温を帯びている気がした。


 


「何にする?」

「おすすめは?」

「ここね、カレーとオムライス、どっちも絶品よ。あとビーフシチュー。……でも、カレーがいい」


 


迷った末に、僕はオムライスを選んだ。

卵の表面がほんの少し焦げていて、ナイフを入れるとバターの香りが立った。


 


ふたりで、しばらく黙って食べた。

この場所が静かだからか、それとも、なにかを言うには整いすぎているからか。

食器の音が、ひどく繊細に耳に残る。


 


片瀬がふと、グラスの水に指を添えて言った。


 


「ねえ、智也くん」

「うん」

「もし、ほんとうに全部忘れてさ、ここで“初めて出会った”ってことにして、またやり直せたとしたら、どうする?」


 


僕は返事ができなかった。

グラスの水が、ほんの少し揺れた。


 


「でも、それでも結局、わたしたちまた……」


 


そこまで言って、片瀬は言葉を切った。

笑っているような顔だった。

でも、その笑いは自分に向いていた。


 


そのときだった。

店の入口近く、扉が開く音がして、

視線が、ふいにひとつ、こちらに向けられた気がした。


 


僕が反射的にそちらを振り返った瞬間、

ひとつの人影が、迷いもなくこちらへ歩いてきていた。


 


その歩き方を、僕は知っていた。


 


光よりも先に、冷気が胸を貫いた。

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