第50話 朝の気配

 目を覚ましたとき、美穂は僕のとなりにいた。

 冬の朝らしい、乾いた光がカーテンのすきまから射していて、それが彼女の睫毛に落ちていた。

 眠りに日差しは優しくない。

 なのに彼女は、まるでそれすら許しているような表情で、すこし口を開けて寝息をたてていた。


 僕は、彼女の髪の毛先をそっと指でつまんだ。

 それは、夢のなかからひとすじだけ現実を引き寄せる作業のようだった。


 昨夜、僕たちはたしかに触れ合った。

 照れくさくて、ぎこちなくて、でも、ちゃんとそこには心があった。

 それを思い出すたびに、胸の奥がじんわりと熱をもった。


 ベッドの中で彼女がもぞりと動いた。

 目を開けずに「ん……おはよう」とだけ言って、また目を閉じる。

 その声が、世界の音の最初のひと粒みたいに感じられた。


「もう起きる?」


「うん……寒いから、あと三分だけ」


 彼女は、そう言って僕の胸に額をくっつけた。

 毛布のなかで、身体同士がまた、ゆっくり呼吸を合わせていく。


 外では、鳥の声が乾いた空気にまぎれて鳴いていた。

 日常が、静かに戻ってくる気配がした。


 支度をして、家を出るころには、もう時間ぎりぎりだった。


 僕のマフラーを借りた美穂は、「あはは、男の匂いする。嫌いじゃないよ」と笑った。

 でも、その“ちょっとだけ”が彼女を可愛くしていた。


 駅までの道、ふたりで歩く。

 制服のスカートから覗く彼女の膝が、すこしだけ赤くなっていた。

 昨夜の体温が、まだ身体のどこかに残っている気がして、僕はあまり話さなかった。

 でも、美穂はいつも通り、昨日のテレビの話とか、英語の宿題のこととか、たくさん話してくれた。


 その声を聞きながら、ふと、片瀬のことを思い出してしまう。

 あの夜、ラヴェルが流れる部屋の中で、彼女が言った言葉。

 「私ってさ、本当はずっと、こういう曖昧な関係が好きなんだよね」

 笑っていたけれど、その目は笑っていなかった。


 思い出してはいけないとわかっているのに、

 ときどき、片瀬の指先の重さや、目を伏せたときの睫毛の影、ゆったりとした身のこなし、細くて柔らかい白い手、そう言うものが記憶のなかでふいに立ち上がる。


 それは、美穂の隣を歩く僕の影に、ほんの少しだけ、余計な色を混ぜる。


「……ねえ、今日さ、放課後ちょっとだけ寄り道しない?」


 美穂の声に引き戻される。

 僕は「うん」と答えた。少しだけ時間をかけて。

 その“間”のなかに、僕自身の小さな罪悪感が溶けていくのを感じた。


 誰かを好きになるということは、

 きっと、“誰かじゃない人”を思い出すたびに、ほんの少し痛くなることなのかもしれない。


 でも、それでも。

 僕は、美穂の隣を歩いていた。


 冬の朝の光が、ふたりの背中に、まっすぐに降り注いでいた。

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