第46話 台風の日(4)あと一度だけ

 道路が、雨を飲みこんだあとのアスファルト特有の鈍い匂いを吐き出していた。

 それは水ではなくて、記憶の匂いみたいだった。濡れた石、乾きかけた葉、まだ空気の底に残っている低い唸り声。

 風はもう鳴いていなかったけれど、世界はまだ、全部が戻りきってはいなかった。


 


 片瀬の運転する車の助手席で、僕はシートベルトの感触に身を任せていた。

 窓の外を流れる風景は、どこか借り物みたいに見えた。

 知らない町じゃないのに、いま自分がどのあたりを走っているのか、うまく思い出せなかった。

 眠ってはいないけれど、起きているとも言いきれない。そんな宙ぶらりんな感覚に、身体の輪郭がゆるんでいた。


 


 助手席にいる僕と、ハンドルを握る片瀬。

 ふたりのあいだには、さっきまでの熱の残り香と、なぜか拭いがたい静けさがあった。

 カーステレオは切ってある。風の音もない。タイヤが水たまりを弾く音だけが、一定のリズムで続いている。


 


 思いがけず、美穂のことを考えた。

 長い髪。真面目な横顔。僕をまっすぐ見つめるときの、あの少しだけ強い眼差し。

 思い出した途端、胸のあたりがきゅっとした。

 罪悪感とか、後悔とか、そういう名前のつく感情ではなかった。

 ただ、「どうしてるかな」と思った。それだけなのに、その問いの輪郭が妙にくっきりしていた。


 


「……眠い?」


 片瀬の声がした。低くて、落ちついたトーンだった。


「ううん」


 僕は首を横に振った。でも実際には、何も考えていなかった。


 


 しばらく、また沈黙が続いた。

 沈黙が、ただの“無音”ではなく、“ふたりのあいだの、何かを整える時間”になっていた。

 僕らは会話をしていないのに、会話の途中みたいな呼吸をしていた。


 


「……あと一回だけ、二人で会えない?」


 片瀬は、信号待ちの赤のなかで、ふとこちらを見ずにそう言った。

 声に揺れはなかった。でも、その呼びかけには、何かが沈んでいた。


 


 僕は、彼女の横顔を見た。

 唇がかすかに結ばれていて、視線はまっすぐフロントガラスの向こうを追っていた。

 その頬に、薄く日差しの名残が当たっていた。台風のあとの光は、どこか水を含んだままで、彼女の肌の上で、静かに震えていた。


「……うん」


 僕はそう言った。たぶん、反射的に。


 


 片瀬は、何も言わなかった。ただ、少しだけ、深く息を吸って、それをまたゆっくり吐き出した。

 それだけで、僕たちの間に、新しい秘密がひとつ、増えたのがわかった。


 


 窓の外では、世界が、何事もなかったような顔で、日常を取り戻しつつあった。

 通りを歩く自転車、ランドセルを背負った子ども、信号の点滅。

 でも、僕たちのあいだにはまだ、“昨日でも明日でもない時間”が、かすかに残っていた。


 


 あと一度。

 それはきっと、何かを終わらせるための“最後”じゃなくて、何かを始めるための“続き”だった。

 だからこそ、僕は頷いたのだと思う。


 運転席の片瀬は、そのまま何も言わず、ウィンカーを左に出した。

 その音が、僕の胸の奥で、何度も、何度も、静かに響いていた。

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