第37話 海の手前の午後



朝、LINEの通知音で目が覚めた。

太陽はもう高く、カーテンの隙間から光が刺していた。


《気分転換でもしたら》

たったそれだけの短文に、ナビゲーションのピンの位置が添えられていた。

車のアイコンが、僕の家のすぐそばに止まっている。


片瀬が、来ていた。


寝癖のまま上半身を起こして、心臓がひとつ強く跳ねた。

カーテンを少しだけ開けて外を見ると、黒いコンパクトカーが、ひっそりとエンジンをかけたまま佇んでいた。


「……まじか」


Tシャツの襟を引っ張って汗をぬぐい、急いで洗面台に立った。

なにしてんだろ、と思いながらも、気づけば鏡に向かって整髪料を伸ばしている自分がいた。

そういう生き物なんだ、男って。


着替えて家を飛び出すと、片瀬先生は助手席の窓を下げて、口元だけで笑った。


「やっと来た。もう帰ろうかと思った」


「……すみません」


「乗って。助手席、あいてるよ」


ハンドルを握る横顔は、授業中のそれとはまるで違った。

髪を少し巻いているせいか、どこか柔らかい雰囲気があった。

サングラスの奥の目元を窺いながら、僕は訊いた。


「どこまで行くんですか?」


「どこでも。海が見える町、ってだけ。決まってないの、そういうのがいいでしょ?」


ふいに鼻歌みたいな声でそう言って、先生はアクセルを踏み込んだ。

海沿いの道まで、軽く1時間。

そのあいだに何度も信号で止まり、そのたびに、片瀬先生は小さく僕に触れた。


肩に手を置く、信号待ちの間にネクタイを直すふりをする、トンネルのなかで急に「耳、触っていい?」と聞いてきたこともあった。


「先生……今日、なんか……やたら触ってきますよね」


「あれ、気づいてた?」

ウインカーの音に紛れて、悪戯っぽく笑う。


「やっぱ男子って単純ね。ちょっと触るだけで、緊張してるの、まるわかり」

「……でも、それが見たくてやってんだけど」


小さな海辺の町についたのは昼すぎだった。

商店街は眠ったように静かで、古い喫茶店でホットケーキを頼んだ。

その店の壁には、色あせたサーフボードと古い洋楽のレコードが飾られていた。


「先生、こういうとこ、好きなんですね」


「うん。落ち着く。海が見えると、いろいろどうでもよくなる」


バターがとけていくホットケーキを、フォークでひとくちちぎりながら、彼女は言った。


「智也くんさ……橘さんとは、どうなってるの?」


その言葉に、フォークの先が喉に引っかかりそうになった。


「え、なんで今それ……」


「ううん、気にしないで。ちょっと気になっただけ」


片瀬先生はカップを傾けて、コーヒーをひとくち啜った。

唇に触れるその動きが、どうしようもなく綺麗だった。


「キス、した?」


突然のその言葉に、僕はむせかけた。

先生はくすりと笑って、フォークで皿を指先で回しながら言った。


「してないなら、今チャンスじゃない?

──彼女、たぶん心が弱ってる。抱きしめてあげたら、きっと泣いちゃうよ」


「……泣いたとしても、それでいいんですか?」


「……そうだね、ダメかな。

でもさ、どっちにしても……人を抱きしめる理由なんて、いつも中途半端だよ。優しさとか欲とか、罪悪感とかさ。どれも少しずつ混ざってる」


彼女はテーブルの下で、僕の足にそっと触れてきた。

膝と膝が当たる。それだけで、血の温度が変わる気がした。


「ちなみに、私はね。今日このあと智也にキスされたら、止めないよ」


その声は冗談のようで、でも冗談じゃないみたいだった。


「本当はね、小学校すら出てないんだ、私」


「……え?」


「いや、比喩じゃなくて。

子供のころ、不登校でさ。義務教育、全部受けてない。中学は通信でなんとかしたけど。

でも、なんとか大学出て、教師になった。変な話でしょ」


彼女の瞳が、夕陽を背にして、琥珀のように光っていた。


「だからね、生徒と目線が近くなるの。

たまに、教師って自覚がなくなる。悪い癖」


……何も言えなかった。

でも、そのとき僕は、片瀬先生が今、誰よりも孤独だってことだけはわかった。


夕方、砂浜の見える公園に車を止めて、僕たちは黙って海を見た。

風が髪を揺らし、潮の匂いが漂ってくる。


「ほんとは……このままどこか行っちゃいたいくらいなんだよ」


先生がぽつりと呟いた。


「でもそれって逃げだよね。私、逃げることには慣れてるのに、逃げきることは下手みたい」


そのとき、先生がそっと僕の手を握った。

その手は、少しだけ震えていた。


「智也。君って、ちゃんと傷つけられる子だよね。

ちゃんと傷ついて、ちゃんと怒って、ちゃんと……許せなくて。

そういう子、私、好き」


それから、僕のほうに顔を向けて——

一瞬、唇が触れそうになった。けれど、彼女はそれをふいっと逸らした。


「……やめとこ。今日は、キスしないでおく」


「なんで?」


「だって、たぶん、本気になりそうだから。

それは、今日じゃない。今日の海は綺麗すぎるから」


そう言って、片瀬先生はまた前を向いた。

水平線の彼方に、金色の光が揺れていた。


──きっと、僕はこの日のことを忘れない。

世界が少しだけ、寂しさに優しかった午後のことを。


海からの帰り道は、言葉が少なかった。

助手席で僕は、ただ窓の外を見ていた。

街灯が等間隔に流れていく。その光のひとつひとつに、今日の片瀬先生の笑い声が映っていた気がした。


「――なんか、変な一日だったね」


ハンドルを握ったまま、片瀬先生がふと呟く。

でもその声には、ぜんぜん“変”って感じがなかった。

もっとずっと、正しい。今日の一日が、何かの終わりで始まりで、そういうタイミングだったような、そんな声だった。


僕は何も返せなかった。

だって返事に何を選んでも、足りなかったから。


「……着いたよ」


車が停まる。エンジンが切れる。

近所の自販機の明かりだけが、夜の住宅街を照らしていた。


「ここまでで大丈夫?」


「……はい」


静かにドアを開けた。

出ようとしたそのとき、片瀬先生の手が、僕の手首をつかんだ。


「智也」


声が低くて、少し震えていた。


「今日、私は……先生じゃなくて、ひとりの女の人として、過ごしてた気がする」


僕は、息を呑んだ。


「でも、明日からはちゃんと先生に戻るから」


まるで何かを言い聞かせるように、彼女は続けた。


「……あなたのためにも、ね」


その言葉に含まれていた“さよなら”を、僕は聞き逃さなかった。

でもそれでも、僕は縋りたくなった。


「先生……」


彼女がふっと笑った。

寂しそうに、でも美しく。


「智也、キスしてきても、いいんだよ? きっと、今日なら許せると思う。

でも……そのあと私は、泣くかもしれない」


僕は動けなかった。

彼女に触れたくて、でもそれが、全部を壊すことのように思えた。


そして、彼女の手が僕の手から離れた。


「おやすみ、智也」


静かにウインドウが閉じられた。

僕の顔に、車内の灯りが一瞬映った後、エンジンが再びかかり、車はゆっくりと遠ざかっていった。


家に帰って、ジャージのまま、僕はベッドに倒れこんだ。


部屋の天井は、真っ暗だった。


片瀬先生の言葉が、ずっと耳の奥で残響している。

「先生じゃなくて、ひとりの女の人として」

……僕はあの時間を、何と呼べばよかったのだろう。


美穂のことが好きだと思っていた。

でも、片瀬先生の寂しさに、僕はあたたかさを感じてしまった。

それって、裏切りなんだろうか。


いや、違う。

……でも、それじゃ何なんだろう。


スマホを開く。

メッセージアプリの画面を何度も往復する。

美穂の名前。片瀬先生の名前。どちらにも、何も書けなかった。









僕はそのまま、まるで誰かを待つように、画面を見つめ続けていた。

画面はいつまでも、何の通知もくれなかった。


そして、僕は目を閉じた。

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