第15話 演技の理論と実際(1)
「鎌倉ってさ、なんか“ちゃんとした恋人”っぽいよね」
海が見えた瞬間、そう言ってみたら、智也は「へえ、そう?」と、どこまでも無関心な声を出した。
私はべつに、特別な反応を期待していたわけじゃない。
けれど、その素っ気なさが、ほんの少しだけ指先に引っかかる。
湘南の海は、まだ夏の名残を抱えたままだった。
波は白い泡を砕きながら寄せては返し、水平線の向こうにぼんやりと雲が浮かんでいる。
少しだけ優しくなった陽射しと、潮風に混じる夏の終わりの匂い。
心地よい風が、車内を抜けるたびに、いまここにいる理由を問われているような気がした。
私たちは、こうして並んで電車に乗ることはなかった。
きっと、これが最初で最後になる。
だから私は、今日は「ちゃんとした恋人」になりきると決めた。
カフェの午後、表面張力の会話
鎌倉駅を降りると、小町通りは観光客で溢れていた。
浴衣姿のカップル、ソフトクリームを持った外国人、道の端で写真を撮る人たち。
金色の光が、智也の白いシャツにふわりと落ちる。
私は、人混みを避けるように小道へそれた。
木陰の続く静かな通りには、ひっそりとした古いカフェが並んでいる。
そのひとつの前で足を止めた。
「ねえ、ここ、いい感じじゃない?」
軒先の手書きの黒板メニュー。
ガラスの向こうには、落ち着いた木のテーブルと、柔らかな照明。
奥の棚には古い洋書が並び、壁にはモノクロの写真がかかっている。
「へえ……」
智也は気のない返事をした。
私は、それを無視して扉を押した。
店内は静かで、コーヒーの香りが満ちている。
窓際の席に座ると、潮風がカーテンをゆるやかに揺らした。
メニューを開きながら、私は訊ねる。
「ねえ、鎌倉ってよく来るの?」
「……たまに」
智也は、コーヒーカップの縁をなぞる。
私は、その指先をぼんやりと眺めながら、違和感を覚えた。
たまに?
そんな話、聞いたことがない。
誰と? 何のために?
「誰かと来たことある?」
問いながら、私はストローをくわえた。
「……まあ」
言った瞬間、智也の指がカップの取っ手を、少しだけ強く握る。
——ああ。
私は知っている。
智也が何かを隠しているときの、この間の取り方。
「まあ」と言うときの、慎重な声音。
彼は、ここに来たことがある。
それも、私ではない誰かと。
その事実が、私の胸を静かに冷やした。
けれど、何も言わない。
今日の私は、「ちゃんとした恋人」を演じるのだから。
江ノ電、揺れる距離感
店を出て、二人で歩く。
石畳を踏みしめながら、私はできるだけ明るく訊ねた。
「次、どこ行く?」
智也は少し考えてから、「江ノ電乗る?」と言った。
「いいね」
私は笑いながら、心の中で舌を巻いた。
——何をごまかしてるの?
たぶん、智也は自分でも気づいていない。
でも、私は知っている。
「まあ」の一言に滲んだ迷い。
カフェの木のテーブルの上で、決して交わらなかった視線。
私が気づかないふりをしている間に、彼は自分の気持ちにさえ嘘をつこうとしている。
それでいて、私はそれを咎めない。
見透かしていることすら、悟らせたくない。
だって、今日は「ちゃんとした恋人」だから。
江ノ電のホームに立つと、波の匂いが強くなった。
遠くで、かもめの声がする。
空はどこまでも澄んでいた。
それなのに、私たちの足元には、目に見えないひび割れが、静かに広がっていった。
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