春にまた会いましょう
とりりんQ
第1話 四月の終わり、春の残響
教師ってのは、たいてい「先生」と呼ばれるものだ。でも、僕の中で彼女は「先生」じゃなかった。最初にそう思ったのは、四月の終わりの放課後。教室の窓の外、沈みかけた夕日が薄桃色の光を落としていた。
「高梨智也、ちゃんと聞いてる?」
片瀬美緒は、僕の名前をフルネームで呼んだ。高梨智也。そういえば、誰かに名前を呼ばれるのは久しぶりだった。
僕はぼんやりと頷く。
「だったら、もう少し集中しなさいよ」
片瀬はそう言って、手元のプリントをトントンと机に揃えた。その仕草が妙に色っぽく見えた。教師のくせに、手首が細すぎる。指の関節がはっきりと浮いて、爪は淡いピンク色に塗られていた。
少しだけ甘い匂いがした。
香水じゃない。たぶん、シャンプーか、ハンドクリームの匂いだ。僕の母親が使っていたのと同じ匂いだった。いや、母親のことを思い出したのは後付けで、本当はもっと本能的な何かだった。
「ちゃんと読んでみて」
片瀬が持っているのは、谷崎潤一郎の『春琴抄』だった。僕は適当にページを開いて、文章を追う。声を出して読んでいるのに、意味が頭に入ってこない。
春琴。盲目の少女。彼女に仕える佐助。
彼女のために、彼は目を潰す。
愛は盲目ってやつだ。笑っちまう。
「どう? 佐助の気持ち、わかる?」
片瀬が僕の顔を覗き込んだ。四十歳の女の目って、こんなに綺麗だったか。何かの拍子に眼鏡をずらしたら、そこに隠れていた素顔が出てきてしまいそうで、僕は目を逸らした。
「わかりません」
「そう」
片瀬は短く笑って、髪を耳にかけた。その仕草の一つひとつが、僕の中で変に意味を持ち始める。
教師が生徒を指導するのに、こんなに近づく必要はない。
僕の制服の袖と、彼女のブラウスの袖が一瞬だけ触れる。
それだけで、体温が上がる。
僕はそのまま、目を閉じた。
「……高梨?」
片瀬の声がする。僕は目を開けないまま、静かに息を吸った。
「先生、今日はもう帰ります」
席を立つと、片瀬は驚いたように目を瞬かせた。その顔が、やけに幼く見えた。
「もういいの?」
「はい」
本当は、帰りたくなかった。
でも、これ以上ここにいたら、僕は何かをしてしまいそうだった。
夕日に照らされた廊下を歩く。
春が、落ちる音がした。
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