第32話 「聞いてくれたのね、あたしの話を」
或る日、その男の姿を初めて見た時、おみねは、一目で、これまでの男に無い異様なものを見た気がした。男は舟頭だった。
「初音」は舟を舫って大川縁から直接に裏口へ通じていた。男は裏口を入った土間の上がり框に腰掛けて煙草を吸っていた。頬から顎にかけて黒々と髭で覆われていたし、鼻の下の口元にも黒い剛毛が在った。それはまるで熊のようで、素顔の人相を隠しているかのようだった。おみねは、危うく、空になった銚子を盆から落としそうになった。
「あんた、其処で、何しているのさ?」
「ああ、屋形舟に乗った客人に此処で待つように言われたもんで・・・」
振り向いた男の貌も怖かったが、見開いた大きな眼も射すくめるような鋭い眼光を湛えていた。だが、おみねはそれだけではないものを見ていた。鋭い尖った眼をして、自分を潰してしまいたいような破れかぶれの表情が垣間見えた。胸の奥底に大きな抱え切れないほどの錘を沈めているようにおみねには思えた。おみねは自分と同じものをその男に見た気がした。
「此処へ置いておくからね」
おみねはそう言って熱い燗酒の銚子と適当に見繕った煮物を盆に載せて、男の脇へ置いた。
「済まねえ!今夜は冷えるからなあ」
それから、おみねの方へ顔を向けて、静かに訊ねた。
「有難うよ!ところで、姐さんの名は何と言うんだい?」
「名前を聞いてどうしようって言うのさ?」
「いや、なに・・・親切にして貰って、名ぐらい覚えておこうと思ってな」
「別に憶えて貰わなくて良いけど、名はおみねって言うんだよ」
「おみねさんか・・・良い名だな・・・うん」
「人の名前を聞いておいて、自分は何と言う名なのさ?」
「ああ、俺か?俺は舟頭の嘉吉って言うんだ」
男の眼はそれまでとは打って変わって優しい眼差しだった。
おみねは戸惑いながら直感で思った。
この男は自分では抗い切れない大きな運命に弄ばれているのではないか?或は、何か過酷な役目に奔走しているのではないか?・・・
数日後、嘉吉は一人で「初音」へ呑みにやって来て、酌女におみねを名指しした。
男は無口だった。殆ど話をしなかった。おみねのことを聞かなかったし自分のことも話さなかった。おみねの酌で黙々と飲んで食した。が、それでいて、気詰まりとか鬱としいという雰囲気ではなかった。馬鹿騒ぎの多い酒席とは違っておみねもしんみりと静かに盃を受けた。
嘉吉は来る度におみねを名指しして小座敷へ上がった。
幾度目かに嘉吉が来た時におみねが言った。
「あたしに逢いに来てくれるあんたの気持ちは嬉しいけど、こんな値段の高い店はあんたの来る所じゃないよ、もっと気軽に気さくに飲める店を紹介するから、此処にはもう来ない方が良いわ」
「うん、うん・・・」
嘉吉は頷くだけだった。
そして、帰り際に嘉吉が言った言葉がおみねの胸に突き刺さった。
「お前ぇも早くこんな世界から足を洗うことだな。あまり似合っているとも思えねえがな、俺には」
然し、おみねにはどう足を洗ってよいのか判らなかった。十五の時からどっぷり浸かって来た水商売の泥水からどう抜け出せばよいのか、見当もつかなかった。
又、嘉吉が言った。
「何を甘ったれたことを考えているんだ!お前ぇ一人が不幸せなんじゃねえよ。辛くてきつくて耐え切れなくて、涙なんかとっくに涸れ果てても、それでものた打ち回って這いずり回って、生きている奴はこの世の中には山ほど居るんだ。しっかりしなよ、な」
そう言いながら嘉吉がやさしくおみねを抱きかかえた。
おみねがこれほどきつく他人から怒られたのは初めてだった。独りで歯を食い縛って生きて来た阿婆擦れ女が舟頭に慰められている、そう思うと凍てついた心が少し溶けるようだった。
嘉吉の言った言葉はその後もおみねの心から離れなかった。次第に二人は心を通い合わせる間柄になって行った。
だが、事も有ろうに、嘉吉が抜け荷の荷運びに加担し、挙句の果てに、自分をお縄にしかかった岡っ引きを刺し殺して江戸から逃亡し、おみねの前から姿を消した。
おみねは信じ難かった。嘉吉が抜け荷に加担してまで金を欲しがっているようには到底思えなかった。
「二人で所帯を持つくらいの金なら俺にも在るんだ、おみね」
「えっ?あたしと一緒になろうって言うの?あんた・・・」
「ああ、そうだよ、お前ぇと一緒に暮らすんだよ」
「ほんとうなのね?信じて良いのね?」
「ああ、真実だとも」
二人はひしと抱き合った。
「あたしだって、あんたと一緒になるお金くらい持って居るんだから、大丈夫よ」
思い出す度におみねは哀しさとやるせなさが胸に込み上げて来た。
日増しに募る嘉吉への思いを紛らす為に、おみねはそれまで暫く止めていた大酒をまた飲み始め、正体も無く酔い潰れることも間々起きた。そして、とうとう「初音」からも追い出されてしまった。
「お前のような男にだらしの無い大酒呑みは店の看板に拘わるんだよ。明日からと言わず今日からもう来なくて良いよ」
女将に店を辞めさせられたおみねは今の「ゆめ半」に鞍替えした。
「聞いてくれたのね、あたしの話・・・ちゃんと聞いてくれて、そんな目をしてくれた・・・嬉しい・・・」
おみねは袂で胸を抱くような仕草をした。
「あたし、今まで、男は皆んな犬畜生だと思っていた・・・でも、犬畜生の男も居るけど、そうじゃない男も居るのね。そう思うようになって来たんだわ」
恒一郎が帰る時、おみねは外まで送って出て来た。
「もう直ぐ、桜が咲くのね・・・桜が咲いたらお花見に行ってみたい、お弁当を作って、お酒を持って・・・あたし、子供の時から、一度で良いからお花見に行ってみたかったの」
「連れて行ってやるよ、俺が」
恒一郎は思わず答えていた。そう答えずにはいられなかった。
「ほんとうに?・・・」
おみねは身体中で喜んだ。
「早く、桜が咲きますように・・・」
恒一郎はおみねを花見に連れて行こうと心に決めた。
「ゆめ半」からの戻り道、恒一郎はおみねのことを考えた。
あいつが大酒を飲んで、男はみな犬畜生だ、ろくでなしだ、と罵るのは、あいつが物心ついた時からそう言う男にばっかりぶつかって来たからだ。騙され続け、裏切られてばかり居たら、誰だって男は皆んなそういうもんだと思い込むだろう・・・
一人として真面な男に出逢わなかったおみねのことを考えて、恒一郎はやり切れない気持ちになって来た。おみねの喜ぶ姿を目に浮かべて、彼は花が咲くのを待ちかねた。
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