第30話 おみね、妾になる
或る日、水茶屋の床几に腰掛けて茶を呑んでいたおみねに一人の見知らぬ男が声を掛けて来た。四十がらみの物腰の柔そうな男だった。
「お前さんがおみねさんだね?」
「そうだけど・・・あんたは一体、誰なのさ?」
「お前さんを囲いたいと言う大店の御隠居が居るんだがね。どうだね?話だけでも聞くかね?」
「えっ?あたしを妾に?」
「今のご時世、妾奉公は女の立派な稼業だ。妾になるのは、何もその日暮らしの貧乏な娘じゃなく、ちゃんとした商家の娘たちだ。女中奉公よりも実入りが良いから進んで妾になる娘も数多居るってもんだよ」
おみねは興味を惹かれて身を乗り出した。
「あんた、口入屋なの?」
「そうさ、あたしが仲立ちして話を纏めるのさ。もっと詳しく話そうかね?」
「うん、うん・・・」
「手当は月に五両(五十万円)だが、あたしが一両頂くから、お前さんの取り分は四両だ。本宅には妻女が居るから別宅を用意して、買物や家事を熟す小女も付けるそうだ。まあ、五日に一度か、七日に一度ほどやって来る隠居の夜の床寝の相手をすれば、後は好き気儘に暮らせるということだ」
「月に四両と言うと一年で五十両近くにもなるじゃない?・・・」
おみねは、心底、愕いた。
「そうだな。住み込みの下女の手当が年に三両止まりだから、割の良い稼業ではあるわな。だから、田舎出のちょっと器量の良い娘は下女奉公を辞めてさっさと妾奉公をするし、下手に貧乏人の女房になるくらいなら妾になった方が遥かに楽な生活が出来るというものだ」
おみねの心は大いに動いた。
見透かしたように口入屋が話を続けた。
「取り決め期間は二年で、ちゃんとした証文も作られる。あんたは、読み書きは出来るのか?」
「幼い頃に、手習いでちょっとはやったよ」
「それなら好都合だ」
「相手の御隠居ってのはどんな人なの?」
「歳は五十過ぎで、躰はそんなに大きくはない。店の商売は既に息子に仕切らせているが、金目の大事なところは自分が握っている。まあ、大店の主だから一筋縄ではいかんかも知れないがね」
決心しかねているおみねに口入屋は言った。
「今の世の中、妾は隠されるものではなく、妻女も承知の上で公に知らされる。隠れて秘密に行う不義密通とは違うんだ。江戸の街には武士にも町人にも独り者が多い。だから“安囲い”が流行るって訳だ」
「えっ、何、その“安囲い”って?」
「一人の妾を複数の男たちが囲うのさ。妾の費用を分担することで、出る金を節約しようという魂胆だな」
「そんなことをして、妾の家で鉢合わせをしたらどうなるの?」
「そうならねえように女が日取りを決めるのさ」
「なるほど、上手く考えたもんね。男は安上るし女はたんまり稼げる、両得って訳だ」
「そうかも知れねえが、女は躰が持た無ぇんじゃないか?三日に一度来る旦那を三人持てば毎日ってことになる、五日に一度にしても三人なら月の内二十日ほどは相手をしなきゃならねえ、然も、同じ相手じゃねえから、そりゃきついだろうよ」
「それも、そうね・・・」
「それを考えりゃ、あんたの場合は、あんたに見惚れた隠居独りだけが相手だから、楽ってもんだぜ、な」
一月後・・・
口入屋が仲立ちして期限二年の証文も整い、双月分の手当てを先立てられて、街端れに用意された閑静な小宅へおみねは宛がわれた小女を連れてしゃなりと入った。
相手は齢五十二の恰幅の良い男だった。確かに身体はそう大きくは無かったが、然し、とても隠居には見えなかった。男は米問屋「枡屋」の主人で名を幸右衛門と言った。「枡屋」は米だけでなく味噌、醤油から塩まで商い、水戸や尾張にも出店を持つと言う大店だった。
おみねは両膝を揃え両手を畳に着いて丁寧に挨拶した。
「みねと申します。不束者ですが、どうぞ宜しゅうお頼い申します」
口入屋に教えられた挨拶の口上だった。
「幸右衛門です。此方こそ宜しなに、な」
息子と番頭と女中頭が同道していた。
早速に酒肴が運び込まれ、小さな宴が始まった。
「さあさ、おみね、今日はお前のお披露目の日じゃ、其処の小女も一緒して賑々しくやっておくれ」
幸右衛門はそう言って相好を崩した。
夜更けて共連れが帰った後、おみねと幸右衛門の初めての床入りとなった。
幸右衛門の誘いは優しかった。忙し気に急いで押し入ると言う風はなく、ゆっくりと滑らかにおみねに躰を開かせた。若い貫太郎相手の時とはひと味違った悦びがおみねの躰を駆け巡った。
だが、幸右衛門の精力は旺盛だった。三日と空けずに足を運んで来て、おみねの躰を求めた。然も、それは、次第に、執拗で粘ちこく長々と続くようになった。最初、おみねは初めて味わうような歓喜に身も心も震えたが、次第に果てしなく続く狂気のような愛撫に心も躰もきつくなって来た。
「もう、堪忍して・・・」
ことが終わった後は精根尽き果てて、ぐったりと動けなくなった。
幸右衛門も、おみねの底の無い甘くて濃い蜜に吸い付きながらも齢には勝てないのか、偶には、おみねを抱くこと無く、酒肴だけで帰って行くこともあった。ただ、その時には、おみねに着ている物を全て脱がせ、一糸纏わぬおみねの躰を半時も眺め廻した。
「旦那、寒いから、もう着物を着させて・・・お願い」
おみねの懇願に、躰に穴の開くほど眼で味わってから幸右衛門は帰って行った。
一年ほどが過ぎた頃・・・
執拗な愛撫に耽っていた幸右衛門の躰がおみねの上で急に動かなくなった。
「旦那、どうしたんですか?重いですよぉ・・・」
顔を上げておみねが見ると、幸右衛門が口から舌を出し、涎を垂らして、眼を剥いていた。
「旦那!旦那!起きて下さいよ!」
吃驚して肝をつぶしたおみねは直ぐに本宅へ小女を走らせた。
程無くして駆けつけて来た医者は診察の後、首を横に振って、同道して来た息子に言った。
「命は大丈夫ですが、恐らく、旦那は中風でしょう。口は利けませんし、躰の半分は麻痺してしまいます。薬は後で整えますが、果たして快くなるかどうか?・・・」
誰もが呆気に取られて言葉が出なかった。
暫くして、息子がおみねに怒鳴った。
「あんたが親父を殺したんだ!あんたが殺ったんだ!」
「あたしは旦那を、殺したりなんかしていないわ!」
カッと来たおみねが怒鳴り返した。
「殺してなくても、死んだも同然だ!お前がやったんだ!」
「旦那は思い切り歓がって、死ぬほど歓がって、あたしの腹の上で倒れたんですよ。きっと本望だったと思いますよ!」
「何だと、この淫売女!」
数日後、妾を仲立ちした口入屋が「枡屋」の女房と話を纏めて、おみねの小宅へやって来た。
「期限はあと一年残って居るが、一年分の手当てを満る満る獲るのはちいと阿漕ってもんだ。話の解る良く出来たおかみさんで、半分の半年分で話を着けて来たから、あんたもこれで納得してくんな。此処に二十五両有る、さあ、収めてくれ」
おみねに異存はなかった。有難く頂戴した。
「この家は出来るだけ早く空けて欲しいそうだ。一月以内に立ち退いてくれ、良いな」
「分かりました、そうしますよ」
口入屋が改まった口調で言った。
「こんなことが有って何なんだが、どうだね?次の口が在ったらまた乗るかね?」
「いえ、旦那、この稼業は疲れましたよ、金にはなりましたが心も躰もへとへとです。もっと勝手気ままに暮らせる仕事を見つけますよ」
「そうか。まあ、精々、頑張って稼ぎなよ。相談事が有ったらまた話に乗るぜ」
口入屋はそう言って帰って行った。
が、おみねの胸には、稼いだ金に対する疎ましい気持だけが凝固って残った。
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