第3話 帰郷
健二は債権回収に奔走した。
会社は負債と共に売却され、次に住んでいた時価総額1億円のタワーマンションも手放すことになった。月10万円ローンのベンツE-Classも売却した。そして、最後に…母親から譲り受けていた千早村の実家土地と建物も抵当に入れるしかなかった。
「お母さん、すまない...」健二は土地の権利書に印を押す時、マチ子に謝った。
しかし、マチ子は驚くほど落ち着いていた。「健二、あなたはよく頑張った。母さんは誇りに思うよ。それより、これからどうするの?」
健二には答えがなかった。彼らには住む場所がなくなり、貯金も底をついていた。マンションの売却で得たわずかな資金では、大阪市内に新たな住居を見つけることは難しい。
そんな折、意外な提案が弁護士から届いた。千早村の実家を抵当に入れる代わりに、その家に家族が住むことを債権者が認めたのだ。「税金対策と空き家対策を兼ねて」という理由だが、実際には健二の誠実な対応と、彼の家族状況を考慮した債権者の人情的な判断だった。
荷物をまとめ、大阪を離れる日、健二は40階の窓から最後に大阪の街を見下ろした。夕暮れ時の都会の輝きは美しかったが、同時に冷たく感じられた。
「さようなら」彼は小さく呟いた。
チュンチュン、チッチッチッ...ツクツクツク...
健二は目を覚ました。見慣れない天井、畳の香り、そして窓から差し込む柔らかな光。最初は自分がどこにいるのか分からなかった。そして思い出した。彼らは昨日、千早村の実家に到着したのだ。
雀や山鳥たちの声が、老朽化した農家の畳の居間に響いていた。健二は布団から起き上がり、窓を開けた。すると、爽やかな朝の空気が流れ込んできた。
「こんな空気、何年振りだろう...」彼は深呼吸した。
家は健二が子供の頃に過ごした実家だったが、ずいぶん老朽化していた。
壁には亀裂が入り、床は所々沈み、屋根の一部は雨漏りしていた。しかし不思議と、彼はこの家に安らぎを感じた。
朝食の支度をしようとキッチンに向かうと、既にマチ子が忙しそうに立ち働いていた。
「お母さん、何してるの?」健二は驚いた。マンションでは料理をすることなく過ごしていた母親が、ここでは生き生きと料理をしているのだ。
「あら、健二。おはよう。山菜の天ぷらと焼きおにぎりを作ってるのよ。昨日、村の八百屋で山菜をもらったの。」
「お母さん...料理なんて何年ぶり?」
マチ子は微笑んだ。「そうねぇ...でも体が覚えているものね。ここに来たら、昔のことがたくさん思い出されるわ。」
その日の夕食時、久しぶりにマチ子が山菜の天ぷら、焼きおにぎり等の手料理を円卓に並べ、家族4人が円卓を囲んだ。マンションでの生活では考えられなかった光景だ。
「お母さんの会社も、ステイタスも、何もかも無くしてしまい...お母さん!安子!弘!...本当にすまん!」憔悴しきった健二が頭を下げた。彼の目には涙が溢れていた。
「健二には申し訳ない事したけど、ここに帰れて良かったわ。あんな息が詰まるマンションは懲り懲りです。」マチ子は本気で答えた。
安子も正直に答えた。「お母さま、私もこんな鳥や虫の声が聞こえる素敵なところに来て驚いてるの。だって眩暈も鬱も治ったかも!」確かに安子の顔色は良くなっていた。
弘は話さなかったが、黙々とご飯を食べていた。しかし、彼の表情は柔らかく、マンションにいた頃の緊張感はなかった。
「こうやって、みんなで助け合ったらいいじゃない!ねえ!」安子は久しぶりに明るい声で言った。
健二は窓の外を見た。広大な田園風景が夕暮れに染まっていた。この広い田舎の土地と空気、それ以外何も無い。何も...でも…本当に「何も」ないのだろうか?健二は考えた。
確かに都会のような便利さはない。しかし、この静けさ、この空気、そして家族の笑顔。タワーマンションでは決して手に入らなかったものがここにはあった。
「また、一から出直しか」
健二は翌朝、休耕田を見ながら呟いた。何をすればいいのか、まだ明確な答えは見つからない。とりあえず、荒れた田んぼを耕すことから始めようと思った。
休耕田は雑草が生い茂り、長年手入れがされていなかった。健二は古い鍬を手に取り、黙々と草むしりを始めた。田舎暮らしは初めてのことばかりで、すぐに体が悲鳴を上げたが、不思議と心は落ち着いていた。
「お、お父さん!僕も手伝うよ。僕も...一から出直しするよ!」
振り返ると、弘が駆け出してきた。引きこもりだった息子が自ら外に出てきたのだ。スマホも持たずに。
「ひ、ひろし!」健二は驚きのあまり言葉に詰まった。
弘の目は、イキイキと輝いていた。太陽の光を浴びた彼の顔は健康的で、マンションで過ごしていた頃の暗い表情はどこにもない。
「お父さん、教えて。どうやって耕すの?」
健二はゆっくりと鍬の使い方を息子に教えた。二人で一緒に汗を流す。これほど幸せなことがあっただろうか。
「お父さん、ここで何を育てるの?」弘が真剣な表情で聞いた。
健二は立ち止まり、広がる田園風景を見渡した。そして、突然閃いた。
「野菜だ...無農薬の野菜を育てよう。お母さんの『無添加』『オーガニック』の精神を受け継いで。」
その夜、健二は家族に新しい事業のアイデアを話した。千早村の豊かな土壌と清らかな水を活かした無農薬農業。そして、その農産物を直接消費者に届ける小さなビジネスモデル。
「社員は当分雇えないから、家族みんなで協力しないといけない。それでも...やってみないか?」
マチ子の目が輝いた。
「無添加...それが私の夢だったのよ。工場で作るんじゃなくて、本当に自分たちの手で育てた野菜を届ける。素晴らしいわ、健二。」
安子も頷いた。「私、インターネットの使い方は得意よ。オンラインで野菜を販売するサイトを作れるわ。」
弘は少し考えてから言った。「僕、学校に戻りたい。それと、この村の伝統野菜について調べたい。何か特別なものがあるかもしれない。」
健二は家族の顔を見回した。タワーマンションで過ごしていた頃の緊張感や虚無感は消え、代わりに希望と決意に満ちた表情がそこにあった。
「よし、やろう。一からやり直そう。私たちには、失ったものよりも、これから得るものの方が多いかもしれない。」
窓の外では、夜空に星が瞬いていた。大阪の夜景とは違う、自然の輝き。その下で、彼らは新しい一歩を踏み出そうとしていた。
貧しさの中で、今までの人生で、とびきり1番の豊さを感じていた。それは物質的な豊かさではなく、心の豊かさだった。タワーマンションの檻から解放され、彼らは本当の自由を手に入れたのかもしれない。
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