第44話
ジーヴルの胸に凭れながらその余韻にしばしぼうっと浸っていたクラネだったが、もう二つの大事なことを確認しなくてはいけなかったことを思い出す。
「あの、僕の借金の返済とは……まさかとは思いますが、肩代わりするとか、言い出さないですよね……?」
「お前にしては察しがいい。その通りだ」
ジーヴルに借金の話を聞かれ呼び出されてから実はずっと危惧していた。クラネのことを慮ってくれるこの人はもしかしたら、そう言ったことを言い出しかねないと。
「絶対に、駄目です。自分の借金は自分で返します」
「ああ、お前ならそう言うとも思った」
「なら」
「クラネ。私はお前の借金を肩代わりする。だが、チャラにするとは言っていない。今後お前が借金を返済する相手は、私だ」
ぱちりと瞬いたクラネに、ジーヴルは三日月のように瞳を細めた。
「借金の総額は一万枚余りだったな。私が出す条件はこうだ。返済額は月に金貨十枚。利息はなし。お前にはこの邸に越してもらうから家賃も食費も払う必要はなくなる。これである程度不足なく生活できると思うが、どうだ?」
「えっ、いや、ジーヴル様、それは、というか引っ越しってそういう、どうしてそんなことに……?」
「じゃあ、聞くが。借金がなくなったら、お前は今住んでいる家から引っ越すか。今の食生活を改めるか」
クラネが答えるより先に、きっぱりとジーヴルは断言する。
「しないだろう。お前はお前を大事にするのが不得手だ。それは、お前がそういう風に育ってきたからというのもあるだろうが、私はそれを仕方ないと放っておく気はさらさらない。私はお前を大事にしたい。だから、目の届くところにお前を置きたい」
給金を貰って働いている社会人のみで、人様の、しかも雇用主でもある相手の邸に住まわせてもらうなんて。申し訳ないと思うのにこうもまっすぐに言われると、拒む言葉が上手く出てこない。
「そ、それは、それとして! 月金貨十枚だったら返済までにとんでもない年数がかかってしまいます」
「八十年ほどだろう。それまでにお前はここをやめる予定があるのか」
「ない、ですが」
「なら問題ないだろう……まぁ、ここに住まわせるのも、返済額も、畢竟私情だが」
ジーヴルすらりとした指がクラネの顎を掴み持ち上げる。
「梳いた相手と少しでも一緒にいたい。借金があれば義理堅いお前は私から離れられない。だろう?」
うっそりとした表情で告げたジーヴルは、クラネの唇にキスを落とす。またあの舌を絡めるくらくらするのが来るかもしれないと身構えると、ジーヴルは小さく笑い、ただただ唇を重ねた。
「独善的な提案をしている自覚はある。お前が拒むのであれば、別案も考えている——今月からお前の給料を月金貨一万枚にするという案だ」
「ぜっ、絶対駄目です!」
「ちなみに一度上げたら、二度と下げない。昇給はするだろうが」
しれっと宣うジーヴルに、クラネ喉からは「ひぇ……」と情けない声が出た。
「ひぇ……」
月金貨一万枚が支払われる職場などこの世に存在するのだろうか。有名な魔法学校を卒業し大企業や国の機関に所属している魔法使いだってひと月の給金はその十分の一にも満たないぐらいではないか。恐ろしすぎる提案に、クラネは別の意味でくらりとする。
別案はあってないようなもの。そもそも……もう断る気は、ほとんどなかった。条件があまりにもよすぎて、申し訳ないとは思う。だが、これほど熱烈にクラネを望んでくれた人は、これまでにいなかった。嬉しくないわけがなかった。
「あの、ジーヴル様」
「なんだ」
「……僕のこと、邪魔だと思ったら、遠慮なく追い出してくださいね?」
ぴしり、と。ジーヴルの体が強張ったかと思うと、すうっと細んだ瞳が据わった。
「ともに過ごす時間が増えるからな。じっくりたっぷりと教え込んでいく」
近づいてきた顔に、なんとなく、今度こそ舌が絡まるキスが来る予感がした。
クラネは咄嗟に口の前で両手を構える。
「ジ、ジーヴル様、あの」
意識が朦朧としてしまう前にと、クラネは言っておかねばいけないことを告げた。
「色々お心遣い、ありがとうございます……あの、末永くよろしくお願いします」
わずかに黄金を見開いたジーヴルは、そっと眉を下げて笑みを零した。
「お前は狡い」
その後降ってきたキスは、案の定。
どうやら思ったよりもずっと、ジーヴルに慕われているらしい。
二度目のキスでまた腰が抜けてしまったクラネは、毎度お世話になっている客室に泊まらせてもらうことになった。
横に抱えて運んでもらい、ベッドに下ろしてもらったとき、ジーヴルが尋ねてきた。
「もうひとつ聞いておきたいことがあったんだが。買い出しでなにかあったのか。帰って来たとき、顔色が悪かっただろう。態度を見るに、借金とは別件だな」
クラネは返答に窮した。ただでさえ借金の件で心配をかけてしまいとんでもない配慮をしてもらった。そのうえ父の件まで相談するのは、あまりにも心苦しい。
——そもそも、買い出しのときのことは、気のせいかもしれない。
父のことを考えていたから、たまたまそう言った幻覚を見てしまっただけ。そう、きっとそうだ。
「色々あって、ちょっとした勘違いをして、びっくりしちゃっただけです。すみません、心配をおかけして」
「……クラネ。前にも言ったが、私はお前に隠し事をさせる気はない。お前が話したくないことを無理強いしたくはないが、それでお前が傷つく可能性があるのなら、私は放ってけない。あのときの顔色も、今の間も、大丈夫だろうと思えるものではなかった。なぁ、話してはくれないか」
まっすぐに見つめられ、クラネは胸はきゅうっと締まる——この人は、どれだけ自分に手を差し伸べてくれるのだろう。自分はどれ開け、この人のやさしさに報うことができるのだろう。
途方もないぬくもりを前にした自分の無力さにかすかな不安を覚えながら、クラネはぽつりと、口を開いた。
「……商店街で。お父さんを、見かけたかもしれなくて」
「なに?」
「でも、ちょうど、お父さんのことを少し考えていたタイミングで。だから、気のせいかもしれないんですが」
いっきに眉を顰めたジーヴルは、顎に手を当てしばし考えこんだ。それからジーヴルは、クラネの前髪をそっと撫でた。
「明日、出かけるはやめておくか? 気のせいでも気のせいでなくとも時間が経てば、この街から離れるかもしれない。借金の件は私が一人で片しておこう」
「駄目です、僕が借りたお金の話をするのに僕が行かないのはあまりに筋が通りません。それに……僕も、ジーヴル様とのデート、楽しみです」
ジーヴルの瞳が星のようにぱちぱちと瞬く。それからあっという間に、ジーヴルはクラネを抱きしめた。
「……せっかく外でデートするのなら、美味しい食事ができる店や華やかな場所のひとつぐらい連れて行ってやれたらよいのだろうが。すまない。あいにく、知らないんだ」
「僕は、ジーヴル様とお出かけできるだけで嬉しいです。あ、でも、ひとつだけ、ジーヴル様としたいことがあります」
「どこだ」
「夜に、一緒に星が見たいです」
少しの間を置いてすぐそばで、深々としたため息が聞こえた。
「……クラネ」
「はい」
「お前が、愛しい」
「あ、ありがとう、ございます……僕も、ジーヴル様が、愛しい、と思います」
ふ、とジーヴルは小さく笑うと、静かな声で言った。
「クラネ。明日も、この先も。お前になにがあっても、私が守る」
紡がれたそのの言葉には、揺るぎない意志が込められているように感じた。
——大魔法使いに守ってもらえるのは、それはとてつもなく心強いこと、なんだろうけど。
「……ありがとうございます、ジーヴル様」
名残惜しそうに体が離れていき、ジーヴルは最後にクラネの唇に、自身の唇を触れ合わせると、部屋を出て行った。
ベッドに横になったクラネは、天井を仰ぎ、やわらかな明かりに手を伸ばす。
非才中の非才。どうしたってジーヴルに追いつくことは当然、足元にも及ばないだろう。
それでも、クラネが目指すのは、ジーヴルの力になること。
「……強く、なりたいなぁ」
少しでも。ジーヴルに守られるだけでなく、ジーヴルを守れる存在になりたいと、クラネは強く願った。
そのためにも——もし、街中で見かけたお父さんが、幻覚でも、そうじゃなくても、僕は。
ずっと目を逸らしてきた、あの人の痛みに、そして自分の痛みに、向き合わなくてはいけないと思った。
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