第39話

 その夜、クラネは邸の屋根の上でジーヴルと横並んで座り星を眺めていた。

「あ。あれ、くつべら座ですかね」

「ああ。五月に見える有名な星座のひとつだな」

「じゃあ、その隣にあるあの星の並びがあまがさ座で……その、上に……あ、はざくら座もありました」

 ジーヴルから借りて読んだ「星の名前」の本の記憶と照らし合わせながら、星空を指さしていく。

「お前も星を見つけるのがうまくなったな」

「分かりやすい形のしか、まだ見つけられませんが」

「最初はそんなものだ。あまがさ座が結ばれた経緯は知っているか」

「この本で読みましたよ。たしか——ある雨の夜、蹲って雨に打たれている狐を見つけ、一晩中傘に入れてあげた男がいた。その翌日の晩、よく晴れた空に数千年に一度の流星が降った。かと思うと、その人の家の前に、突如として大量の野菜が現れた。もしかしたらあの狐が傘の礼に星と野菜を贈ってくれたのではないだろうか。そう思った男は、さらなるお礼といて、星を結んだ……だから、あまがさ座の傘の部分には狐の耳のような尖りがあるんですよね」

「その通りだ。結ぶに至った経緯の物語は星によって様々だ。無論、いずれも真実の保証はなく想像の可能性もあるが、そこも含めて興味深い。特に愛憎ものなどは話を膨らませ歌劇などの題材にされることもあるが……私はこういった穏やかなものが好ましく感じる」

「そうですね……僕も、このお話好きです」

 昔は、物語というものが苦手だった。苦しい話は苦しくなるし、かといってしあわせな物語はあまりに遠く眩しすぎる。どれを読んでも心が軋んで耐え難かった。けれど今は昔よりもいくらか物語を受け入れられた。

「今度は星の話集を貸そうか。後で持ってくる」

「え、そんな、この間も別の本を貸してくださったのに……また借りてしまっていいのですか?」

「お前と出会って、同じ空を見たり、同じ本を読んだりして語らうのがこんなに良いものだと知った。だから興味があるのなら読んでくれると嬉しい。勿論、星以外でも気になるものがあれば貸す。あそこにあるのはすでに一度読んだ本だ、必要があれば解説もしてやれるだろう」

 やわらかな夜風が吹く。ジーヴルの長い髪がふわりと靡く。彼の手がふいにクラネの方に伸びてくる。

 五月に入り昼夜の気温は少しずつ上がっていっている。だが、彼の手は相変わらず冷たい。それでも、クラネはあたたかくなったときのジーヴルの手の温度も、知っている。

 ジーヴルの手のひらがクラネの頬をそっと撫でていく。それがくすぐったくてここちよくて、クラネからも少し頬を添わせると、ジーヴルは何かを堪えるように黄金の瞳をきゅっと細める。

 この頃やりとりの中でその顔を見ることはままあった。堪えている、といっても、よくない感情があるようにも見えない……というか、おそらく、ないとは思う。

 だってこの表情をしたあと、ジーヴルは必ず、こう問うてくる。

「抱きしめてもいいか」

 そしてクラネは必ず、頷き、両手をそっと広げる。

「はい、よろしくお願いします」

「……ふ」

「ジーヴル様?」

「いや……お前がかわいいと思った」

 ジーヴルは先よりも柔らかく瞳を細める。

 かわいい。幼い頃に母から、庶務資格学校の友人からなどこれまでの人生で言われたことがないわけではなかったが……ジーヴルに言われると気恥ずかしさともどこか違う熱いなにかが自身を包み、鼓動が、どっどと早くなる。

 間に、ジーヴルがクラネの体をぎゅっと抱きしめた。顔が埋まる肩口からは石鹸が香る。いっそう、体が熱くなる。

「あの、ジーヴル様」

「なんだ、クラネ」

 頭上からいつもよりも少し緩んだ囁きが降る。心地いいと思ってくれているのが伝わって、とても、嬉しくなる。

「実は、僕もずっと、ジーヴル様を抱きしめたいと思っていて……いいでしょうか……?」

 風邪を引いた翌日。クラネを抱きしめてくれたジーヴルの背に手を回そうとして失敗してから、妙にためらいが生まれてしまった。だがあの日から今まで、月が変わるほどの日時を共に過ごしていくにつれて、ジーヴルを抱きしめたい気持ちが高まっていった。

 ——やっと切り出せた。

 ずっとためらってきたことによる緊張から解放され、クラネはいったんほっとした。そして、ジーヴルの返事を待ちつつも、先んじてジーヴルの背に手を回す心構えをする。クラネはいい答えがくるとすっかり期待していた。

「……ああ、もちろん。だが、ひとつ忠告がある」

 予想通り許可を得られたものの、穏やかじゃない言葉にクラネは目をぱちくりさせる。

「お前から抱きしめられたら、おさえがきかなくなるかもしれない」

「おさえって」

「……もっと、お前に触れたくなってしまう」

 抱きしめてもらっている現状以上のふれあいとは——。

「もしかして、キスとか、ですか」

 クラネの問いかけにジーヴルは小さな声で答えた。

「ああ」

 何度か額にされたキスを思い出す。思い出すだけで、額がむずりとするし、抱きしめてもらうのと同じくらい体が火照って胸がどきどきとする。だがもちろん、決して嫌なわけではない。

 だから、クラネはジーヴルの背に手を回し、いっそう体を彼の方に密着させた。

 熱いものが胸にこみあげてくると同時、クラネは不思議な感覚に襲われた。

 もっとジーヴルに触れたくて彼を抱きしめたいと思ったのに。彼を抱きしめてもなお、もっと触れたいと思っている自分がいる。十分な多幸感がすでにそこにあるというのに、灼熱に晒された渇きのような欲望が湧き上がっていた。

 あまりにも貪欲で、我儘で、罪悪感すら覚える。なのに、その欲は引くことなく、クラネの心を掌握している。

 ——ジーヴル様も、今、こういう気持ちなのかな。

 ならば、クラネもジーヴルにキスをすれば欲は満たされるのだろうか。

 ジーヴルの額にキス……尋ねてみてもいいだろうか。

 ——また先延ばしにすると、切り出しづらくなっちゃうだろうし。

 意を決したクラネは、ジーヴルからわずかに体を離し、彼の顔を仰いだ、そのとき。

 ジーヴルの顔がこちらに近づいて来る。あ、キスをされると思った。そしてそのときのクラネは、ジーヴルの唇が触れるのは額だと思っていた。

 だが、やわらかくあたたかなそれは、クラネの唇に重なったのだった。



 ——口へのキスはお母さんにもされたことがなかった。

 しかもジーヴルは、口を離す間際舌先でクラネの唇をつっと舐めた。

 何が起きているのか訳が分からなくなってしまったクラネは知る、ときに人はすさまじく動揺すると一周回ってかえっておちつくのだと。

 だが、帰宅して眠りに就こうとしたところで、その動揺はぶり返した。あのキスはいったい何だったのか。悶々とするあまり、ほんの少し寝不足だ。

 ……いや、経験がないだけで知ってはいる。唇へのキスが、本来は恋人や夫婦、好き合っている者がするものであるということは。

 たしかにクラネはジーヴルのことが好きだし、ジーヴルもそれなりに慕ってはくれている。だがふたりは当然恋人でもなければ夫婦でもない。というか、もともと他人からの好意を厭っていたジーヴルはそういうものに興味関心がなさそうな気がする。だから、ジーヴルにとってはあれはあくまで親しみの表現のひとつだったのではないか。深く考えるようなものじゃあないのでは。

 そうどうにか結論付けようとしても、ふとした瞬間に唇に触れたやわらかな熱を舌の感触を思い出すと、火にかけた鍋のようにクラネの頭はぐつぐつぐるぐるとしだしてしまう。

「また真っ赤になっている。熟れたトマトのようだな」

 と、クラネの頬にジーヴルの手が触れる。

「トマトはいい。栄養価が高く、丸かじりしても美味い」

「そう、ですね。トマトは美味しいですね……?」

「ああ。好物だ」

「覚えておきます」

「ふ、覚えておいてくれるのか」

 と、ジーヴルの親指がクラネの下唇に触れた。そっと撫でたかと思うと、ふにふにとやわく押される。

「……あの、ジーヴル様」

「なんだ」

「就業時間中、です」

「……そうだな。おさえがきかなかった」

 ジーヴルの指がそっと離れていく。それでも、クラネの唇には彼の親指の感触が残っていて、無意識のうちに触れていた。

「クラネ」

「はい」

「私はこういうことに関して想像以上に堪え性がないらしい。だから、あまりかわいいことをされると、困る」

「え、僕なにか、ジーヴル様を困らせるようなことをしてしまいましたか」

「そういうところだ」

 どういうところだろうか。困惑するクラネに、ジーヴルは小さく笑い、わずかに肩を竦める。

 それからクラネに通行蝶を握り込ませるように渡すと、手の甲をそっと撫でてから離した。

「私はこれからもっと悪い雇用主になってしまうかもしれない」

「ジーヴル様は良い雇用主です!」

「就業時間中の従業員に触れているのに?」

「う、そ、それは……」

 庶務資格学校のハラスメント講習の事例にあがっていたような強引な搾取をされているわけでもなければ、嫌なわけでもない。どきどきして、熱くなって、たまらないだけで。

「……見なかったことにしますので、大丈夫です」

 クラネがそう言うと、ジーヴルは短く息を吐く。と、梨が描かれた箱を脱いだ。

 青みがかった淡い緑色の髪、色白で非常に整った顔立ちに、黄金の瞳があらわになる。

 箱を机に置いたジーヴルはクラネとの距離を詰めると、腰を屈めた。ジーヴルの顔がクラネに近づき、長い髪がカーテンのようにクラネの横にかかる。彼の唇が、クラネの唇に触れる。

「困った。見なかったことにもしてほしくない」

 低い声が囁く。

 ——これは本当に、親しみだけによるものなのだろうか。

 もしそうじゃなかったとしたら。

 そうじゃなかったとしたら、自分は、どうする。

 ——分からない。

 分からないけれど。

「み」

 熟れたトマトさえも越えんばかりに真っ赤になったクラネは、後退る。

「見なかったことにしますから! お仕事に戻るので失礼します!」

 クラネはその日はじめて、ジーヴルの前から脱兎のごとく逃げた。

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