第30話
あの日の朝、ジーヴルは空気を浄化する魔法道具の開発に熱中するあまり徹夜続きで、思考も機嫌もそれはもう降下していた。
日付の感覚は狂っていたから新しい庶務員が来ることもすっかり忘れていて、彼らの来訪自体にわずかに苛立ってしまったくらいだ。そのうえ、新人庶務員の口から飛び出してきた「好き」という好意としかとらえようのない言葉。それが不運な化学反応を起こし、ジーヴルはつい言い過ぎてしまった。
研究室のドアを閉めた後にかすかな反省はあったが、眠気が限界だったジーヴルはそれ以上考えられず久々にたっぷりの睡眠をとりそして夜に再び目覚めたときには、その出来事もすっかりと忘れまた魔法道具開発に勤しんだ。
そしてあと一歩というところで理想の機能が再現できず、息抜きとして屋根にのぼって星を眺めていたとき。ふと、遠くに木のひとつに、奇妙な影を見た。よく見ると、木に人がのぼっているようだった。
——こんな夜中に、一体誰が?
怪訝に思い、五感強化の魔法を使ってよく見ようとしたその瞬間、その人は落下した。
貞操喪失未遂事件を機に、ジーヴルは他人との対面も疎むようになった。
ジーヴルと対面した者は、老若男女問わず十中八九はその美貌に惚れてしまう。その上、大魔法使いであることも知られればもはや十中十、あたりは下心たっぷりの好意の海と化し、その半数は既成事実を欲して凄まじい勢いで突進してくる。想像するだけで気分が悪くなる。
だから稀の外出時は他人自分の顔を認知させない認識阻害魔法を、邸にいるときはそれよりも消費する魔力量が圧倒的に少ない透視魔法を使いながら箱を被って生活している。とはいえ、箱を被っての生活も当然楽ではないから、従業員の定時後は外し過ごしている——そう、つまり、そのときジーヴルは素顔だった。
箱は研究室に置いてきてしまっていてすぐには召喚できず、この状態で他人の前には出たくはない。だが個人的な嫌悪感と他人の命は天秤にかけるまでもない。ジーヴルは風の魔法を使うとすぐさまその場に駆け付け、助けたのがクラネだった。
あのときジーヴルは自身の邸で働く従業員であれどだからこそ、雇用主が麗しい容姿をしていることを知られたくなかった。だから、ジーヴルの兄のメーベル、という偽りの立場と名前を咄嗟に用意し、クラネと対話した。
クラネは、不思議な少年だった。
感情豊かで、表情がころころと変わる。落ち込んだかと思えば前を向き、はきはきと物を語ったかと思えば、そっとこちらの心に寄り添ったりもする。ジーヴルに惚れる惚れないどころか恋愛のレの字も知らなくて、びっくりするほどに真面目でまっすぐで、裏表を感じさせない、純朴な少年。ジーヴルの話に煌めく瞳はまるで冬の星空のようだった。
気分の悪さを感じない素顔での対話でずいぶん久々だった。それでいて、胸がむずむずしたり、わずかながらも引っ掛かりを覚えたりもした。だからクラネを客室に案内した後、ジーヴルはテロドアから雇用の相談をされたとき以来にクラネの経歴書に目を通した。
十六歳、本来はいかなる学校においても初等部に通っている年齢。故郷シャトン王国のズカラ村離れ、そこから東へと長距離旅し、アムレスに辿り着いた。透明の魔核を持ち、一切の魔法を扱えない。
大陸にある多くの国では魔法主義——魔法を巧みに扱える者ほど尊ばれ、その逆に魔法を扱えない者は社会的価値が低いという意識が根付いている。ジーヴルが長いこと身を置きながらも決して故郷とは呼ばないあの国なんかでは、凡人や非才にと呼ばれる人間は道端の石ころのように扱われていた。苦しそうな彼らの生活を見て、「才能は弱きものを助けるために使いなさい」という刷り込まれた教えに則って、ジーヴルは魔法道具をたくさん産み出した。なのに、あの一門は……。
その近隣にあったシャトンも、赴いたことはないものの文献や風聞で、魔法主義の意識がそれなりに強かったと聞いている。それに嫌気がさして遠路はるばるアムレスまで旅してきたのだろうか。家族はどうしている。母親については楽しげに語っていたが……ちゃんと、愛されていたのか。
風魔法から落下した彼を受け止めたとき、トラウマから鳥肌が立ちつい放ってしまったもののそれでも印象に残るほどに……クラネは十六の男子にしては小柄な部類ではあるがそれにしたって、あの体は驚くほどに細く軽かった。
穏やかな環境でなければ育まれなさそうな純朴は、しかし、その経歴やその身は穏やかじゃない雰囲気を醸し出す——そして実際、ジーヴルとしてもメーベルとしても関わっていくほどに、クラネのやわらかな影が部分がちらついた。
自分の物言いもひねくれていたとは思うが、それにしたってあの少年のあまりに自罰的に捉える。痛苦に苛まれても他人に微笑み、幸福を覚えると泣く。自分本位を謳うくせに、彼は自分を愛していない。
何がお前をそういう形にしたのか。どんな人生を歩んできたのか。
知りたいと思った。好意を向けられても嫌悪を覚えず、接触に嫌悪を覚えていた自分が触れたいとさえ思ってしまうその人のことを、クラネのことを、もっと、知りたかった。
おそらく自分は、クラネと親しくなりたいと思っている。そして、他人と親しくなるためにはまず自己開示が必要……と、最近いくつか読んだコミュニケーションの本に書いてあった。ならば——創設パーティーでの一件を経ていっそうクラネに強い感情を覚えたジーヴルは、彼に自分の正体を明かそうと思ったのだが……いざ素顔で対面したら、日和ってしまった。
自分の感情に戸惑い一度突き放してしまってもなお、メーベルと対峙するクラネには親しみがあるように見えた。ジーヴルに対してもクラネは率直に向き合ってくれてはいるが……どうしても雇用主と従業員という一線がある。従業員から慕われる雇用主、というのはいるだろう。だが、従業員に触れ、あまつさえ抱きしめたいという雇用主は……どう考えてもよろしくない。
もし、同一人物だと明かしてしまったらクラネに触れられなくなるかと思うと、素顔という名の仮面を捨てることはできなかった。箱を被って生活している人間が、なんとも皮肉なものである。
それでも欲張って、ジーヴルとも仲良くしてほしいと希ってしまったけれど。
それどころか……欲情してしまったのだけれど。
「解熱に効く魔法薬、あと何本か調合しておくか」
ほかに、少しでもクラネを元気にするためにできることはないだろうか——。
クラネといると、未知の感情が、感覚が発生してはジーヴルを悩ませる。それは落ち着かなくて、痛くて、苦しい。けれど不思議と、嫌ではなかった。
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