第11話 冬の月

 月の周りにぼんやりと二重に掛かっている光りの輪は、明日の天気があまり良くない事を伝えている。いつも不機嫌だと言われる自分の周りにも、あんな風に輪ができているのだろうか。


「明日もバイト?」

 澤村が浴室から出てきた。

「明日は休みです。」

「もしかして、今日のバイトのために早くこっちに戻ってきたの?」

「そう。」

 凪は澤村と顔を合わせる事なく、浴室へ向かった。

 澤村にとって、自分は他の女性達と同じ様に性欲を満たすだけの存在なのかもしれないと知りつつ、それでも、初めの相手は澤村がいいと、そんな期待をして…。どうしたって、永遠に手に入らないであろう澤村の気持ちを思うと、苦しくて堪らなくなくなる。

 幸せな家庭に恵まれない子供は、また同じ事を繰り返すんだと、何かの本に書いてあった。

 自分が愛人を作った父への憎しみを抱えているように、澤村も家を出ていった母親への憎しみを抱えている。お互いにそんな思いを持ち寄って、罪深い大人にならないと誓ったら、私達の心は晴れるのかな。  

 澤村が手を出す女性の大半は、何不自由なく愛されて育ち、笑顔が溢れる女性ばかりなんだと思う。だからこそ、結婚というパズルをキレイにはめる事が苦手。だったら私の様な人を信じる事のできない心の欠けた人間とは、うまくやっていけるのかな。初めから幸せが描かれているパズルなんて、作ろうとは思わないし。

 

 髪を乾かした凪がリビングに向かう扉を開けると、澤村の姿はなかった。


 そっか。私にはこういう意地悪をするのか。

 その気にさせておいて、恥ずかしさと虚しさな湖に突き落とすんだ。2人で漕いできたボートがゆらゆらと揺れだしたら、もう好きだと勘違いした澤村の顔を真っすぐに見ることなんてできないのか。

 気持ちが切れた凪は、ダラダラと歩いて冷蔵庫から水を出して飲もうとした。冷蔵庫を開けた瞬間、 

「ギャー!」

 急に肩を掴まれて、凪は悲鳴に近い声を上げた。

 キッチンに隠れていた澤村が、凪の顔を見てケラケラと笑っている。

「やめてよ、もう。」

 凪はため息をつくように澤村に呆れた様に言うと、

「凪ちゃんもそんな大きな声が出るんだね。」

 そう言ってまた腹を抱えて笑った。

「隣りの人に事件が起きたと勘違いされますよ。」

 凪は冷蔵庫から水を取り出した。

「澤村さんも飲みますか?」

「そうだね、もらおうか。」

 2つのコップに水を注ぐと、澤村は一気にそれを飲み干した。

「澤村さんは神様からたくさんの素敵なものをもらっていますよ。キレイな顔も、人が寄ってくるその性格も、それに頭だっていいんでしょう?安定した会社に勤めていますからね。女の人に仕返しなんかしなくて、普通に生きていけば、幸せになれるじゃないですか?」

 澤村から空のコップを受け取ると、凪は静かにそれを洗った。ガサガサになった手の甲に、洗剤の泡がつくと体に電気が走る程に痛む。

「俺が洗うよ。」

 澤村は蛇口からお湯を出した。


 コップを片付け、凪が母からもらったワセリンを塗っていると、

「1日何もしないでいると、案外早く治るかもよ。」

 澤村はそう言って凪の手を触った。

「そんなの無理です。」

「明日はバイトが休みなんだろう? 」

「そうですけど、何もしないわけにはいきません。」

「俺が朝から晩まで一緒にいてあげるから、凪ちゃんは本でも読んでいるといいよ。」

 澤村の言葉に凪は首を振った。

「私、澤村さんといると落ち着かないんです。」

「それって、俺を意識してるって事?」

「澤村さんだけにじゃなくて、人とうまく話せないし。」

 凪はそう言いながら、手の甲を撫でていた。

「凪ちゃんってさ、道にひょっこり出てきた狸の様に思えるよ。女の子っていうよりも、追いかけて行きたくなる不思議な生き物っていうかさ。動物の笑った顔を見た事がないだろう?凪ちゃんも同じで、何を考えてるかわからないけど、少しでも近くで見ていたくて、触ってみたいと思うんだよ。」

「だから、食べ物を与えるんですか?」

「ハハハ、本当にそうだね。そのとおりだよ。」

「は?」

「狸に騙したりしても、どうしようもないよ。」

 凪はその言葉を聞いてクスッと笑った。

 澤村の周りには、呼んだらすぐにやってくる女性が何人もいるんだろう。澤村はそれを仕返しと呼ぶけれど、自分はその女性達と、少し違う存在なんだと思うと、凪は少し心が軽くなった。

「松川が、なんでサークルに来ないのかって言ってたよ。」

「そういうの、苦手ですから。」

「じゃあ、2人で会いたいから連絡がほしいって。」

「澤村さん…、」

「何?」

「今日はそれを言いに来たんですか?」

「そうだよ、澤村は大切な友達だし。」

「だったら、ここに2人でいるのって、おかしな話しですよね。」

「松川はそんな事で怒ったりしないよ。」

「澤村さんが飽きてしまったペットを、松川さんにあげるんですか?」

「凪ちゃん、そんな言い方はひどいなぁ。松川は凪ちゃんの事が気になってて、俺になんとか話せないかって頼んできただけなのに。」

「私が松川さんと2人で会うようになっても、澤村さんはこうして家に来るんですか?」

「それは凪ちゃん次第だろう。来てほしいなら、時間を作るし。」

「そんなの嫌です。」

「凪ちゃん、もしかしてそれって、俺に告白をしているのかい?」

 顔が熱くなってきた凪は澤村に背中をむけた。

「凪ちゃん?」

 澤村は凪の顔を覗き込んだ。

「流れで変なふうに言ってしまっただけですから。」

 微笑んでいる澤村は、凪の顔を上にむけた。

「わかったよ。凪ちゃんは松川みたいな奴がタイプかと思ってた。あいつも凪ちゃんも、何かのきっかけがないとうまく話せないだろうから、俺が間に入ろうって思ったけど、ちゃんと自分の気持ちを持っていたんなら、はっきりそう言ってくれれば良かったのに。」

 凪は澤村から少し離れ、

「言えませんよ。もし、それで嫌な思いをしたら、ずっと後悔するし。」

 そう言って俯いた。

「恋愛なんて、成功するばかりじゃないだろう。凪ちゃんは始まってもいないのに、失恋したと泣いているみたいだ。」

「澤村さんなんて、コロコロと彼女を変えるじゃないですか。約束なんて、どうせ守られないんなら、初めから幸せにするなんて言わなきゃいいのに。」

「それは、凪ちゃんのお父さんの事かい?」

「あっ、あの話し、あれは嘘です。」

「嘘じゃないだろう。凪ちゃんの気持ち、よくわかるよ。俺も同じ様な家で育ったから。それに、コロコロ彼女なんて変えていないよ。本気で向き合うのがこわいし、実はすごく臆病だから。」

「澤村のどこがそうなんですか?女の人に声を掛けまくって、誰もでもすぐに寝るくせに。」

「体と心は別なんだよ。こっちがいいなって思う子がいても、むこうから自分に近づいてきたりしても、どうしてか本気にはなれないんだ。」

「勝手な言い訳。相手はすごく傷つくのに。」

「俺は彼女は作らないって、初めから言ってるよ。それでもついてくる女の子は、そういう関係でもいいって割り切っているんだろう。」

「違うよ、みんな澤村さんにまた会いたいって、そう思うんだから。」

「凪ちゃんもまた会いたいって思ってくれたの?」

「…。」

「俺、こんなに気になる子はいなかったよ。初めは面白がって近づいたんたけど、あんまり寄っていくと逃げられるし、いなくなるとずっと探しているし、今は凪ちゃんの事で心がいっぱいになってる。」

 凪は視線を床に落とすと、大きな澤村の足のアーチをなぞる様に見つめた。

 人を好きになってしまったら、一方通行の道を進むしかない。その先にどんな石ころが落ちていようと、道の上に雨が降って、風が吹いて、雪になって、氷になれば、足跡の消えた道は、二度と引き返せなくなる。

 だけど今、立ち止まっている自分の背中には、どこかで人を信じたいと思う少し強い風が吹いている。

 それはその先を冷静に判断できない、若さなのかもしれないし、也の思い出を消そうとしている寂しさなのかもしれない。

 凪は澤村の足に自分の足をそっと重ねた。どんな答えを出せばいいか、本当にわからない。

 澤村は凪を両腕で愛おしそう抱きしめた。

「澤村さん。」

「ん?」

「この先の事は、どうしていいかわかりません。」

「凪ちゃん、本気で俺を受け止めてくれるかい?信じる事ができたら、初めて人を好きになれる。」

 澤村はそう言って凪の背中にきつく手を回した。

 凪のおでこに唇をあて、想いを吸い取る様にキスすると、もう一度凪の体をそっと包んだ。

「ベッドに行こう。」

 凪を抱きしめたまま歩き出した澤村に、

「あの、」

 伝えたい言葉が、凪の喉に引っ掛かった。

「何?」

「あの…、」

「凪ちゃん、無理しなくてもいいんだよ。このまま一緒に眠るだけだから。」

 澤村は凪の髪を撫でた。

「それじゃあ、澤村さんが…、」

「ちゃんと好きだよ。それは嘘じゃない。」

 凪は澤村の顔を見つめた。

「こうして見ると、本当、狸によく似てる。」

 澤村がケラケラと笑った。凪も釣られてケラケラと笑うと、凪のガサガサの手を澤村は掴んだ。

 澤村は凪の唇に顔を近づけた。目を閉じた凪に口づけをすると、頬に触れていた手を凪の胸にあてた。 

「こんなにドキドキしてたら、苦しくない?」

「苦しいです。」

「これじゃ一晩中、眠れないかも。」

 凪は澤村の胸に耳をあてると、その鼓動を聞いた。

「澤村さんもドキドキしてますよ。」

「そうだよ。凪ちゃんが近くにいると、心はいっぱいなのに、なんだか力が抜けていくようだよ。」

 澤村はまた凪の髪を撫でた。

「本当に、このまま眠ってもいいですか。」

「いいよ。」

 怖くてたまらなかった夢から覚めると、隣りに澤村がいてくれると思えば、今は苦しくても朝までにはぐっすり眠れる。

 

 朝がきて、いつの間にか離れてしまった2人の間には、温かい空気が行ったり来たりしている。

「澤村さん、電話がなっていますよ。」

 凪が澤村を起こした。澤村はスマホを手に取ると、半分目を開けて着信を止めた。

「いいんですか?」

「いいんだよ。」 

 起き上がろうとした凪を抱きしめると、

「1日が始まるって、なんだか嫌な気持ちになるよ。」

 澤村は目を閉じていった。

 早く起きて、片付けたい物がたくさんあるのに、ダラダラとしている澤村の顔を、凪は触った。

「もう少しこうしていようよ。凪ちゃんは先を急ぎ過ぎるんだ。」

 凪が時計を見ると、まだ5時を回ったばかりだった。

なかなか眠れずに迎える1日が、ずっと続いていた。日中ウトウトしているせいかと思っていたけれど、バイトが1日あった日も、布団に入ると目が覚めた。

 ぐっすり眠っている澤村の寝顔が、凪にはとても羨ましく、そして悲しく思えた。

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