第8話 最後の晩餐
――死に際に食べるものは2年ぶりに食うカップ麺がいいなと、割り箸を割りながらふと思った。
とはいえど夢の無い事に、最後の晩餐というのは結構あっさり来るものであって、おおよそ現代人なら病院食か点滴であるのがオチだろうけど、と直ぐに自嘲気味な考えが頭をよぎった。蓋をぺりぺりと剥がして、口にくわえていた割り箸を左手に構えて中身をかき混ぜる。圧倒的に体に悪そうな美味しい湯気を顔面に受けながら、口の中に涎が溜まっていくのが分かる。
葬儀場の安置室の中で、俺はパイプ椅子に足を組んで座り、10時間以上ぶりの食事をしていた。これが2年ぶりに食うカップ麺である。その美味さと言ったら尋常なものでは無い。ずるずると麺を啜っていくと思わず笑いそうになった。やはり体に悪いものは美味い。そう思いながらほっと息を吐きだす。少し暑くなって、スーツのジャケットを脱いだ。ネクタイを緩めながら適当に安置台の上にジャケットを置いて、またずるずる音を立てて麺を啜った。多分バレたら怒られるよなぁ、とか思ったけれど、バレなきゃいいだけの話なのだ。しかも今日は本当に疲れた。少しくらい大目に見て貰いたいところだ。プラスチックのざらついた感触を唇に感じながら、添加物らしい味のするスープを飲む。
あぁー……、染みる。美味い。張り付いていた喉がゆっくり戻っていくような感じがする。同時に涙さえ出そうな勢いだ。熱湯の熱ささえもが美味い気がする。舌は半分以上火傷を負っているが。そんなこと些末な事だった。
ふと、正面の安置台に目をやった。ジャケットを乱雑にかけたその台には、何時間か前まで確かに生きていた俺の同居人が布を掛けられて横たわっている。あと2、3時間で日が昇る。それぐらいになったら、こいつの身内が泣きながらやって来て再会を果たし、少し後にここの職員さんが来て死に化粧とか、こいつの体を綺麗にするのだろう。きっと俺は日が昇るまでここに1人で座って、寝て、ひたすらに夜を過ごしてからそのまま通夜に参列するのだろうなと思うと何だか笑えて来る。
こいつは料理上手だった。同居人としてはこれほどとない優良物件だと思う。けれどまぁ、その点で言うと食事が苦手な俺と同居したことはこいつの失敗だと思う。
そこまで思ってやっと、俺は麺を啜る手が少し止まった。
……そうか、こいつがずっと、ずーっと毎日毎日飽きもせず、俺の分まで3食作ってくれていたから俺はカップ麺が2年ぶりなのだ。そんな簡単な事に気づいて泣きそうになる。それを誤魔化すように俺はまた焦って麺を啜った。
不思議な奴だった。昔からの付き合いだったけれど、俺以外にも沢山の人に囲まれる様な奴で、上京するときになんでわざわざ俺と同居したいとか言い出したのか謎だった。いつもニヤニヤしていて、良く喋る奴だった。俺がほとんど食べないのを気にして色々好きなものを作ってくれていた時もあった。丁寧に昼飯の弁当まで作ってくれていた。俺が仕事で失敗した時はいつもよりも豪勢に色々作ってくれた。
良い奴だった。誰がどう見てもそうだと思う。こいつはとても良い奴だった。
あー、駄目かもしれない。……こいつの前で泣きたくないんだけどなぁ。
昨日の朝、俺が家を出る時、こいつは嬉しそうに笑いながら言っていた。
「今日夜、ラーメン作るね。お前好きでしょ?」
頭の中でそんな声が響いた時、一気に喉が渇いた。8割ぐらい食べたカップ麺の味が口の中でぶわりと広がって、どうにも気持ち悪さにかられた。
それでも自分を誤魔化すみたいに食べる。ずるずるという音と共に咀嚼動作を繰り返す。美味しいと思って食えば美味しいかもしれない。それに気づいて一気に全部食べる。
……何でこいつは死んだんだっけ。そんな単純な事も思い出せない。夕方、家に帰った後からの記憶があまりない。けど、人間というのはあまりにも簡単に死ぬんだなぁと思った様な気がする。
この先家に帰っても、誰も俺を待ってはいないし、夕飯も準備されてはいないんだなと思って少し笑った。空になった容器をコンビニの袋に押し込んで持ち手を縛る。それから自分の手が震えていることに気づいた。
……ははっ。
やけに笑い声が乾いていてもっと笑えて来る。食事をしたのに喉が潤っていないというのはなんでなんだろう。気持ち悪い。
あー。
俺はこいつから沢山の物を貰ったのに。
俺は何ひとつとして返すことも、伝えることも出来なかったんだな。
それにどうしてもまだプライドが邪魔して上手く泣けそうにない。俺はこいつに弱い所を絶対見せたくはないのだ。もっと泣いてしまうから。
……もう少しお前と一緒にいれると思ってたんだけどな。
「――私もだよ。」
目を見開いた。思わずあたりを見渡す。そこにあるのはやっぱり死体だけなのに。その事実と、聞こえたはずのあいつの声が頭の中を駆け回ってあちこちに刺さる。
その痛みでぼろぼろ泣いた。きっと俺は人生の中でもうこれ以上泣けないだろう。
それから自分自身に下手な嘘を付いたことに気づいた。
死に際は、あいつと2人で美味しいものが食べたい。
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