きつねの燐火の商い帳
浅里絋太
第一話 希望
希望 プロローグ
商売繁盛や五穀豊穣にご
そんな夜の境内に、奇妙な二人の人影があった。
一人は
燐火は境内のかたわらに立ち、じっと参道の中央に目を向けていた。
――その視線の先には、黒い長髪に、白いゆるやかな着物姿の女性がいる。
女性は夜空に顔を向けて、まるで星々と語らうかのように佇んでいた。燐火はずっと、その女性の横顔を見ていた。
そのとき、女性は視線を空から地に向け、振り向いた。
「燐火……」
そう呼ばれたとき、憐火ははたと目をしばたたき、驚く声を上げた。
「え、はい、ウカノさま」
そうして憐火は女性のもとへと小走りに近づく。
ウカノ――
ウカノは甘い土のにおいを漂わせており、憐火はそのにおいに、うっとりとしていた。しかし、そんな気持ちを打ち砕く冷厳とした声がした。
「きょうは、どのような参拝客があったか、憶えていますか?」
その声にびくりとした憐火は、焦りながら答える。
「あの、ぜんぜん、憶えてなくて……。すみません」
ウカノは残念そうにため息をついて、
「いつも言っていますね。参拝客の気持ちになり、誠意をもってお迎えせよ、と」
「そ、そうです。そのとおりです」
「それを、まったく憶えていないのですか?」
「すみません。犬を追い払ったり、参拝客の中に邪霊を連れてくる者がないか、見張ったり。とにかく忙しく……」
「なるほど。それは、むろん、境内を守る狐としての責務でしょう。しかし、それでもです。商いに挑む人々を見守り、助けることも大切な仕事です。違いますか? それこそが、わたしたちの、本懐です」
憐火はほとんどひれ伏すように頭を深く下げて言った。
「すみません」
するとウカノは、やや語調を弱めて、
「わかった。なれば、なぜ参拝者に興味を持って、人間のことを知ろうと思わないのですか?」
そこで燐火はおずおずと、上目遣いに答えた。
「……あの、実のところ、たいていが退屈な商いばかりで。興味が沸かないのです」
「なるほど。退屈で興味が沸かない……。それゆえ、市井の人々のことを、
「忘れている? どういうことですか?」
するとウカノはごまかすように、
「いえ、それはよい、燐火。それはともかく、このわたしの元で働くならば、心根を直さなければなりませんね」
燐火は顔を上げて怯える表情で、
「え、おしおきですか? 何をなされるのですか? ウカノさま……」
「たわけ。無用なことはせぬ。それより」
ウカノはそう言って、右手をゆらりと掲げた。すると突如として空中に、紐で綴じた台帳が現れた。そして誰も触れもしないのに、台帳のページがめくれていった。ウカノは続けた。
「見なさい。これはわたしが管理する、商い帳です」
「商い帳?」
「そうです。商い帳には、この神社に縁のある者たちの商いが、掲載されているのです」
燐火は感心したように、
「へえ、そんなものが……」
「何度も見せておろうに。まったく、わたしの話を聞いておらぬのか。……まあよい。そして、この台帳の末尾には、特別な商いがまとまっている」
すると、空中の台帳がさらにめくれていった。
確かに、最後のページには、見慣れない店名などが書かれていた。それを見た燐火は、
「なるほど、変わった店名や、業種とかがありますね。……たとえば、この『夢屋』だとか。いったいなんのお店なんでしょうか」
「ええ。わたしも、折に触れて霊視し、まっとうな商いかどうか、加護を与えるにふさわしい商いかどうか、確認するのです。しかし、この最後に列記された商いは、くせがあり、わたしも判断に迷うものが多い」
「そうなのですね。ウカノさまでも、そのような……」
「そうです。ゆえに燐火よ。おまえが霊視の力で、これらの商いを見極めるのです」
燐火は声を裏返らせて、
「ぼくがですか?」
「ええ。おまえは、ほとんどの商いが退屈だと言いましたね。ひどく傲慢な言いざまですが。……この際よいとしましょう。なれば、わたしでも実態がわかりかねる、この最後に記(しる)された商いを霊視してみるのです。そうすれば、いくばくかなりとも、人情の機微を学べ、かつ退屈することもないでしょう。そして、その結果を、わたしに逐次報告するのです」
やがて商い帳はふわふわと燐火の手の中に降りてきた。ウカノは一仕事を終えた表情で、ため息をついて背中を見せた。
「それでは、わたしは奥にゆく」
「え、ちょっと、お待ちを……」
そう言う燐火にはかまわず、ウカノは白い光と共に社の中に消えていった。
「これは、やっかいなことになった……」
燐火はそうつぶやいて、台帳を改めて開いた。台帳は数十ページあり、一ページあたり、二十件ほどの店名と説明などが縦書きに連なっている。
そして最後のページに、ウカノの言っていた『特殊な商い』が書かれていた。
燐火はふと、先ほど目が留まった『夢屋』のことを思い出した。そんな商いや、店の名前は聞いたことがない。
そこで憐火は目を細め、
『夢屋、夢の売買の店
と書かれた行を見つめた。次第に、その店の外観や、店主の顔や、店内のイメージが脳裏に浮かび上がってくる。
それに、その店に縁があるであろう、人々の顔も浮かんでくる。
燐火はその世界に没入していった。
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