きつねの燐火の商い帳

浅里絋太

第一話 希望

希望 プロローグ

 久魯川くろかわ市北部の山の中腹に、久魯川稲荷神社があった。

 商売繁盛や五穀豊穣にご利益りやくがあると評判だが、夜ともなれば静かになり、まばらな虫の声が聞こえるばかりだ。

 そんな夜の境内に、奇妙な二人の人影があった。

 一人は燐火りんかという青年だ。黄色の作務衣をまとい、白く長い髪からは狐らしい両耳がぴんとのびている。いささか目が細いが、優しげで端正な顔立ちだ。

 燐火は境内のかたわらに立ち、じっと参道の中央に目を向けていた。

 ――その視線の先には、黒い長髪に、白いゆるやかな着物姿の女性がいる。

 女性は夜空に顔を向けて、まるで星々と語らうかのように佇んでいた。燐火はずっと、その女性の横顔を見ていた。

 そのとき、女性は視線を空から地に向け、振り向いた。

「燐火……」

 そう呼ばれたとき、憐火ははたと目をしばたたき、驚く声を上げた。

「え、はい、ウカノさま」

 そうして憐火は女性のもとへと小走りに近づく。

 ウカノ――宇迦之御魂うかのみたま神は、商売や豊穣を司るこの神社の主神だ。


 ウカノは甘い土のにおいを漂わせており、憐火はそのにおいに、うっとりとしていた。しかし、そんな気持ちを打ち砕く冷厳とした声がした。

「きょうは、どのような参拝客があったか、憶えていますか?」

 その声にびくりとした憐火は、焦りながら答える。

「あの、ぜんぜん、憶えてなくて……。すみません」

 ウカノは残念そうにため息をついて、

「いつも言っていますね。参拝客の気持ちになり、誠意をもってお迎えせよ、と」

「そ、そうです。そのとおりです」

「それを、まったく憶えていないのですか?」

「すみません。犬を追い払ったり、参拝客の中に邪霊を連れてくる者がないか、見張ったり。とにかく忙しく……」

「なるほど。それは、むろん、境内を守る狐としての責務でしょう。しかし、それでもです。商いに挑む人々を見守り、助けることも大切な仕事です。違いますか? それこそが、わたしたちの、本懐です」

 憐火はほとんどひれ伏すように頭を深く下げて言った。

「すみません」

 するとウカノは、やや語調を弱めて、

「わかった。なれば、なぜ参拝者に興味を持って、人間のことを知ろうと思わないのですか?」

 そこで燐火はおずおずと、上目遣いに答えた。

「……あの、実のところ、たいていが退屈な商いばかりで。興味が沸かないのです」

「なるほど。退屈で興味が沸かない……。それゆえ、市井の人々のことを、十把一絡じっぱひとからげに見てしまうのですね。――いえ、いまのおまえに言うのは酷なことでしょうが。何せ、忘れているのだから……」

「忘れている? どういうことですか?」

 するとウカノはごまかすように、

「いえ、それはよい、燐火。それはともかく、このわたしの元で働くならば、心根を直さなければなりませんね」

 燐火は顔を上げて怯える表情で、

「え、おしおきですか? 何をなされるのですか? ウカノさま……」

「たわけ。無用なことはせぬ。それより」

 ウカノはそう言って、右手をゆらりと掲げた。すると突如として空中に、紐で綴じた台帳が現れた。そして誰も触れもしないのに、台帳のページがめくれていった。ウカノは続けた。

「見なさい。これはわたしが管理する、商い帳です」

「商い帳?」

「そうです。商い帳には、この神社に縁のある者たちの商いが、掲載されているのです」

 燐火は感心したように、

「へえ、そんなものが……」

「何度も見せておろうに。まったく、わたしの話を聞いておらぬのか。……まあよい。そして、この台帳の末尾には、特別な商いがまとまっている」

 すると、空中の台帳がさらにめくれていった。

 確かに、最後のページには、見慣れない店名などが書かれていた。それを見た燐火は、

「なるほど、変わった店名や、業種とかがありますね。……たとえば、この『夢屋』だとか。いったいなんのお店なんでしょうか」

「ええ。わたしも、折に触れて霊視し、まっとうな商いかどうか、加護を与えるにふさわしい商いかどうか、確認するのです。しかし、この最後に列記された商いは、くせがあり、わたしも判断に迷うものが多い」

「そうなのですね。ウカノさまでも、そのような……」

「そうです。ゆえに燐火よ。おまえが霊視の力で、これらの商いを見極めるのです」

 燐火は声を裏返らせて、

「ぼくがですか?」

「ええ。おまえは、ほとんどの商いが退屈だと言いましたね。ひどく傲慢な言いざまですが。……この際よいとしましょう。なれば、わたしでも実態がわかりかねる、この最後に記(しる)された商いを霊視してみるのです。そうすれば、いくばくかなりとも、人情の機微を学べ、かつ退屈することもないでしょう。そして、その結果を、わたしに逐次報告するのです」


 やがて商い帳はふわふわと燐火の手の中に降りてきた。ウカノは一仕事を終えた表情で、ため息をついて背中を見せた。

「それでは、わたしは奥にゆく」

「え、ちょっと、お待ちを……」

 そう言う燐火にはかまわず、ウカノは白い光と共に社の中に消えていった。

「これは、やっかいなことになった……」

 燐火はそうつぶやいて、台帳を改めて開いた。台帳は数十ページあり、一ページあたり、二十件ほどの店名と説明などが縦書きに連なっている。

 そして最後のページに、ウカノの言っていた『特殊な商い』が書かれていた。

 燐火はふと、先ほど目が留まった『夢屋』のことを思い出した。そんな商いや、店の名前は聞いたことがない。

 そこで憐火は目を細め、

 『夢屋、夢の売買の店なり

 と書かれた行を見つめた。次第に、その店の外観や、店主の顔や、店内のイメージが脳裏に浮かび上がってくる。

 それに、その店に縁があるであろう、人々の顔も浮かんでくる。

 燐火はその世界に没入していった。

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