揺籃、砕いて空に臥し

樋上佳作

第一章 罪を運ぶ車にて



 白茶けた幌の隙間から空を眺めていた。夜の濃紺を背景に鳥の番いが飛んでいる。がたんがたんと揺れる車体。同乗している少女たちの話声が止んだが、すぐに再開する。この世の寂しさを独り占めしている気分。誰か近くにいる方が孤独だなんて、変な話だと思った。


 トラックは廃墟となったビルや家屋の間をひた走る。基地までそう遠くないのだし、別に私は歩いてよかった。けれど彼らは勝手な推量で私たちを車に押し込んだ。優しさというよりは、ご機嫌取りなのだろうと思った。


 私たちしか頼れるものがいないから。士気が下がるといけないから……。


 はっとして私は振り返る。玉を転がしたような、小さなくすくす笑いがしたのだ。スラムでは決して聞けない可愛らしい声。顔を合わせると、彼女たちは口元を手で隠した。私と同じ仲間たち。性別も年齢も変わらない少女たち。


 正直な話、彼女たちの態度に対して、私はとても戸惑っていた。


 スラムでは父が家を空ける間、外出を禁じられていた。カーテンを開けることすら許されていなかったから、空に対して渇望に似た感情を持った。同様に友達を欲するのも自然な流れだった。


 楽しみだったのである。本の中にしか登場しない彼らとの営みが。刺激し対立し和解し、高め合う。そんな仲間を物語で知った私は、ありふれたその言葉を宝物のように思っていた。


 それがどうだろう。いざ目の前にしてみれば、若々しい肌の裏には、ちくりと刺す棘が群がっていた。限りなく近しい私達であるのに、鮮烈な溝が通って分けていた。

 四面楚歌を作り出す原因には心当たりがあった。そうである。広まっていない訳がない。カウンセラーは心配ないと言っていたが、状況が状況である。


 漏れたのだ。私の罪悪について、彼女たちは知っている。


 曇天のような寒気がした。せっかく日の元に出られたというのに。


 いや、仕方ないのか……。


 それだけのことをしたのだ。


 ……。


 諦めようと思った。


 私が手を伸ばしても、活字の海に浮かぶ彼女らは蜃気楼に過ぎないのだから。


 私は床に置いた手を持ち上げた。砂を払うと、痘痕のような窪みが散らばって残った。


 自身の短い指を見てカウンセラーとの対話を思い出す。冷たい牢獄の中、悪とラベルを貼られるのが恐ろしくて、私は彼女に笑いかけたかった。襲い掛からないことを保証する、懐柔の笑みを浮かべたかった。けど状況がそれを許さなかった。経験の浅い私でも、その部屋における笑顔が不適切であることに、容易に気がついた。だから終始、眉間を絞って反省していたのだ。


 ……反省? 反省なんてしていないと、すぐさま自己欺瞞を是正する。


 罪を犯した時点で私は幸福だった。非難だけが水面に投げ入れられた木の枝。自由に対する不愉快な掣肘。罪を意識したのは、一夜明けて檻の外に朝日を見出したときだ。堅牢な檻や壁は罪の実体であった。周囲と折り合いをつけるため私は唇を噛み締めて、ことの経緯をばつが悪そうに説明したのだ。


「あなたは罪に問われません」


 穴すら空いていない強化アクリルの向こうで、話を聞き終えたカウンセラーの女は言った。私は彼女の薬指に輝く簡素な指輪を見つめていた。宝石さえ象嵌されていないつるりとしたリング。


「ですがこれから基地に入って頂き、我々の指揮下で働いてもらいます」


「それが罪の清算ですか?」


 そう聞いたと思う。カウンセラーは机上で組んでいた指を解くと、ゆるゆると首を横に振った。


「いえ違います。レナトスとして生を受けた人間の義務です。……よくご存じかと思いますが、四十年前の終末の日、真っ黒なホールが地球上にいくつも現れました。そしてホールは巨大な、怖ろしい怪物クリーチャーを無数に排出しました。人類が支配していた土地も、文明も、誇りも、そして大量の人命も奪われました。……人類の再興のためにはレナトスの活躍が不可欠なのです」


「レナトス……」


「そうです。自らの血液を武器――サングイスに変え、怪物クリーチャーを倒すことのできる唯一の少女たち。怪物クリーチャーと同時に発生し、今もなお生まれ続ける小さな救世主。あなたたちレナトスしか怪物クリーチャーを倒せないのであれば、それは自ずと義務となる。サングイスを扱い、怪物クリーチャーを駆逐することが、レナトスに課された仕事なのです。……勘違いしないで頂きたいのですが、スラム育ちのあなただけではなく、国民は必ず課せられる仕事です。貧富の差を問わず、レナトスであれば平等に兵役に就き、奉仕しなければならないのです」


「……なるほど。仕事、義務ですか」


「……私個人としては、使命という言葉の方が好きですけれどね」


 使命。響きはいいが。


 ここで私はすぐに戦うのか質問したはずだ。レナトスの使命は知っていたが、まだ自分事として充分に認識していなかったので、怖かったのだと思う。


「すぐにというわけではありません。実戦への投入は一年の訓練期間をおいてです。基地と言いましたが学校のようなものです。授業だってありますし、同年代のレナトスと一緒に生活できます。少ないですが給料も出ます」


 話し相手は背もたれに少し体重を移動させた。彼女は丁寧な話ぶりだったが、それは気安さを排して壁を作るためではない気がした。


「……ではつまり、これまでが清算だったということですか?」


 カウンセラーは移した重心をすぐに戻さなかった。注意深く、まるで気取られることを恐れるようにゆっくりと前屈みになった。そして若干、相好を崩した。


「それも違います。初めに言ったでしょう? 安心して。もとよりあなたに罪はありません」


 この言葉に救われたと思ったからには、微量でも悪の意識があったのだろうか。私にも。


 ねえと誰かが言った。幼い声帯を無理に絞め上げたような声だった。私は意識を過去から現実に引き戻す。膝小僧から顔を上げると、女の子が傍に座っていた。私と同じくらいの、おでこの広い少女。髪を後ろで纏めていたから、余計に額の白さが目立っている。ひよこのような形の良い鼻が可愛いらしい。


「私、リンっていうの」


 いきなりのことに呆然としていると、リンは困ったようにつけ足した。


「あなたは?」


「……ああ、えーと、名前だよね?」


「もちろん」リンは頷く。 


「ニコ……ニコって、周りから呼ばれてたけど」


 だよね、と彼女は言った。


「だよね?」


「いやなんでも。ニコって可愛い名前だよね」


「ありがとう」


 微笑んだつもりだが、上手くできた自信がない。リンは特に反応せず続ける。


「一年のときは見なかったから途中入隊だよね。ニコは何歳? 私と同じ二年生?」


「二年生なのかな。まだ四月だけど誕生日があったばかりで、もう十五歳なんだ」


「おかしいね」リンはなぜか口元をにやつかせた。「前に途中から来たやつは一歳上だったけど、私たちと混ざって授業を受けてるよ。一年生を通らないで二年生なんて、普通はあり得ない。二年になると戦闘にも参加するんだし」


「確かに訓練するとか聞いた気がする……。つまり何かの手違いじゃないかな? もしくは車の区分が学年じゃなくて、生まれ年によって決まっているとか」


 ふふ、とリンは妖しげに笑った。


「いや、ニコは二年生だよ」


「え?」


「ニコは強いからね。だからすぐにクリーチャーと戦えるんだ」


 よかったね、と。


 会話中、私はリンの目を見ていた。それは自発的にではなく、つまり見させられているのだった。視線を外したら何かある、そう思わせる狡猾な瞳だった。不意にリンがしな垂れかかってきて、私の耳が熱くなる。彼女の口元がそこにあった。車体に大きな揺れはなかったから不思議に思って、リンの肩に手を遣る。


「人殺し」


 背筋が粟立つ。


 鼓動が速まる。


 熱い吐息が耳元から離れた。柔らかい体が恐ろしくなって、急いで肩から手を離す。目だけが背けられない。


「人殺し」


 あどけない口が開いてもう一度。


 噛んで含めるように。


 それは、確かに、明らかな、


 悪意。


 少女は笑みを浮かべた。


「戸籍がないから途中入隊なんだよね。スラムで卑しいことしてたんでしょう? 育ちが悪ければ人を殺してもしょうがないよ。それにレナトスなんだし、私たち……」


「あ……」


「大丈夫。あの子たちには言ってない。ただ忠告はしてる。近づいたら危ないって」


 人殺しだもんね、と。


 リンはそう言ってあの子たちの車座に戻っていった。私は一人、幌の隙間の前に取り残された。絶え間ない小刻みな振動と、偶の切り裂くような笑い声だけが、辺りを支配していた。

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