婚約破棄を選んだのはあなたでしょう? もう戻れませんわ

ネコ

第1話

 王宮の大広間に足を踏み入れた途端、胸がずきりと痛んだ。

 美しく磨かれた白亜の床、大理石の柱に灯された燭台の明かりがきらきらと踊る。

 いつか憧れを抱いた、この輝かしい場所で私は正式に婚約者として発表されるはずだった。


 私は伯爵家の娘として幼い頃から聖女候補の教養を叩き込まれ、たくさんの礼儀作法や歴史を学んできた。

 この場に立つことは栄誉である、周囲からそう言われてきたけれど、何故だろう。

 今は誇りというより、不安と緊張が混じり合うような落ち着かない思いばかりが募る。


 壇上ではルクラウス王国の王太子ライオネル殿下が、いつもよりもきらびやかな金糸の礼服を身につけていた。

 光を浴びた宝石の胸飾りは眩しく、まるで彼の存在をより大きく見せようとしているみたいだ。

 あの王太子と私は幼少時から顔見知りで、当初は優しい人だと感じたこともあった。

 けれど、いつからか彼は王位継承を意識し始め、派手な場で注目を浴びることばかり望むようになった。


「なあ、みんな! 今日は俺様の婚約者をお披露目する場だ。盛大に祝ってくれよ!」


 ライオネル殿下が高らかに声を上げる。

 広間に詰めかけていた貴族たちが一斉に拍手と歓声を送ったが、その賑やかさはどこか上っ面のように聞こえる。

 その中で私は静かに礼をしながら、そっとライオネル殿下の横に並んだ。


 しかし、次の瞬間、彼の口から思いも寄らない言葉が飛び出す。


「お前さ、いつも地味なんだよ。地味すぎて退屈だ」


 胸がぎゅっと縮こまるような嫌な予感がした。

 地味だと評された慈善活動。

 私は幼少期から続けてきた孤児院支援を、彼に説明する度に「それは目立たないから王太子の花嫁にはふさわしくない」と咎められていた。

 だが、まさかこの婚約発表の場でそれをぶちまけられるとは思わなかった。


「俺様はもっと華やかに、国中の注目を集めるような女性を求めてるんだよ」


 ライオネル殿下の声は嘲笑混じりだ。

 視線を感じて周囲を見ると、貴族たちの中にも失笑する者がいる。

 私の胸はひどくかき乱され、一瞬言葉が出なくなる。


「もういい。お前とは婚約破棄だ」


 あまりにも唐突で、会場がざわりと波立つ。

 私は耳を疑った。

 さっきまでは表面上とはいえ、婚約を公に祝う場だったのだ。

 なのに、当の王太子は私に飽きたかのように、こちらを切り捨てる言葉を口にする。


「俺様の新しい婚約者は、シャーロット・グレイヴス嬢だ。華やかさでは国一番だろう」


 視界の端で、黄金色の巻き髪を揺らすシャーロットの姿が見えた。

 その瞳は浅い緑色で、まるで高みからこちらを見下すように笑っている。

 胸元には宝石が散りばめられたドレスをまとい、ライオネル殿下の腕を軽やかに取っていた。


 この場を収めようと、周囲の貴族や侍女たちが慌てて動く。

 けれど私の耳には何も入らない。

 頭が真っ白になり、たった今まで自分を支えていた希望が音を立てて崩れ落ちていくのを感じる。


「これからはシャーロットが王太子妃になる予定だ。お前はもう用済みだから、その辺にして去れよ」


 ライオネル殿下の薄笑いを見た瞬間、私は自分が何かを言う前に声を失った。

 この国で育った私は、彼の一言で簡単に否定されてしまうのか。

 孤児院の子どもたちのことを必死で訴えても、一度も真剣に耳を貸してもらえなかったことが頭をよぎる。


 そのまま私は広間を出て、自室に駆け込むように戻ってしまった。

 夜を迎えると、想像よりも深く暗い絶望が私を包む。

 枕を濡らすほどの涙が止まらない。

 ただ、こうして一夜を越えるしかないのだと分かっていた。


 そして、眠れないまま迎えた朝。

 窓からの薄い光が部屋に差し込むと同時に、私の心には奇妙な決意が生まれていた。

 このまま泣いていても何も変わらない。

 王太子を失うことがすべてではないはずだ。


 私はゆっくりと身を起こし、白いドレスを選んだ。

 深い青色の瞳を鏡の中で見つめながら、震える唇をかみしめる。

 それでも私は、孤児院の子たちの笑顔を守りたい。

 誰に地味だと言われても、私にとって大切な活動は間違いではないのだから。


「必ず私の道を歩んでみせる」


 そう小さく呟くと、遠くの空へ向けて朝日を見据えた。

 あの日流した涙の重みを、私は絶対に忘れない。

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