女王陛下の犬は闇のフクロウ

七海ポルカ

第1話 氷の姫







       



「この中で、最も賢い人は誰?」



 姫君の問いかけに今宵の夜会でただ一人、彼女の心を掴むために、ここに集った貴族の子爵たちはここぞとばかりに一歩踏み出し、自分が賢いと裏付けるだけのエピソードを、代わる代わる彼女の前で披露する。

 じっと大きな翡翠の瞳で彼らを見定めていた姫君は、一度視線を足元に移してから、すぐにもう一度強い視線を子爵たちへと向けた。


「では、最も愚かな人は誰です?」


 子爵たちは顔を見合わせた。

 当然、婚約者候補をふるい落す為の問いかけなのだから、ここで手を上げる馬鹿者はいない。

 それぞれが何となく隣に目配せをしながら互いを牽制し合って、言葉を噤んだ。表立って非難するというのもさすがに見苦しい。だが問いかけられた以上、答えないのも非礼というものだ。

 どう答えればいいのか……青年たちがそんな風に考えていた時、一人の青年があっ、と目を輝かせる。

 彼はすぐに一歩踏み出し、そこに佇んでいる姫君の前で腰を屈めた。いかにも自分の手柄のように、得意げに話し出す。

「姫君。我々は皆、幼い頃より王家をお支えする為に、様々な教育を施されて来た者ばかりです。賢さと問われれば、それぞれが甲乙つけがたいと言えるでしょう。しかし敢えて愚かさは、と問われるなら――メア家の御曹司に匹敵する者はおりますまい」

 彼らの中から笑いが沸き起こる。

「そうでした。ウィルフレド・メアはまるで道化師のようだと今、社交界は彼の話題で持ち切りです」

「狩りに行けば自分で罠に掛かり、美女に声を掛ければいつも人妻」

「一世一代の見合い話を、居眠りですっぽかしたという話もありました」

「別に彼を貶しているわけではありません。気のいい男ではあるのですよ」

「招待された夜会の会場を間違えて、別の城で朝まで踊っていたとか」

「外国訛りが何年経っても抜けず、字を書かせれば綴り間違いだらけ」

「熱を込めて書いた恋文の綴り間違いが酷過ぎて、お相手の令嬢が哀れがって添削して返したとか」

「笑える男ですよ、あれは」

「嘘をつく時は必ず左上を見るので、すぐばれる」

「未だに靴紐が一人で結べないそうですよ」

 周囲で聞き耳を立てていた人々も、次々と披露されるエピソードに大笑いしている。

 それは嘲笑するというよりも、むしろ本当に愉快がっているという風な笑いだった。

「彼がいいのは見目だけだと、令嬢たちは申しております」

「金髪碧眼の優男ですが、中身があれではね……」

「メア家と言えば名門の血ですが、後継ぎがあれでは彼の代で終わりでしょうな」

 話を聞いていた姫君だけが、にこりともせず周囲の若者を見渡した。

「貴方がたも同意見ですか?」

「残念ながら姫君、我がバルディーン王国の社交界に住まう、全ての老若男女が等しく同意見でありましょう」

「そうですか……」

 姫君は小さく息をついた。

 それから、はっきりとこう宣言したのである。



「では、わたくし、アリア・ファナブレスカはその社交界で最も愚かだというウィルフレド・メアという方を夫にいたします」



 子爵たちは全員目を剥き、驚きはそこを中心にさざ波のようにダンスホールの端へと伝わって行った。

 そして瞬く間に城から漏れ、街へと広がって行く。




『氷の姫』と呼ばれるアリア姫がついに結婚相手を決定した。



 これはバルディーン王国の民たちにも聞き逃せない話だったのである。

 何故なら彼女は近々父である王から、王位を継承することが決まっていたからである。

 バルディーン王国の命運を握る、未来の女王の側役。彼女の夫に期待される役目はそれだけだ。

 誰もが知っている、悲恋を経験しているこの姫の相手は誰になるのだろうと、貴族たちは勿論城下町のパン屋の親父までもが、それはいつも心配して見守っていることだったのである。

 その一夜だけは人々はその噂話を「おかしな噂が出たもんだ」と笑い話にして酒を飲み、大いに楽しんだ。

 だが次の日、陽が高く上ると同時に城下町を、バルディーン騎士団の小隊に守られる物々しい様子で一台の立派な馬車が山の上のバルディーン城へと、上って行くのを目撃した人々は、この不思議な噂話が真実であることに震え上がることになる。

 その美しい馬車の扉には有翼の獅子の紋章が描かれていた。


『天駆ける獅子』――バルディーン王国でも古い名門として知られる、メア家の紋章だった。


  ◇   ◇   ◇


「結婚に際しての、大まかな条件を書いておきました。どうぞ目を通して結構です」

 入って来るなり恭しく一礼した金髪碧眼の青年は挨拶もそこそこに、いきなり切り出された本題に目を丸くした。

「どうなさったの?」

「いえ……いきなり城から火急の呼び出しを受けたものだから、てっきり何かの冗談かと」

 アリアは眉を寄せた。

「結婚に関してのお話があると手紙に書いたはずですが」

 ああ、あれですか……と青年は、自分の淡い金髪を困ったように掻いた。

「あれは昨夜、貴族仲間たちとこんなものが真実のはずがないと散々笑って捨てられてしまいました」


「――間違いなく、わたくしが書いたものです」


 きっぱりと言った姫君に青年は初めて、自分の非礼に気づいたような表情をした。

「これは……大変失礼を……」

「わたくしを見たことが一度もありませんか?」

「夜会の折に遠目には、何度か。どこの夜会かは忘れてしまいましたが……けれど覚えております」

「そうですか」

 沈黙が落ちる。

「……あの、結婚とは……もしや私と貴方の?」

「他に貴方を呼び出す理由がありますか? 早くお座りになって」

 姫君の声は若干苛つきを帯びた。

「あ、はい。分かりました」

「これをお読みになって。勿論、両家のもっときちんとした取り決めは後々行いますけれど、とりあえずわたくしが貴方に望むことを先に書かせていただきました。異議があるならば今、聞きます。聞き届けるとは言い切れませんが」

「なるほど、よく分かりました。では少々時間をいただきますよ」

 青年は胸元から眼鏡を取り出して装着した。そして書類を手に取り視線を落とす。しばらく黙って文章を見ていたが、ふと思い出したように顔を上げた。

「これは伊達眼鏡です。度は入っていないのですが、これをすると真面目に机と向かい合おうという気分に切り替わりまして、これがないとどうも集中出来ず緊張感が出ないというか」

「そんなことは今、聞いていません」

 アリアは最初青年が何を言うのかと見ていたが、いきなりそんな話をされて冷ややかな声で返した。

「そうでした」

「……」

「……」

「……」

「……」

「……あの。何か分からない所がありまして?」

「ん?」

「とても難しい顔をなさっておいでです」

 ああ、と青年は笑った。

「お気になさらず。字が詰まっている文章を読むのがどうも苦手でして……困ったな、こんなことならちゃんと侍従を連れて来るんだった」

「……」

「大変申し訳ないのですが、ここに書いてあるこの……『公私における全ての財産の決定権を妻に与えること』という文章ですが、公私というのはあれですか、何か私がその、国の役職に就いたりしなければならないという? そもそも姫君の夫というのは公ですか私ですか」

「両方ということになります。ちなみに役職についていただかなければならないということは特別にはありません。ただわたくしの夫であるというだけで、貴方には国の財の一部が分け与えられます」

「なるほど」

「財産というのは、我がメア家のどの部分の財のことをおっしゃっておいでですか、ご存じではないと思いますが、腐っても我が家名門なのでこの国以外にも他国に別荘地なるものを幾つか……」


「ごちゃごちゃ言わずにありとあらゆる財産を私に寄越せという文章です」


 姫君の強い口調に青年は目を丸くした。

「今のは、よく分かった」

「それは良かった。その他、一切の行動の自由をわたくしが決定いたします。といっても、別にわたくしは夫を自分の側に縛ろうとは考えていません。要するに、何をするにもわたくしに一言、言っていただきたいのです。夫婦間に決して秘密を持ちたくない。わたくしが近々、王位を得ることは存じていますね。ウィルフレド・メア」

「はい、姫君」

「わたくしの父は罪を犯した王です。その後を継ぐ以上、私は何よりも国民に償わなくては。全ての力と情熱を、私は政に使うつもりです。いえ……使わなくてはなりません。よって夫の尻拭いなど以ての外。貴方には私が望む以外のことをしてほしくないのです」

「姫君が、国に対して並々ならぬ決意を持っていらっしゃることはよく分かりました。しかし……」

 ウィルフレドは笑った。

「なんですか」

「いえ……失礼ながら、姫君。私の噂をご存じでしょう。私は残念ながら、バルディーン一の愚かな道楽貴族と言われる男ですよ」

「知っています。けれどバルディーン一不誠実とは言われていない。私が貴方を選ぶのは、バルディーン王国でも屈指の財力を持つメア家の男であるということ、余計な知恵を持っていないというその二点が最大の理由です。知性は私が引き受けます。貴方は私に逆らわず、私の隣にただいて下さい。それで十分ですから」

「知恵を持っていないことを、褒めていただいたのは初めてのことです」

 もう一度ウィルフレドは笑い声を立てた。それはひどく朗らかな笑い方で、あんまりにも楽しそうに笑うから、アリアもさすがに彼が本当に話の内容を理解しているのか心配になった。


「ウィルフレド。私の言うことに腹が立ったのなら、そう言っていいのですよ」


 彼はそう聞くと、瑠璃のように青い瞳を輝かせて微笑んだ。

「知性がないと言われたのは今が初めてではありませんから、驚きはもうありません。それに悲しいかな、自覚もあるので腹は立たないのです」

 アリアは呆気に取られた。

 さすがに社交界一の道楽者と言われるだけのことはある。

 この悲壮感の無さは一体なんなのだろうか。


「……そうですか。ではウィルフレド。私が貴方に何故このようなことを要求するかも、今お話ししておきます。『エルシド渓谷の悲劇』と呼ばれたあの事件のことは貴方もご存知ですね」


「隠さずに申し上げますと、その事件時私は外国に住んでいてバルディーンにはおりませんでした。しかしこちらに移り住んでからその事件のことは聞き及びました。ひどい落盤事故だったとか。確か、姫君の兄君お二人が犠牲になられたと……」

「そうです。二人の兄があの事故で死にました。私が五歳の時のことです。私にとってもそうでしたが特に二人の兄を、自分の後継ぎとして大切に育てていた父には、ひどい衝撃を与えたのです。父はあれから人が変わってしまいました。周囲の人間に厳しく当たるようになり心の痛みから逃れる為か、何人もの女性と関係を持ったのもあの時期のことです。特に王都は父のこの振る舞いにより大きな混乱に陥りました」

 アリアは厳しい顔で自分の父のことを話した。心苦しそうな顔はしていたが、彼女の瞳はしっかりと強い光が宿っていた。

 強い女性なのだとウィルフレドはそんな風に思った。

「そしてその混乱に付け込んだのが、当時軍部大臣の座にあったマルドゥーク卿でした。当主であるアンドレ・マルドゥークの息子である、エリオットと私は許婚の関係にありました。けれど彼は父親であるアンドレに加担して私の父を謀殺しようとしました。だから私はもう、自分の結婚相手にも慈悲を求めないことに決めたのです」

「……」

「お互いに子供でしたが将来を誓い合っていました。けれど国に関わると人間一人の心など、何の意味も効力も成さなくなってしまうものだと、分かったから……。ですから私は自分の夫にも何も期待しません。二度と愛情でなど結ばれることを望まない」


「随分悲しいことをおっしゃる」


「……確かに、そうですね。けれど裏切られる方がずっと悲しくてよ。ウィルフレド。あの痛みを知った者ならば二度と味わいたいとは思わないでしょう」

 ウィルフレドは眼鏡を外して胸元に戻した。そしてもう一度だけ、流すように書類に視線を送る。

「要するに、過去の事件から学ばれた処世術を、姫君はこの書面で実践されているわけですね」

「要約するとそうです」

「分かりました。お好きになさってください」

 アリアは翡翠の瞳を瞬かせた。

「お好きになさってください?」

「ええ。貴方のお好きなように」

「あのね、ウィルフレド。こういう契約はきちんと書面にしなければ後で……」

「では、ここにサインでもすればいいですか?」

 書類の適当な空欄を指差してウィルフレドは首を傾げた。アリアは別の書類を差し出す。

「……サインならこちらの書類に」

「ではペンを下さい」

 控えていた秘書官がペンをウィルフレドの前に用意する。その美しい意匠の羽ペンに、「美しい模様だな」などと上機嫌に呟いた青年に、アリアは自分から書類を一度手で覆った。


「ウィルフレド。一度城に書類をお持ち帰りになったら。明日もう一度ここで確認しましょう。それくらい私も待ちますから。お城の方などともお話しになった方が……」


「父はすでに他界しております。母は健在ですが少々精神を病んで外国で静養中ですし。これでも私はメア家の正式な現当主ということになっています。相談役は無論おりますが、ですが姫君、このバルディーン王国で最も尊い血筋の方に求められて、相談役ごときが何を助言出来ますか?」

 アリアはハッとした。

 目の前の青年の、諦めにも似たその穏やかさの根拠を垣間見た気がしたからだ。


「わたくし、貴方の事情までは知らなくて……」


「いえ、お気遣いなく。古い血筋はこうした醜聞をとかく隠したがります。噂話はともかく、私も今初めて外ではっきりと家のことを申し上げました」

「では……本当にいいのですね。そこに印を押したら、私はもう貴方にこんな気遣いの言葉を掛けないかもしれませんよ」

「しかし私は愚鈍と呼ばれています。知らずのうちに賢い姫君の害にならないかは今から心配ですが」

「それは心配いりません。言ったでしょう。私は貴方に何も期待しません。貴方に自分で判断してもらおうとは思わない。だから貴方には常に監視役を付けます。私の数少ない信頼出来る身内ですが、従兄のレナード・ビショップです。どこへ行くにも何をやるにも、彼に助言を求めて彼を同行させて下さい。彼と共にいる限り、貴方がどこで誰と遊ぼうと私は許します。けれど彼の知らない所で人と会った時は、理由を問わず密会したとみなして貴方を容赦なく罰します」

「ビショップ卿といればいいのですね」

「そうです」

「それは分かりやすくていい。助かります」

 ウィルフレドは安堵したように微笑むと、呆気なく自分の全決定権を妻であるアリア・ファナブレスカに託すという契約書にサインをした。

「では、これで私は貴方のものということになったわけですね」

 にこっと彼は屈託なく笑顔になった。

「……そうです」

「では、姫君。次に私は何をすれば?」

「二か月後に式を挙げますから、準備をなさってください」

「二か月後は急ですね」

 ウィルフレドは驚いたように身を引いた。

「本当は式自体、私はあげなくてもいいと思ったのです。どうせ戴冠式をやるのですから。そこで貴方のことも披露すればいいかと考えていたのですが、侍女達に泣きつかれて負けました」

「なるほど。結婚は女性の憧れと言いますからね」

「言っておきますが貴方がそんな心構えでは、地獄を見ますよ」

「もちろん」

 へらりと笑いかけた彼は、慌てて表情を引き締めた。

「挙げるとなった以上は一週間後にでも挙げたいのですが、さすがにそれでは準備が出来ないでしょう」

「それは恐らく出来ないでしょうね」

「だから二か月後にしました」

「なんだか二か月後がとても時間をいただいた気になって来ました」

「水竜の月。バルディーンは水神伝説の多く残る国ですから、丁度いいでしょう」

「分かりました。では姫君、今宵はこれで失礼を」

「ええ。ウィルフレド……それから」

「はい?」

 来た時と何ら変わらない暢気な足取りで出て行こうとした青年を、アリアは呼び止める。

「たった今からわたくしのことはアリアとお呼びになって。もう私達は夫婦になるのですから」

 ウィルフレドは青い瞳を輝かせて笑った。

 アリアの方にもう一度戻って来て椅子に座る彼女の前に跪き、その手の甲に唇をつける。


「分かりました、アリア。仰せのままに」


 彼は優しい声でそんな風に言うと、今度こそ浮かれたような足取りで部屋を去って行った。


「……本当に分かっているのかしらあの人……」


 アリアは夫になると決定した青年の不思議な足音を聞きながら、思わずそんな風に呟いてしまった。


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