第2話「少年の背中」
── 野球のグローブは、いつも父の匂いがした。
幼い頃、颯斗にとって父は「憧れ」だった。
社会人野球の選手として活躍する父は、家にいる時間が少なかった。
それでも、帰ってくるたびに颯斗は嬉しくてたまらなかった。
「父さん、今日キャッチボールしよう!」
「おう、いいぞ」
短い時間でも、グローブを交わすだけで十分だった。
父が投げたボールは、いつも速くて、力強かった。
手が痛くなっても、颯斗は平気なふりをして受け止めた。
(もっと強くなれば、父さんと同じくらい速い球を投げられるかな。)
そう思いながら、小さな手でバットを握りしめた。
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小学校3年の冬。
颯斗の父は、肩を壊して野球選手を引退した。
「お父さん、もう野球しないの?」
颯斗の問いかけに、父は少し寂しそうに笑った。
「もう、できないな」
それが何を意味するのか、子どもながらに理解した。
それでも、颯斗は「じゃあ俺がやる」と強く思った。
父の代わりに、いや、それ以上に野球をやる。
その日から、颯斗はどんな日でも素振りを欠かさなかった。
AIトレーニングアプリは、最適なスイング軌道や筋力強化メニューを提示してくれた。
でも、彼はそれだけでは満足しなかった。
「努力すれば、きっと報われる。」
父はもうプレーできない。
ならば、自分がその夢を叶えるしかない。
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中学では、最初はベンチ要員だった。
周りは体格のいい選手ばかりで、颯斗の実力は「普通」だった。
それでも、彼は誰よりも早くグラウンドに来て、誰よりも遅くまでバットを振った。
AIのデータ分析を参考にしながらも、自分の感覚を信じた。
2年生の夏、ついにレギュラーを勝ち取る。
ショートのポジションは、チームの要だった。
「お前が崩れたら、チームが崩れる。」
監督の言葉を受け、彼は「ミスのないプレー」を徹底した。
派手なプレーはなくてもいい。
チームが勝つなら、自分が犠牲になってもいい。
そんな考えが、彼の中に染みついていった。
「まっすぐであること」が、チームを勝たせる唯一の方法だった。
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高校2年生になった颯斗は、背が高く、引き締まった体つきをしていた。
身長は178cm。短く刈り込んだ黒髪は、野球帽をかぶるとすっぽりと収まる。
小学生の頃はどちらかといえば細身だったが、毎日のトレーニングでがっしりした肩と腕を手に入れた。
彼の特徴は、「鋭い眼差し」 だった。
試合中、颯斗はいつもまっすぐ前を見ている。
どんなに劣勢でも、決して目を逸らさない。
チームメイトからは、「お前の目を見てると、不思議と安心する」と言われることもある。
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江ノ島高校に進学し、颯斗は再びレギュラーを掴んだ。
2番・ショート。派手ではないが、チームに必要な選手。
データ解析AIが示す最適な戦略もあったが、彼は直感を信じた。
AIの分析が「バントよりもヒッティングが有効」と言っても、颯斗はバントを選ぶこともあった。
「監督、データ上では打たせたほうがいいみたいですけど……。」
「颯斗は?」
「……送りバントします。」
「よし、任せる。」
試合の流れを読むのは、最後は人間だ。
その信念の裏には、幼い頃の記憶があった。
父の背中を追いかけて、必死に走った日々。
だけど、彼はまだ気づいていなかった。
「父を超えたい」と思うあまり、自分自身を見失いかけていることに──。
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「本日の母親の帰宅予定は、23時45分です。」
リビングの端末が、機械的な声で通知する。
颯斗は「わかった」と短く答え、夕食を取る。
AIが作った栄養管理された食事。バランスは完璧、味も悪くない。
でも──。
(やっぱり、なんか違うよな。)
昔、父が試合帰りに買ってきた屋台の焼きそば。
母が仕事を休めた日、一緒に作ったハンバーグ。
そういうもののほうが、ずっと「美味しかった」と思う。
食べ終わると、素振りをするために庭に出た。
暗闇の中、バットを握る。
スイングを繰り返すたび、頭に浮かぶのは父の言葉だった。
「野球はそんな甘いもんじゃないぞ。」
(……わかってるよ、父さん。)
でも、それでも──俺は、やる。
自分の「まっすぐ」を、見つけるために。
中学3年の秋、颯斗は初めて「自分の限界」を感じた。
強豪校のスカウトが見に来る公式戦。
颯斗は、いつも通りの冷静なプレーを心がけていた。
ミスのない守備、正確なバント、堅実な走塁。
(チームが勝てば、それでいい。)
それが、颯斗の信念だった。
しかし、試合の終盤、チャンスの場面で颯斗に打席が回ってきた。
二死二塁、1点差。
(ここで決める。)
バットを握りしめ、ピッチャーの投球を見極める。
カキーン!
ボールはセンター方向へ飛んだ──しかし、フェンス手前で失速し、外野手のグラブに収まった。
試合は、そのまま負けた。
監督は「よくやった」と言ってくれた。
チームメイトも「惜しかったな」と励ましてくれた。
でも──
(俺が、もっと飛ばせていたら。)
初めて「自分の実力」が、現実に届かないことを知った。
試合後、颯斗はAIトレーニングシステムを開いた。
「あなたの打球速度は平均128km/h。飛距離を伸ばすには、筋力強化が必要です。」
「トレーニングプランを更新しますか?」
颯斗は、迷わず「YES」を選んだ。
AIは、データを分析し、最適なプログラムを提示してくれる。
それに従えば、効率よく能力を伸ばせるはずだった。
しかし──
(本当に、それだけでいいのか?)
父はAIを使わずに野球をしていた。
直感でプレーし、自分の感覚を信じていた。
(データに頼るだけで、俺は父を超えられるのか?)
この時、颯斗は初めて「努力だけでは超えられない壁」があるかもしれないと感じた。
高校入学の春、颯斗は久しぶりに湘南の商店街を歩いていた。
昔からある老舗の蕎麦屋は、店主が引退し、完全無人のロボットレストランになっていた。
通学路だったパン屋は、AI管理の冷凍パン販売機に変わっていた。
(便利になったよな……。)
ボタン一つで、注文すれば即座に温かいパンが出てくる。
でも──
(焼きたての匂いが、しない。)
父が子供の頃に通っていたという駄菓子屋も、閉店していた。
データで管理された社会は、無駄を排除し、最適化された生活を提供している。
(でも、人の記憶や感情は、最適化なんてできないよな。)
そう思いながら、颯斗はスマホを取り出し、AIトレーニングのアプリを開いた。
「次のトレーニングメニューを更新しますか?」
表示された文字を見つめながら、颯斗は小さく息を吐いた。
(……俺は、本当に「まっすぐ」進めているのか?)
家に帰ると、母はまだ仕事から帰っていなかった。
「本日の母親の帰宅予定は、23時45分です。」
リビングのAIが、機械的に告げる。
(おそいな……。)
冷蔵庫には、AIが作った夕食が保存されていた。
温めるだけで、完璧な栄養バランスの食事が完成する。
食べながら、ふと父のことを思い出した。
(父さんがいた頃は、こんなに静かじゃなかった。)
野球の試合をテレビで見ながら、「このプレーはこうだ」って熱く語る父。
「野球は人生みたいなもんだ」って、笑いながら言っていた。
でも、今はAIがすべてを分析し、「最適な戦略」を提案してくれる。
「努力すれば、報われる。」
父がそう言っていた言葉を思い出す。
(本当に、そうなのか?)
最近、少しだけ自信が揺らぎ始めていた。
「……考えても仕方ないな。」
颯斗は庭に出て、バットを握る。
夜風が静かに吹く中、素振りを始めた。
バットを振るたびに、考えが巡る。
(俺は、なぜ野球を続けてるんだ?)
(父を超えるため? それとも……?)
グローブに残る父の匂いを思い出しながら、颯斗は静かに息を吐いた。
「まっすぐ」進むことが、正しいのか?
それとも、少し立ち止まって考えるべきなのか?
その答えは、まだ見つからない。
でも──
(俺は、まだやれる。)
そう信じて、彼はもう一度バットを振った。
夜の湘南の風が、静かに庭を吹き抜けていった。
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