泣きむし翠の退魔録 〜東京もののけ哀歌〜

浅里絋太

序章 試練のはじまり

試練のはじまり 1

 夏の夜のことだ。部屋の隅に猫みたいな黒い影がうずくまっていた。そいつは小さな目をぱちくりさせ、怯えるように部屋を見まわした。僕は右手の短刀を鞘に戻して、黒い影に言った。


「逃げなよ。あんまり、人間に近づくなよ……。でないと、もっと怖い目にあうかもよ」


 そいつを部屋の窓辺に追い立て、窓の隙間から外に逃した。黒い影は夜へと消えていった。僕は黒塗りの鞘におさまった短刀を目の前にかざした。それは里の退魔師に与えられる霊刀で、銘は『霜月しもつき』という。


 僕はいちどとして、この霊刀を正しく扱えたことがない。あの、黒い猫みたいなやつは、ふいに窓から迷いこんできて、部屋を走り回り、行き場をなくして困っていた様子だった。――まともな退魔師なら、即座に退治してしかるべきだろう。


「どうした? みどり。なにさわいでるんだ?」


 隣の部屋から長身の青年――黒がやってきた。黒は風呂上がりらしく顔を上気させ、黒髪は湿っていた。ボディソープのりんごの匂いがする。白いタオルを首にかけ、グレーのスウェットシャツを着ていた。部屋の入り口に頭が届きそうだ。


「うん。ちょっとさ、迷い猫がね」


「そうか。えらく、ぶっそうな猫だったんだな」黒は僕の手にある『霜月』を見た。

僕は弁解するみたいに、「え、でも、悪いやつじゃ、なさそうだったんだよ……。だから」


 すると、黒はふっと笑った。「無理すんな。でも、やるときゃ、やれよ、翠……」と、黒はタオルを頭に被せて、背中を向けた。



 土曜日の朝七時半にスマートフォンの目覚ましが鳴った。朝食は僕が作ることになっていたから、ぼちぼち起きなければいけない。黒のアパートの一室を間借りしているだけに、その手のことはきっちりやるべきだ。布団の中で目を開けると、壁に貼られた毛筆の字が目に入った。


 『素直』と書かれている。僕が育った鬼梏村きこくむらに住む高木先生に言われて、毎年の正月に自分で書くことにしている。高木先生に言わせれば、『素直』が極意なんだと。そのとき、スマートフォンが鳴った。まさに画面には『高木皆子』と表示された。


「もしもし、先生……?」


 すると、スピーカーから勢いのある、女性の声が響いてきた。


「おはようー! いい朝だな。翠。元気してる?」


 僕はその声を聞いて、高木先生の姿を思い出した。やや小柄ながら引き締まった筋肉質な体つき。後ろに小さくひっつめた長髪に、意志の強そうな眉と目。いつも不敵な笑顔を浮かべる、村でも屈指の退魔師。それが僕の師であり、育ての親だ。僕は驚きまじりの声で、


「あ、おはようございます。はい……。元気です……」

「嘘つけー! 元気ないよ。たまには連絡しなさいよ。それで、黒とも仲良くしてる? どうなの黒のやつは」

「は、はい。黒ともふつうです」

「仲良くしろよー!」

「あ、はい。な、仲良しです」

「それでよし」と、高木先生は納得したように言ってから、「翠がそっちに行ってからも、村でさ、わたしたちもいろいろと、話をしたんだ」

「話、ですか」

「そうよ。翠の退魔師の試練について。東京から回ってくる退魔の仕事から、選んだりしてね」

「そうなんですね」

「四か月も経って、高校生活も慣れてきたでしょ? ちょうどいい頃合いかなって」

「え、ってことは、ついに……」

「ええ。きょうは、退魔すべき標的のことを伝えるために、電話をしている。よく聞きなさい」


 僕は立ち上がり、急いでノートを広げてボールペンを手にした。高木先生は言った。


「標的は、女の夢魔だ。男をたぶらかし、その精気を糧として長く生きる種族だ。翠、それを討て…………」


 それから高木先生は、夢魔のことをいくらか語っていき、僕はそれをメモした。


「なにか質問は?」と言う高木先生に、

「いえ。だいたい、わかりました。たぶん……」

「それでよし。まかせたぞ」


 村のしきたりで、一人前の退魔師になるまで、本当の親とは会えない。そんな僕を育て、退魔の修行を含めて面倒を見てくれたのが、高木先生だ。僕は高校への進学と同時に、東京に移住してきた。村の若者はみな、そういうふうにしている。欲望と瘴気が集まる東京などの都市で、三体の妖魔を狩ることが、退魔師として認められるための試練となる。


 もやもやとした気持ちのまま、僕はキッチンに立ち、食パンを袋から出して、トースターに差し込んだ。トースターはジリジリとパンを焼きはじめる。


 電話がかかってきて時間が押したこともあり、いつもより急ぎ気味ではある。皿とシリアルの袋をテーブルに置いて、スプーンを並べる。ミニトマトを二つずつ、小皿に設置する。


 これが僕らの朝食であり、不動の朝の儀式になっていた。僕らは村の修行の中で、朝の筋トレや瞑想などを繰り返すことで、ルーティンワークをこなすという習慣が身についていた。そのうち七時五十分になると黒の部屋からアラームが鳴る。呻き声が聞こえてアラームが止まるが、それでまた静かになる。トースターがチーンと鳴った。僕は黒の部屋のドアに声をかけた。


「焼けたよ! 黒、バイト遅れるんじゃないの?」


 すると、しばらくして、「あー」と聞こえた。


「起きなよー」


 やがて部屋のドアが開くと、寝癖の頭のまま、のっそりと黒が現れた。黒は洗面台へ行って手を洗うと、先ほどと大して変化のない様子で、椅子についた。


 ぼんやりしているくせに、トーストには苺ジャムを隈なく念入りに塗って、かじりつく。


「ほんと、低血圧なんだね」と、僕は呆れながら言った。

「あー。悪いな。昔っからでな」そう言って黒は、もくもくとパンを食べる。


 インスタントコーヒーを白いマグカップに淹れた頃には、黒はいくらかしゃんとしてきていた。マグカップには、仔犬のイラストが書かれていた。黒の身の周りの小物には、動物の絵柄が多い。なかなかそこを、突っ込めずにいたけれど。


「さっき、電話してたか?」と、黒はマグカップに口をつけてから言った。

「え、聞いてたの?」

「ああ。なんとなく、な」

「そっか。うん。村の、高木先生から」

「へえ。そうか……」黒は勘がいい。もうそれでたぶん、すべてを察した。

「あとで、詳しく聞かせてくれ。やるのは翠、おまえだけど。それでもいちおう、どういう話か聞かせてほしいんだ。いいな?」


 やがて黒は家を出ていった。黒の家は郊外のアパートの二階にあった。2LDKの間取りのわりに、家賃は安いらしい。黒はバイトを掛け持ちして、大学の学費や生活費の一部を稼いでいた。村や親からの支援もあるが、なるべく自分でも稼ぎたいらしい。しかし、腑に落ちないことがある。黒は一人前の退魔師のはずだ。それなのに、退魔の仕事をしている様子はない。


 黒が家を出てから、僕は黒の部屋に入っていった。


 白黒のモノトーンを基調にした、彼らしいスマートな印象の部屋だった。机や椅子は黒、ベッドのシーツやカーテンは白。そんな具合だった。


 やがて机の下を見ると、暗い紫色の繻子に包まれた細長いものが置かれていた。また、その繻子には、ビニールテープがぐるぐると、縦に横に幾重にも巻かれていた。


 やはり、大きさや形状からして、村で授けられる短刀のようだった。手を伸ばしてそれを持ち上げると、僕の『霜月』とよく似た質感があった。ビニールテープに巻かれた様子は、まるで黒が退魔師であることを否定するかのようだった。




 序章 おわり

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