第6話 ドクツルタケ

 Chapitre 6  ドクツルタケ


 それから一週間、大学も夏季休暇に入ろうかという、カラッと暑い土曜日の午前中だった。

「しぇ、しぇ、しぇーっ」

 イヤミのシェー、ですか。今度はなんだ。

「はい。落ち着こう」

「だって、落ち着いてらんない。大変なんだから!」

 ビストロに飛び込んできたみもざはわめいた。

 いいなあ、若い子は。大変だー、ってつぶやけば、みんながいっせいに、へーっ、って注目してくれるんだから。

 大人はそうは、いかないのよ。

 心の奥底に、秘めなきゃいけないことだってあるのよ。ここまで思って、あ、年齢は関係ないやな、と撤回した。で?

「桃生先生がねっ」

 はいはい?

「やられましたっ!」

「や、やられた?」

「なにに?」

「マムシにっ」

 ひゃ~っ。さすがにそれは、まずいわっ。

「そ、そんで、どうしたの?」

 さくらも少しだけ慌てる。

「今、病院」

「梨田くん、昼ランチってどうなってたっけ」

 さっきまで確認しながら自分で仕込みしてたじゃん、と梨田くんは、さくらに耳打ちする。病院、行く気だよ、とさくらは返す。

 そっか、そっかぁ。無理かもな、今すぐは。

 今日は、保育園のママ友十二名の、学期終わりのランチ会。ありゃみんな、楽しみにしてるよ。ちょっとえるようにしてあげたいし。それから、別荘夫婦二組計四名のコース予約。これはおれのプライドかけて、ご満足いただけるような内容に。あとは、村のおばちゃんたち数名のアラカルト。なに持ってきてくれるんだろう、今日は。持参食材を、瞬時にアレンジ料理しなくちゃいけないから。

 隆之介は梨田くんに振り向く。察しのいい彼は、「ひとりじゃ無理です」と、首を横に振る。

「でも、いつかは起こることだったと思うな」

「病院にたどり着けただけでも、良かったっすよ」

 さくらも梨田くんも、フツーに仕事しながら、他人事ひとごと感すごい。

 ちいっ。なんで大変なことばかり起こるんだ。隆之介は、舌打ちをする。

 穏やかに過ごした日々は、いったいいつのことだった?

 ビストロ奥寺では従業員が、ランチとディナーの間に二時間ほど休憩をとる。その時間帯に隆之介は、店のミニバンを駆って、となり町の総合病院へ向かった。

 到着したのは、面会時間終了までまだ三時間はある、午後三時だった。

 ナースステーションで、入室時刻と氏名を記入する。感染症がはやっているとも聞かないのに、面会時間はたったの三十分間に制限されていた。ナースステーションから五つむこうの病室ですよ、と、受付事務員が教えてくれる。

 手指消毒液の上方に、「桃生ハルカ」という名札がかかった病室は、小ぶりだが個室らしい。手前のカーテンが半開きで、そこから、かけ布団がかけられたハルカの足もとが見える。病室には他に誰もいなかった。

「あの…」

 カーテン横で、隆之介はハルカに声をかけた。窓を向いていたハルカの頭部が、ゆっくりと出入り口側に向いた。眠ってはいなかったようだ。

 隆之介を見とめたハルカはひとことつぶやいた。

「痛いのよ」

 そうでしょうね。

 白い掛布の上に置かれている左手甲は紫色に変色し、腕とともに、通常の二倍ほどに、腫れ上がっている。パンパンに、と形容するのがぴったりだ。

 怪我人に説教するのははばかられたが、

「気をつけなきゃいけませんよね」

と、思わず口に出た。

 ハルカは黙っていた。あれ、怒った? それともしょげてるのか? と思っていたら、

「へへっ」

と、愛想あいそ笑いを返された。

「いつもは皮手袋してるのに」

 痛みに顔をしかめながら語った説明は、こうだった。

 下草の生える林地から、土と木の根が混じる土手をつたい、横幅四メートルほどの川へ降りる。石が転がる河原を、上流へ向かおうとしていた時、ちょっとした異変に気が付いた。

 だから、足場になりそうな、直径三十センチほどの石を、川中へ放り投げようと持ち上げた時、その下にいた蛇に、手を咬まれたというのだった。

「石が重かったんで、右手のほうを一回ズリ落としちゃったんだよね。下でとぐろを巻いていた蛇の体を、押しつぶしたんじゃないかな。だから蛇、怒ってたよ」

「怒ってたんすかッ?」

「左手にかみついた蛇の、目が、怒ってた」

「怒ってたんすか!」

 やれやれ。

 なんでそんな、尋常じゃないことをしているんだろう、この人は。

「むかし、母子の熊に出会ったこともある」

 ハルカはなにげに言った。

 隆之介は絶句した。

 クマよけの鈴をつけていたが、菌糸採取に夢中になり、ふと顔をあげたら、クマの親子が百メートルほど先で、こちらを向いていた、とハルカは言う。

「で、頼みがあるんだけど…」

「命知らずの先生から、どういった頼みでしょう!」

 自分の目、そうとう吊り上がっていたかも。

「わかりました。わかりました。以後、気をつけます」

「今度、母子熊に遭遇したら、ぼくたちがこの世で会うことはもうないと、思ったほうがいいですね!」

「はいはい。わかりました。で…」

 適当にあしらわれている感じもする。腹立ってきたなあ、もう。

「きみの叔父上に、あの川の上流を確認しに行ってもらいたいんです。できれば複数人で」

「は?」

「さっきまでここいた、源田の伯母にもお願いしました。源田の伯父に、上流を見に行くよう頼んでくれと」

「どういうことですか?」

「自分にも、わからないよ」

 わからないけれど、と、もう一度繰り返して、ハルカは言った。

「早く」

 はあ…。マムシ毒に侵された人の言う、おかしなことは、理解しがたい。

「すじができているんです」

「すじ、が、できる…?」

「濁りのすじが、川に。判別できないくらい、薄いんですけど」

「雨、なんじゃないですか?」

「いや。いつもの雨のあととは、違う気がする」

「わかりました。伝えます」

「そうしてくれると、ありがたい」

 ここは病院だった、と、隆之介はあらためて気が付いた。

 命と向き合う場所でなされたハルカのお願いは、冗談ごとではないように思えた。

「できるだけ早くに、伝えます」

「ありがとう」

 ほっとしたようにハルカは、二度目の礼を言った。それから真顔に戻って、「もうひとつ」、と付け加えた。

「板室くんが」

 伸二の名前がハルカの口を突いて出たので、隆之介の心臓は鳴った。

「い、板室くん?」

「彼、きのこを持ってた」

「え?」

 ハルカをこの病院まで連れて来たのは、板室伸二であったというのだ。

 あの時、咬まれた手の甲の血を絞り出してから、腕を軽くしばり、拍動を上げないよう、静かに下山していると、山中で板室くんに会ったんだ、とハルカは語った。

 マムシに咬まれたというハルカに驚いて、伸二は、林道に停めてあるぼくの車に乗ってください、と申し出た。

 荷物、持ちましょう、と、ハルカのバッグを受け取った拍子に、伸二が持っていた紙袋がやぶけ、三つばかりのきのこが飛び出して、地面に転がったというのだ。

「あれは、ドクツルタケだよ」

 ハルカは天井を向き、目をつぶった。

 おーい、おーい、という、年配男性の声が、廊下の奥から聞こえてくる。パタパタという足音に続いて、「三木さーん、どうしましたー? ナースコール、これですよお」、という若い女性の声が響く。

 隆之介は、ハルカがどんな言葉をつなぐのか、黙って待っていた。だけれど、目を開いたハルカは、隆之介のほうを向いて、

「それからまだひとつ、頼みがあるんですけど」

と、続けた。

 病室の、テレビが備わった台の下方に、ハルカが手を伸ばしたので、隆之介が戸を開けてやると、黒いショルダーポーチが見えた。

「そこに、家の鍵が入ってるんです」

 地形図やメジャー、折り畳みナイフ、懐中電灯、ルーペなどが詰まっている肩掛けかばんの内ポケットに、家の鍵を見つけた。

「部屋の奥の電気、消し忘れたような気がしてしょうがない」

「ああ、電気」

「それから、生ごみ…」

 他人事じゃないかもね、急な入院。

「わかりました。やりますよ。着替えも持ってきましょうか?」

「あ、下着や寝間着はいいです。病院で全部、レンタルできるそうで」

 面会時間の三十分は、とうに五分すぎていた。でもこの時間だったら、四時半には店に入れるか。ギリギリ。

 梨田くんに短いメッセージを送ると、「了解」と返ってきた。そのあとすぐに、「でも今日は土曜なんで、すっごく忙しいですよ」、と、付け加えてあった。わるいなあ、と思いつつ、ミニバンで店の前を素通りした。

 鍵を上と下の穴に二度差し込んで、取っ手を引く。以前、ハルカが軽々と開けていた印象より、ドアは重く感じた。

 大屋根の平屋の扉の向こうは、思ったよりも広いたたきで、靴箱とサンダルだけがあった。

 かまちに上がりかけると、たしかにかすかな生ごみの臭いがした。

 ダイニングを突っ切り、まず、南側の大きな窓を開ける。北側へ向かい、キッチン後ろの小窓を開けると、風がすうっと通り抜けた。

 どの電気も、消されているようだった。

「気になりだすと、ずっと気になっちゃうの、わかるわ」

 笑いを浮かべ隆之介は、あらためて、桃生ハルカの部屋を眺める。自然光に照らし出されたダイニングは、落ち着いたこげ茶色の無垢材を使った、薪ストーブのある造りだった。

 いい部屋だな。

 隆之介は思った。

 西側の壁一面、天井近くまで本が詰め込まれた棚。

 DIYでもなさそうだから、サカキバラさんにやってもらったのかな。もともと本棚なんて、あった感じじゃないから。

 本のほとんどは縦に並んでいるが、ところどころ、斜めになったり、縦の上に横に積まれていたりしている。

 隙間に、ケースに入れられた空のシャーレが置かれていて、落ちないだろうか、と、ちょっと奥へ押し込んでみたくなる。

「あっ」

 次の瞬間、隆之介は写真たてに気がついて、ちょっとだけ声を上げた。

 その場所は日陰になっていた。

 天窓から差し込んだ陽のひかりは、本棚を斜めに分けており、その陰になった三角の部分の上方、隆之介の目の高さよりも頭一つ高い棚の本の手前に、親子と思われる三人がうつった写真が立ててあった。

「すこし、想像と違った」

 母親と思われる女性は、おだやかな、和風と表現したいような顔をしていた。源田会長ともどこか通じる、細い目が笑っている。

「こっちはハルカさん。あはっ。今と全然変わらない」

 白が基調のワンピースを身につけた女性の腰に腕を回し、半ズボンからのぞいた右足をくの字に曲げながら、まじめくさった顔で立っている男の子は、おかっぱ頭だった。

 その男の子の左側に立つ、開襟かいきんシャツの長身の男性のほうが、彫りが深い、異国の人のような顔立ちをしている。

 なんか、泣きそうだ、おれ。

 その写真がどこで撮られたものか、背景の木立こだちだけでは、隆之介には推察ができかねた。

 三人に見つめられているのが照れくさくて、背を向けた。

 視線の先には、部屋のまん中にしつらえられた、大きめな西洋調のテーブルと、ハルカが使っているであろう、高めの背もたれとひじ掛けのついた椅子。ほかにダイニング用の椅子三脚が、テーブルに押し込まれている。

 卓上には、電子顕微鏡がひとつ、ディスクトップのパソコン一台と、閉じられたノートパソコンが一台。どれも、電源は落とされているようであった。

 その周りには、からだけど、洗っていなさそうなマグカップ、論文と思われる薄い冊子が、閉じられたり開かれたり、雑然と置かれている。

 本棚の前に寄せられているソファは三人掛け。これは、源田会長が用意したものなのか、茶色い皮張りの、重厚感あるものだった。背に、フリース素材の掛布が一枚、無造作にかけられているので、ここで、居眠りでもしているのかもしれない。

 ちょっと匂いをかぎたくなった。でもやめた。

 北西の奥は風呂場とトイレらしく、ダイニングの上半分には中二階があるが、おそらくそこが寝室であろう。

 テーブルの上のカップを手に取ると隆之介は、台所へ向かった。

 北東側に設計されたキッチンには、ピクルスや乾燥きのこの瓶が、ほこりをかぶりながら、背比べをするように並んでいた。

「もう、喰えないんじゃないの? これ」

 食べるためかインテリアか、はたまた研究素材なのか、この部屋にあると、わからなくなってきそうだ。

 隆之介は、シンクに残っている、かぱかぱに乾いた白の平皿と小皿、一本のフォークと一緒に、コップを水道水にひたした。

 三角コーナーの生ごみの上には、すでに数匹の小バエが旋回をはじめている。

「なんか、移すもん、ないかな」

と、思いながらあたりを見わたすと、食器棚の下に白のプラスチックトレーを見つけた。その上に、生ごみを、ぽんっと移し、窓を開け放したまま、トレーを持っておもてへ出る。

 赤銅色の郵便受けの奥には、手入れされていない庭が広がっていた。

「これ、ローズマリー…」

 源田の奥さんが植えたものだろうか。

「こっちはラベンダーじゃないか? たぶん」

 ハーブの低木が、ねこじゃらしや、名前のわからない雑穀系の草の間から、頭をのぞかせている。

 植物がわからない人なら、「全部引っこ抜いてしまえ」、とでもなりそうな、哀れな状態の庭の草を、素手で抜く。しばらく抜くと、土が顔を出す。落ちていた木の棒で土を掘り、そこに生ごみを埋める。

 トレーを片手に、部屋に戻った隆之介は、手を洗い、もう一度ダイニングにたたずんだ。さっき庭で袖に触れたローズマリーが、香っているようだった。

 隆之介は、西側の本棚に近寄った。

 目の高さには横文字の書籍が並んでいる。首をかしげないと、うまく読み取れないと思い、そうしてみたが、大半の意味が分からなかった。

 少しかがむと、菌類やキノコの日本語書籍が並んでいた。

 そうそう、これこれ、と、右手の人差し指を浮かせてなぞってみる。なぞりながら、ああ、この本棚は、ちゃんと種類分けされているんだな、と、気が付く。

「菌」と銘打ってあるものは、総じて難しそうだったので、「きのこ」の背表紙を目で追う。

 自分にも理解できそうな本。

 その中にまるで、わたしを選んで、と、せり出してきた、「世界のきのこ 日本のきのこ」という本があった。そうっと引き抜き、表紙をめくってみたら、中表紙に記されている十名ほどの著者のなかに、「桃生ハルカ」という名前があった。

 ページをめくると解説とともに、形さまざま色とりどりのきのこたちが、次から次へと隆之介に挨拶をしてくるようだった。何時間でも見入っていられそうだったが、隆之介は目的を思い出し、索引を開く。

「ドクツルタケ」

 そのきのこは、「毒のあるきのこたち」というカテゴリーのなかに、大きな写真付きで、メインとして扱われていた。

 真っ白な、花嫁のようなその姿。

 傘が開いたたたずまいも美しかったが、幼菌の、つるんとした玉子のような様子も、かわいらしかった。

 赤いタマゴタケと一緒に並べて、きのこを知らない十人に、どちらが毒ですかと尋ねたら、八人くらいはおそらく、タマゴタケのほうが毒、と答えるかもしれない。

 死の天使

 殺しの天使

 デストロイング・エンジェル

 おもしろがるように、ぶっそうな異名がいくつも記されていた。

 もうひとつ、隆之介が驚いたことは、久仁子の別荘の高木の下で見た赤い指が、となりのページに載っていたことだ。

 珊瑚のような赤いきのこ、「カエンタケ」。

 真っ白なきのこと真っ赤なきのこが、恋人同士のように、見開きページのまん中に収まっている。

 どちらも、まんがいち口にした場合、医療機関にかかって胃洗浄などする以外には、助かる道はない。

 ほんとうだ。ハルカが困惑したとおりだ。なぜ、板室伸二はそんなきのこを、それも三つも、紙袋の中に忍ばせていたりしたんだろう。

 隆之介は本を丁寧に、元あった場所に戻した。窓を閉め、もういちど電気を確認し、鍵をかけて、ハルカの家をあとにした。

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