第36話 耽溺
琴音を保健室に残して教室へ戻った私は、ヒソヒソと聞こえてくる声を無視して席に着いた。
一限目の授業が終わり、井戸端会議が好きな近所のおばちゃん達よろしく声を掛けてきたクラスメイトたちへ、ただの友達だと釈明をしておく。
文のせいで(おかげ?)こういったイベントには慣れたもので、周囲の反応は、
『ま、そうだよね』
と実に淡白で、面白がって深追いしてくる人もおらず、あっさりと興味をなくしてくれたことが根暗な私としては非常に助かった。
……と思っていたのもつかの間。
二限目終了後、安寧の地、一年A組はまたしても突然の来訪者によって踏み荒らされた。すっかり気力を取り戻し、恋する乙女丸出しのうっとりとした顔で熱い視線を送ってくる異様に目立つ長身の美人が一名。さらにはブンブンとこちらに手を振りながら近づいてくる、これまた前者に引けを取らないほど一際目立つ、幸せオーラ全開の豊満な体つきをした美少女もついてきている。
鎮火したと思った矢先に火種が『やぁ』とばかりにひょっこりと顔を出してきて、周囲の視線が突き刺さり、たまらず教室を飛び出した。
一体何を考えているのか……いや、何も考えていないに違いない。
「二人とも……教室には来ないでって言ってあったよね?」
カルガモの雛のように後ろをついてきた二人組に、空き教室の引き戸を閉めながら詰問した。
揃ってニコニコしくさって……もう教室戻りたくない……。
「あ、あたしは止めたんだよ? 川崎さんがなんにも聞こえてないみたいに歩いていってさぁ……」
「すまない……足が自然と向かってしまって……怒らせてしまっただろうか……」
「はぁ……文はウッキウキで来てたよね? 琴音も、そこまで怒ってないから落ち込まないで」
わかりやすく肩を落とす琴音と、反省の色が見えない文。
文はしきりに自身の耳たぶをふにふにと触っては、デレデレと締まりのない顔を浮かべている。
「あんまり触ると化膿するよ?」
「んふふ……はーい」
聞き分けがいいのか悪いのか。まぁ今回は琴音が暴走したのは本人も認めているし、文を責めるのはお門違い……なのか?
「とにかく、私のクラスには来ないこと。分かった?」
もう手遅れかもしれないけどさ。根掘り葉掘り聞かれるだろうなぁ……。
いや、案外熱が冷めてる可能性もあるな? 一応は友達だって納得してくれたんだし、杞憂に終わることを祈ろう。
「言乃葉、わたしは君のクラスへ行こうと考えていたわけではないんだ。気がついたときには、君が目の前にいた。分かるかい?」
……?
私が琴音をいじめすぎたばかりに、心身に異常を来してしまったらしい。
ごめんね、もうすぐ解放するからね。
「おそらくは言乃葉分が足りていないから、こういった行動を取ってしまったのだと思う」
真顔で初めて耳にする成分を恥ずかしげもなく口に出し、無意識下の行動に至った要因を解説された。
……違うなこれ。琴音は元からこんなんだった。
「だから……その、充電……させてほしい……」
照れる基準が分からない……。
素直にキスしたいって言えばいいだろうに。……照れてる顔も可愛いけどさ。
……ああもう、別れたくないな……この顔を他の女に見せるの? 絶対に嫌なんだけど……早く別れないと後悔するって分かっていても、嫌なものは嫌だ!
「君が先にしてもらうといい。わたしは後で構わないよ、少々確認しておきたいこともあるのでね」
「そ? じゃ、一限サボってたことについては深く聞かないでおいてあげる。コトも一緒にいなくなったのは知ってるから、だいたい予想できるし」
私の葛藤を余所に二人は勝手に話を進めていた。
いくらなんでも耳が早すぎない? 交友関係が広いっていっても何時何処で誰に教えてもらったんだろう。もしかしてもう噂になってる?
「平等だからね? あたしが今からするキスは、二人がサボってキスしてた分だよ」
言いながらも手慣れた動きで、流れるように私の腰に腕を回す文。
一限で私と琴音がいなくなっていた=キスをしていたになるのもどうかと思う。
事実キスはしたから否定できないけどさ。
今はあまり琴音を刺激したくないんだけどな……ん? そういえば私のクラスへは二人で来ていた。保健室の一幕から察するに、琴音は文にいい感情を抱いてはいないはず……だとしたら琴音が確認したいことって……。
琴音に意識を取られていると文の顔が眼前に迫っており、パッチリとした大きな瞳が不満げに細められた。
「他のこと考えちゃヤ。んぅ、れぇ……」
琴音の前でキスをしていいのか躊躇していると、強引に唇を奪われて、すぐさまにゅぐっと舌が侵入してきた。拒むわけにもいかず控えめに舌を重ねると、消極的な態度が伝わったのか、もう怒ったと言わんばかりに動きが激しくなった。
呼吸は乱れ水音が大きくなり、絡みついてくる熱によって理性が溶かされていく。
……もういいや。どうせ琴音とは別れなきゃいけないんだ。
「れぇ……文、もっと……んぅ……気持ちいい……」
「コト、コト……えへへ……れぇ……」
私から積極的に舌を絡ませると、文はパッと笑顔の花を咲かせて、ちゅーちゅーと嬉しそうに私の舌を吸ってきた。
学校でしていいキスのラインなど初っ端から越えており、授業の合間の休み時間という短い時間を、それをさらに二人で等分した僅かな時間を余すところなく味わうためにいきなり舌を入れてきたのだと今気が付いた。
不機嫌になったのも、私が文と同じ気持ちじゃなかったことに腹を立てたのだろう。恋人とキスをするというのに他のことに気を取られてちゃ怒るのも無理はない。今は互いに求め合い、気持ちが通じ合っている。文の機嫌が良くなったことがそれを如実に物語っていた。
「滑稽だな。本当は愛されていないとも知らないで」
燃え上がっていた私達とは対照的に、凍てつくような冷たい声に水を差された。
これは……まずいかも。琴音がいいと言ったとは言え、せめて外に出すべきだった。
「……はぁ? あんた何言ってんの? 最悪……台無しなんだけど。時間もまだもうちょっとあったのに何邪魔してくれてるわけ?」
文も火照った体にいきなり冷水を浴びせられてお冠だ。あまり怒らない温厚な性格だと思ってたんだけど認識を改めよう。私のことになると結構すぐ怒るな……って冷静になってる場合じゃない! また喧嘩になる!
「二人とも落ち着いて!」
「もういいだろう、言乃葉。葉山さん、君には内緒にしてくれと言われたんだが……言乃葉はわたしを一番愛していると言ってくれたよ」
「あっそ……で、あんたはそれを真に受けたってわけね。コト、後であたしにも同じ台詞言ってもらうから」
一瞬ギクリとしたが、文はわたしの言葉がリップサービスであることを瞬時に見抜き、平等を主張してきた。強かというか、抜け目がない。可愛い。てっきり怒られると思った。
「ふふっ、嬉しいよ言乃葉。本当にわたしだけだったんだね……嬉しい……ふふっ、嬉しいな……」
琴音は自分の体を抱いて、ねばっこい、ドロっとした視線を私に送ってくる。
マズイ。あの一言がここまで拗れるとは思っていなかった。私が内緒にしてと言えば必ず約束を守ってくれるものだと妄信していた。
文の発言で真実だったのだと確信してしまって、思い込みが深くなってしまっている。私は『琴音が一番好き』とは言ったが、文を愛していないなんて一言も言っていない。
「さぁ、そろそろわたしの言乃葉から離れてくれ。なに、落ち込まなくていい。君もすぐに良い人が見つかるさ。言乃葉には遠く及ばないだろうがね……ふふっ……ふふふっ」
「……何言っても無駄っぽいね。ねぇ、コレ……何があったの?」
ちらっと横目で説明を求めてくる文に、話してもいいものかと迷っていると琴音が意気揚々と語りだした。
「君は何度も言乃葉に迫っては断られていたのだろう? 加えて言うなら、浮気がわたしにバレてしまったとき、言乃葉はわたしを選んでくれたんだ。泣き喚く君を振ろうとしていたことを忘れたとは言わせないよ。これで分かったかな? 言乃葉が誰を愛しているか、ということが」
「あんたには聞いてないんだけど……そんなことまで話したんだ。それで暴走したってことね……はぁ……コト、調子に乗りすぎ。川崎さんがおかしくなっちゃったの、コトのせいだよ」
ポコン、と頭に手刀を食らってしまった。返す言葉もない……。
二人と付き合うという爛れた関係を強いて、追い詰めてしまった。琴音を不安にさせてしまったのも私が不甲斐ないせいだ。彼女失格の烙印を押されて、三行半を叩きつけられても当然と言える。
「鵜呑みにしちゃったあんたも悪いけど」
ピッと琴音に指をさす文。
悪いのは全面的に私だと思う。まさかこうなるとは思っていなかったけど。
「認めたくない気持ちは分かるが……往生際が悪いね。しつこい女の子は嫌われるよ?」
「琴音も、やめてって言ったでしょ」
気が大きくなっている琴音を諭してみたが、増長した人間は簡単には止まってくれない。理知的な琴音であっても例外ではなかったようだ。私絡み、ということもあるかもしれないが。
「言乃葉、優しさは時に人を傷付ける。君が葉山さんを振ってあげないと、いつまで経っても彼女は前に進むことができないよ」
「もー! あったまきた! さっきから上から目線でベラベラと……コト! この馬鹿女に教えてやって!」
「えっ、あ、え?」
急に指名されてびっくりしていると、
「キス! 二番目の言う通り、あたしを愛してないなら、あいつにキスして。あたしを愛してるなら、あたしにキスして」
文に白黒ハッキリつけろと突きつけられた。
しれっと琴音を二番目呼ばわりしてるし、敵愾心をメラメラと燃やしているのが目に見える。
「自分で自分の首を絞めるとは……理解し難いな。だが丁度いい機会だ。言乃葉、この愚か者に現実を教えてあげてくれ」
自信満々に言い放つ琴音は、私が琴音にキスをすると信じて疑っていない。
始業のチャイムが戦いのゴングの代わりとばかりに鳴り渡り、二人の間に火花を散らした。
琴音、大丈夫かな……。
「あたしはあんたみたいに駄々をこねたりしない。コトは、あたし達を愛してるの。認めたくないのは分かるけど、それが嫌なら諦めるか、自分だけを見てもらえるように頑張れば? あんたにそんな根性あるとは思えないけどね」
「……え? 言乃葉? 君は何をしようとしてるんだい?」
一歩も動かずに、文の頬に手を添えた私を見て琴音はワタワタと慌てだした。
怒ったフリをして責めるような口調で琴音に問いかける。
「私は二人を愛してるって言ったよね? 琴音は私が文を愛していないってどうしてそう思ったの?」
「え、いや、それは……だってわたしを一番好きだと……葉山さんの告白を何度も断ったと言ったじゃないか……」
さっきまでの威勢はどこへやら。虎の威など存在しなかったことに気付いた狐は、狼狽えながらも言葉を絞り出し、縋るような目で私を見てくる。
私に嫌われると思ったほうが琴音にはダメージが大きいだろう。
これが琴音のためになるんだ。心を鬼にしてやり遂げないと。
「それで勘違いしちゃったんだ……分かった。だったら、もう一回見てもらおっか。目を逸らしちゃ駄目だよ? しっかり見ててね」
琴音のプライドを折り、もう一度深く傷付ける。
「文、愛してる……んぅ、れぇ……んっ……」
「れぇ……ぷは……あたしも、愛してる……れぇ……」
過去の出来事をなぞるように、舌を絡ませ合っているところを琴音に見せつけた。
あのとき琴音は泣きそうになっていたけど……。
「……ふふっ、またそうやってわたしをいじめたいんだね。愛され過ぎるというのも困ったものだ」
今度は都合のいいように事実を捻じ曲げて、ケロッとした顔を浮かべていた。
その後私が文の唾を飲んでも、唾を飲ませても、眉一つ動かさずニコニコと笑って私達のキスを見守っていた。
精巧なドールのように整っている美しい顔立ちが、余計に不気味さを感じさせる。
「終わったかな? 次はわたしの番だね」
滅茶苦茶だ。
どうして私と文がキスをしていたのか理解していない。なかったことにしてる?
「……琴音とはしないよ」
「おあずけばかりだと栞さんに……う、浮気……するかもしれないよ?」
するつもりも無いくせに無理して私の不安を煽ろうとしてる……可愛い……じゃなくて! 琴音も学習しないな……。
荒療治かもしれないが、何もせずに私と付き合っていても悪化するだけなのは目に見えている。琴音に必要なのは私じゃない。琴音だけを大事にしてくれる、優しい人だ。
「いいよ。私も浮気したんだし、止める権利ないから」
ついさっきも似たようなやり取りしたよ。
私が別れると決めている以上、悪手にしかならない。
「……うぇぇ……ひっく、ぐすっ……言乃葉はわたしのことがいらないんだ……」
琴音はその場にペタンと座り込むと、横隔膜をひくつかせながら突然泣き出してしまった。
……ニコニコと笑っていたのは精一杯の虚勢だったのか。傷付いた心を隠して、とぼけたフリをしながらキスしようとしていたんだ。
ここで流されてしまったら水の泡だと頭では理解しているのに、体が勝手に琴音のもとへと動いてしまう。
普段の凛々しい姿からはかけ離れ、年端もいかぬ少女のように泣いている琴音は、間違いなく世界で一番可愛くて、可哀想で、綺麗だった。
意志薄弱の、卑怯者の私が甘い誘惑に抗えるはずもなく。止まれという命令を無視して琴音を床に押し倒す。私も既におかしくなっているのかもしれないな……。
「あっ……言乃葉……?」
組み敷かれた琴音は、腕を伸ばすと私の頬を擦り、満面の笑みを浮かべた。
「えへへ……言乃葉、嬉しそう……わたしの泣き顔が好きなんて……最低だね?」
文に聞こえないように、琴音の耳元に顔を近づけ、小さく囁く。
「琴音が一番可愛い。大好きだよ」
「言乃葉……! 言乃葉、言乃葉……好き、好き、好き、好き……!」
これで最後にするからと自分に言い訳をして、文に『もうおしまい!』と強引に止められるまで貪りあった。
互いに口の周りはベタベタで、キスしかしていないのにショーツが湿ってしまっている。おそらくは琴音も……やりすぎた。
琴音は息を切らして、人には見せられないほどに蕩けきっている。止められるのが数秒遅ければTPOをわきまえずいくところまでいってしまっていたかもしれない。
(文が止めてくれてよかった)と、一旦冷静になっていた私を、文の嫉妬に塗れた視線が再度興奮させた。
「文……可愛い……んぅ……好き……」
「もお……コト……んっ、反省してないでしょ……んぅ……」
文にキスをすれば、琴音が傷付いて。
琴音にキスをすれば、文が嫉妬して。
琴音の歪んだ顔を見る度に琴音で頭が埋め尽くされ、一心不乱に愛を伝える。
その度文は私の腕を引き、『あたしにも』と切なそうな表情で私を見つめてくる。
不道徳なキスを延々と繰り返し、多幸感で頭が馬鹿になってしまったみたいだ。よだれを垂らしながら、私を愛してくれている二人をただ求める。
結局私達は三限目をサボり、終業のチャイムで現実に引き戻されるまで甘ったるい夢の世界にどっぷりと浸かっていた。
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