人妻の口唇に酔いしれて

邪代夜叉(ヤシロヤシャ)

人妻になった元担任の口唇に 1


ほろ酔いのざわめきが店全体を包み込み、笑い声とグラスの触れ合う乾いた音が絶え間なく行き交うその夜、場の喧騒から切り離されたような密やかな個室で交わした口づけは、甘さよりも先に、胸の奥をひりつかせるような禁秘の味を残した。



***


大学生のサトルは、雑然とした飲み屋のカウンター席に腰を下ろし、まだ姿を見せない友人を待ちながら、グラスを傾けていた。


未曾有の感染症が世間を覆っていた頃の緊張が緩和され、人々が抑え込んできた時間を取り戻すかのように、店内は平日の夜とは思えぬほどの活気に満ちている。


背後では会社帰りの客たちが肩を寄せ合い、前ではカウンター越しに店員が忙しなく酒を注ぎ、サトルはその賑わいの端に身を置きながら、誰かと飲むはずだった夜の行方を、ぼんやりと思い描いていた。


そのとき、不意にスマートフォンから軽快な電子音が鳴り、現実へと引き戻される。


インスタントメッセージの受信を告げる音に、嫌な予感を覚えつつ画面を確認すると、そこには用事ができたので行けなくなった、という短く素っ気ない文面が表示されていた。


言い訳めいた説明すらないその一文に、サトルは思わず息をつき、グラスを置く。



「マジかよ……せっかく、こうして飲みに行けるようになったっていうのに……」



独り言のように漏らした言葉とともに、肩から力が抜ける。やはり、酒は誰かと向かい合って飲む方が楽しい。会話の隙間に笑いが生まれ、沈黙すら共有できる相手がいるだけで、同じ酒の味も変わってくるのだと、改めて思い知らされる。



「まあ……しゃーないか。トイレ、トイレ。行っトイレと……」



自嘲気味に呟きながら席を立つ。すでに何杯も重ねていたせいで、膀胱は限界に近く、身体が自然と御手洗へ向かうよう促していた。



 通路を進む途中、壁際に立ち止まり、スマートフォンを耳に当てている女性の姿が目に入る。


眼鏡の奥の表情は少し曇り、落ち着いた声色とは裏腹に、指先にはわずかな焦りが滲んでいるようだった。


豊かな胸元に思わず視線を奪われ、そのまま耳に飛び込んできた会話の断片から、彼女もまた約束を反故にされた側なのだと知る。

どうやら、来るはずだった知人が、子供の急な発熱で来られなくなったらしい。



(オレと同じ、か……)



妙な親近感が胸をよぎる。見知らぬ相手の事情でありながら、今夜の自分と重なってしまうのが、少しおかしかった。



「うん……残念だけど、子供が熱を出したなら仕方ないわよ。気にしないでいいから。私は独りで、静かに飲んでいくから……うん、また機会があったら誘うわね。じゃあ……」



 電話を切った女性は、小さく息を吐き、視線を落としたまま画面を閉じる。その拍子に、つい視線を向けていたサトルと目が合ってしまい、彼は反射的に身体を強張らせた。



(あ、やべ……)



だが次の瞬間、胸の奥で何かが引っかかる。

初対面のはずなのに、どこかで見たことがある。声の調子、眼鏡越しの眼差し、その立ち姿――記憶の奥を探るうち、忘れていたはずの名前が、ふと浮かび上がった。



「……小林先生?」



 半信半疑のまま口にした呼び名に、女性はわずかに目を見開き、驚いたようにサトルの顔を見つめ返す。



「え……? ……もしかして、サトルくん?」



 その一言で、過去と現在とが、静かに、確かに、重なり合った。


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