第3話
これまでの監視の結果、九州赤軍のアジトを拠点にしている勢力は、多くとも八名以下だと考えられた。人の出入りや買い出しの量、水道や電気の使用量などから当たりを付けている。想像よりも少ない人数だと俺は感じた。
九州赤軍のアジトは元は学生寮として使われていた木造二階建ての建築で、おそらく構成員の親名義で借り上げて利用していたようだ。場所は市街地に位置するがやや外れの方で、周りには民家もある。
機動隊との調整の結果、九州赤軍が強硬な態度を取らないよう、付近の空き地にて待機。数名の人員で夜陰に乗じ周囲の様子を窺った後、合図により突入するという手筈になった。
決行は――今晩である。
俺とムナカタはその調整を済ませ、日中の今は予定通り朝鮮同胞会の支部にきていた。市街の雑居ビルの一室が朝鮮同胞会の支部だ。俺たちは雑居ビルの周りの物陰に隠れ、安峰優子が現れるのを待っていた。安峰優子が支部内に入った後は、外事の人員が数名、周りを包囲警戒するように段取りしている。
容疑者確保前の緊張感が、現場の空気をひりつかせている。
そして俺たちが配置について、およそ三十分後に安峰優子は現れた。
安峰優子は少し警戒するような素振りを見せながら、雑居ビルの中へ消えていった。それを確認し、俺とムナカタはすぐに雑居ビルへ足を向ける。支部は雑居ビルの四階にあり、正面の入口とビル内の階段は一つだが、ビルの裏手に非常口があり、一階と四階の出入り口に人を置いている。
間もなく、俺たちは同胞会支部の部屋の前まで辿り着いた。
――俺は肩掛けのホルスターに装着した銃を、背広の上から確認した。安峰優子が同胞会の支部にまで武装を持ち込んでいるとは思えないが、最悪は想定しておくべきだろう。
中から物音は聞こえない。中はそう広くもない事務所のはずだ。
俺はムナカタに目で合図を送る。
そしてムナカタは、手応えのない呼び鈴をそのでかい親指でぐっと押し込んだ。
扉の奥から、薄らと聞こえる呼び鈴の音。
それから少しあって、扉が開いた。
「はい、どちらさま――」
出てきたのは、少し海外訛りのある日本語を話す、三十代くらいの長髪の優男だ。
俺たちは警察手帳を取り出し、男に見せる。
「福岡県警です。こちらに安峰優子さんがいらっしゃいますね? 捜査にご協力を」
「なっ――」
男は少し驚いた様子だったが、俺たちは男が何かを言う前に部屋に押し入る。これが大使館や領事館のように特権のある組織であれば大問題だろうが、朝鮮同胞会は権利能力なき社団であり、そういった特権は何もない。あくまで市民に協力をしてもらっているだけだ。
ただ、男は抵抗も妨害もせず、ただただ俺たちの行動を見ていた。俺たちは間仕切りで区切られた部屋の区画を手前から確認していく。どの区画にも人はおらず、事務机や資料棚があるばかりだ。
俺たちはそれを手分けして一つずつ一つずつ潰すように確認し、そして部屋の最も奥、最後の区画の――
壁際、窓が開いているのが見えた。
逆光に暗く人影が浮かび、一瞬その姿を明瞭に確認できない。
嫌な予感がして、俺は胸ポケットの令状ではなく、自然とホルスターに手をかけていた。
しかし、瞬間である。……俺がそこに足を踏み入れたその時、人陰が消えた。
窓から――落ちたのだ。
「安峰優子!」
俺は叫び、窓に駆け寄る。
すると窓の外、隣には背の低いビルがあり、その屋上から逃げ去っていく人陰が見え、息つく間もなく姿を消した。
――やられた!
俺は別の区画を見ていたムナカタに聞こえるように叫ぶ。
「ムナカタ! 安峰が窓から隣のビルに飛び降りて逃走!
「なんや! やおいかんばい!」
そう答えたムナカタはそのでかい図体を間仕切りにぶつけながら、ばたばたと雑居ビルを降りていく。
俺はわずかな時間、安峰優子の姿を確認できないか窓の外を見ていたが、無理だと判断しすぐに追いかけるべく振り返る。
しかし振り返ると、そこには先ほどの同胞会の優男がいた。
「日本の警察は乱暴だと聞いていましたが、その通りでしたね」
外国訛りの日本語で、男は少し微笑むようにしている。
「――先ほどここにいたのは、安峰優子で間違いありませんか?」
俺は男の腹の内を探るように質問するが、男は飄々と「ええ、そうです」と事もなげに言う。
「日本の暮らしが大変だと言うので、我々は日本の暮らしの助けができるよう、色々なことを教えていました」
「例えば?」
「国の手続きや、日本語の使い方など、生きるためのものですよ。ああ、あとは――美味しい朝鮮料理のお店も」
表情が崩れない。どうも、腹の内の見えない男だ。喋り方が演技掛かったように見えるのも、日本語の拙さによるものなのか、分からないでいる。
「申し遅れました、ワタシは朝鮮同胞会、福岡支部の
「安峰優子には、ある事件の犯人である嫌疑があります」
「ああ、なんてことでしょう、そんなことが」
李英哲は大げさにかぶりを振った。その顔に、薄らとした微笑みを湛えたまま。
「我々、在外朝鮮人同胞中央会は警察に協力は惜しみませんよ。彼女のことなら、知っている限り、どんなことでも」
――そして俺は勘づく。
今この瞬間、安峰優子は同胞会から切られたのだ。
それに李英哲のこの口ぶりであれば、よほど裏を見せない自信があるのだろう。
俺はこれ以上ここにいる意味はないだろうと、ムナカタを追うように同胞会の事務所を後にした。
すぐに公安の連絡係に確認すると、どうやら安峰優子はアジトのある方へ逃走しているようだった。俺は作戦を早め、機動隊と人員を早めにアジトへ集結させるように指示を出す。そしてムナカタとあらかじめ決めていた集合場所へ覆面パトカーで向かい、やつを拾ってからアジトへと急いだ。
「くそ、窓から逃げるとは思わんかったばい。始末書もんや」とムナカタは悔しそうにしていた。
「ビル同士やったとは言え、あげん高さを飛び降りるのは想定できんばい。非常口側からも死角やったのは痛かった」
「同胞会の男はなんか言いよったか?」
「――同胞会は恐らく、安峰優子を切った」
「見限ったとや」
「捜査に協力は惜しみません、ときたばい」
「なんやそりゃ。ああ、やおいかん、やおいかん、やおいかんばい」
間もなく俺たちがアジトの元学生寮に着くと、その入り口には一台の原付バイクが転がっていた。鍵穴には番線が差し込んであり、どうやらどこかのバイクを盗んで来たらしい。入り口の引き戸は開いており、安峰優子はもう中にいるようだった。
俺とムナカタはアジトから見えない位置に車を停め、静かに降りて、ホルスターの拳銃を抜く。
そしてそのまま、そっと入り口へと近づいていく。
入り口からは、何か言い争うような声が聞こえていた。俺たちはその内容を聴こうと入り口の壁にそっと身を寄せたが――ムナカタは急に慌てた様子で、手振りをしてアジトの二階を指さした。
そこには一人の――おそらく男性と思われる人間が、何かに縋るように手を伸ばして、窓から大きく身を乗り出していた。
すわ見つかるかと俺は身を屈めようとしたが、その、矢先……手を伸ばした男は、そのまま窓から飛び出し――転落した。
どさり、と鈍い音がした。
俺たちは声を上げることは無かったが、身をかがめながら、その転落した男に近づく。幸い、男が転落したのは植え込みで、少し身じろぎしているのが見えた。
「おい君、大丈夫や」
ムナカタが男を抱え、小さく声を掛ける。
男は痩せさらばえた姿で無精髭を生やし、ほとんど下着姿だった。露わになってる腕や足には痣や腫れが見られた。うう、ううとうめき声を上げ、時々ぼそぼそとよく分からないことを言っており、虚ろな様子だ。
「僕らは警察や。君は誰や、名前は言えるか?」
ムナカタの呼びかけに、男はぼそぼそとよく分からないながらも返事をしようとしており、俺たちはそれに注意深く耳を傾けた。
「刑事さん……刑事さん……ボクの名前は、村須五郎です」
――こいつは、ナカカドタケシだ。
そして俺たちは気付く。これはおそらく連合赤軍と似たようなことが起こっている。内部の統制が崩れ、ナカカドタケシはリンチにあい、監禁されていたのだ。
「刑事さん……刑事さん……腹が減りました。ボクは飯が食べたか……燕なら食えると思ったんです。燕が啼いていたから。窓の外で燕が啼いてたんです。ボクは……ボクは飯が食べたか……」
虚ろに、ただ虚ろに、ナカカドタケシは何でもない希望を口にする。しかしそのまま、気を失ってしまった。
俺たちはこの軽くなった男に手錠をかけ、車に運び、寝かせておくことにした。
そしてアジトに戻ろうとしたその時――「きゃぁっ!」と、乾いた悲鳴がこだました。
アジトの方からは、がん、がんと何かを叩き付けるような音が聞こえてくる。
中で何が起きているかは分からないが、ここで安峰優子が殺されでもしたら、情報を追えなくなる。
俺たちは銃を構え、急いでアジトへと踏み込むことにした。
音のしている部屋は恐らく一階だ。俺たちは警戒しながら、廊下を先へと進んでいく。
がん、がん、ばき、ばた。
やがて音の数は減っていき、肩で息をするような女の声が聞こえてくる。衣連れの音。いつの間にか沈みかけた太陽の夕焼けが窓から廊下に射し込んでいる。
じりじりと廊下を進み。
そしてやつは――安峰優子は、広い食堂の真ん中に佇んでいた。
俺たちは銃口を彼女に向けた。
安峰優子の足元には、人間が三人、血を流して倒れている。それから血の付いた……あれはライフル銃だろうか。古びたその鉄の塊も、なぜか足元に転がっていた。
そして彼女の手には、一丁の拳銃が握られている。
「――安峰優子やな」
俺たちは安峰優子から距離を取り、しかしなるべく目を離さないまま、周りの状況を確認する。この食堂には隠れられるところがない。突然発砲された場合、俺たちは廊下へ退避する必要がある。なるべく入り口側から離れないよう、俺たちは神経を尖らせる。
すると俺の呼びかけに応えるように、安峰優子は口を開いた。
「……チェ・スルギ」
「…………」
「ワタシの名前は、
安峰優子……チェ・スルギは俺たちを一瞥したが、すぐに視線を下に落とす。その目線はじっと、足元に転がるライフル銃に向けられていた。
俺たちはチェ・スルギの動きに警戒する。
「……チェ・スルギ、お前を拘束する」
俺はじりじりと、チェ・スルギに近づいていく。
しかしチェ・スルギは、もう俺たちの方を見ていなかった。何か虚脱したように肩を落とし、拳銃を構える様子もない。だが、油断はできない。
膠着状態は一瞬か、あるいは数分か、長く続いたように感じた。……するとチェ・スルギは突然、何か独白のように小さくつぶやき始めた。
「
朝鮮語だろう。
ムナカタは少し朝鮮語が分かるらしいが、俺には何を言っているのか分からない。
そのつぶやきには、まるで感情が乗っていなかった。
「
言い終わると、チェ・スルギは急に、何かを懐かしむように微笑みを湛えた顔を見せた。
そして俺たちの方に顔を向け、そのまま持っていた銃をゆっくりと持ち上げ、構え、引き鉄に指をかけ、
「
躊躇うこと無く――自らのこめかみを撃ち抜いた。
乾いた銃声が、俺たちの耳を貫く。
ムナカタが俺の後ろから咄嗟に手を伸ばしたのが分かったが、チェ・スルギに届くわけもなく――
彼女は床に落ちていたのライフル銃に被さるように、倒れ伏した。
しばらくの静寂、俺たちは銃を下ろし、少しの間だけ立ち尽くす。
建物の外ではいくつかの車の音、どうやら機動隊が到着したらしい。
食堂に差し込む夕日が、床に倒れたチェ・スルギたちを押さえつける。
――こうして九州赤軍は、内部崩壊とチェ・スルギの自決により、壊滅したのだった。
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