第14話 上田教授


 暮らしたい都市ランキングの関西版では上位常連の宝山市。その日雪子が取材に訪れたのは、宝山市にある大学で、自分が通っていた学校ではなかったものの、若者が集うキャンパスの空気自体をとても懐かしく思った。

 文学部の18号棟に、民族史を研究している上田和樹教授の研究室はあった。フロア全体に、香ばしい空気が漂っている。何の香りだろう。そう思いながら、雪子は研究室をノックした。どうぞ、という声が返ってきたのでドアを開けると、一気に焦げた草のような臭気が鼻をつく。

「すいませんね、今ちょうど、グアテマラを焙煎していたのです」

 そう言う男性の手元を見ると、百均で買ったような安っぽい取っ手付きのザルに豆を入れ、カセットコンロにかざしている。匂いの正体は、これだったのか。薄緑色の生豆から炒ったコーヒーの匂いを、雪子は初めてここまで強く嗅いだ。

「今日は、鏡池の伝承と、この地域に伝わるヒトカケ踊りについて教えていただけると言うことで、ありがとうございます。改めて、今回の記事を担当いたします、坂本です。よろしくお願いします」

 何年この仕事をしていても、取材の始まりは緊張する。たいていの場合、初対面の挨拶でその仕事の難易度を測ることは出来た。殆どのインタビュイーは常識的な人であるが、女性相手だと意地の悪い受け答えをする人物もいる。

 今回の取材相手である上田は、50代男性、大学教授。雪子にとって最も鬼門の多い属性の人物であった。

 おっさんは、嫌い。自分も40代の中年女性であるにもかかわらず、雪子はしばしばそう毒づいていた。

「わざわざ祭のために取材に来はるやなんて、えらい気合い入ってますなあ、Tタイムさんは」

 どうも、と雪子は苦笑いした。どっちだ、このオッサンは。当たりかハズレか。上田の内心を探るように、雪子はその表情や立ち居振る舞いを見つめていた。

 爆ぜたコーヒー豆の皮を掃除する手の甲には血管が浮き出ており、節くれ立った指は長く、魅力的だと雪子は思った。白髪交じりの髪は年の割に豊かで、ハリを感じさせる毛質だった。

「こちら、今回の見本紙面です。事前にもお伝えした内容と重複する説明になってしまうんですが、特別号で、地元のお祭り特集をします。ここ数年は、コロナでずっと中止されていたので、あらためて、鏡池の言い伝えや、池の神様を祀るための舞い『ヒトカケ』踊りについて、地域住民としてもおさらいしておきたい、という内容にしたいと思っています」

「おさらい、てなあ。坂本さんそんなん、興味あります?」

 上田は美しい手つきで頁をめくった。めんどくさそうな相手、と今後のやりとりを案じながらも、指だけは魅力的な男だな、と雪子は思った。


「池というのは、多くは灌漑用の水源として利用され、人工的に水田や畑の水を供給するために作られることが多いんです。あとは飲料水や生活用水の供給源とか、とにかく生活の基盤として作られている。この鏡池も、周辺の水田に水を送るために作られたのが始まりです。そこから、豊作を願い、池自体を祀るようになった、というのが一般的な伝承です」

「一般的な、ということは、つまりあの池には他にも伝承があるということですか?」

 上田は、まだ熱がこもる炒ったばかりの豆を、新聞紙の上に並べながらその問いには答えずこう言った。

「そもそも、流れの無い水には、悪い“気"が溜まることが多いのですよ。排水溝なんかわかりやすいのですが、生活の中で生まれる様々なゴミは、水分を含んだ途端に禍々しくなる。乾燥機のフィルターは素手で掴めるのにね。だから、怪異は沼地に住みがちなのです」


 雪子はそれを聞いて、幼い頃聞いた妖怪、肉吸いを思い出した。たしかにあれも、淀んだ水に棲んでいたはずだ。


「それで、坂本さんがお聞きしたいのは、鏡池の伝承、ですよね。まず『鏡池』という名前ですが、これは昔の人はあの池に何か不吉な、見てはいけないものが映ると信じていたようです。ところで、坂本さんは、見てはいけないもの、って、何だと思いますか」

「見てはいけないもの……すぐに思いついたのは、死者。あとは妖怪とかでしょうか」

「そうですねえ、それも怖いです。でも、気が狂うほど、見たくないもの。それは、『なりたくてもなれない理想の姿』なんじゃないかな、って、私思うのですよ」

 雪子は、上田のその発言を聞いて、息をのんだ。


「今私達は、メディア―主にSNSですよね―それを通じて、謂わば『なりたかった自分』という亡霊を見せられ続けているのです。自分が欲しかった物、配偶者、容姿、手に入れたかった能力、生活……それらを当たり前のように持つ人々の存在。そんなものを覗き込みながら生きるなんて、地獄だと思いませんか」

 雪子は、何かを見抜かれたような気がして、すぐには返答が出来なかった。

「……ええ、本当に。その通りだと思います」

「だからね、池の水なんかを覗くより、我々の手の中にあるこの画面、これのほうが、よっっぽどオバケっちゅうことですわ」上田はスマホを手にしながら、そう言った。

「見たくないものは、見なくて良いんです。知りたくないなら、目を閉じて、耳を塞げば良い。その殆どは、今のあなたに関係のない話。大切なことは、目の前に存在する、愛する者の存在だけやと思いますよ」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る