第10話 中学校受験

 魚介たっぷりのパエリアは美味しかった。久しぶりの集まりだったので、お喋りは止まらなかった。お互いの近況を報告し合う。最後に会ったのは1年ほど前、緊急事態宣言が解かれた夏頃か。コロナ前は頻繁に色んなお店へ出かけたものだが、自粛ムードの中ではその機会もぐんと減った。

「それにしても美佳っちとゆっちゃんは本当に仲良しよな。北小学校の中で一番仲が良いママ同士なんじゃない?」彰子がワインをがぶがぶと飲みながら二人に言った。

 雪子と美佳は北校区、彰子は南校区の公立小学校にそれぞれ小学校5年生の子供を通わせていた。そして確かに雪子と美佳はとても仲が良い。

 雪子は3つ年上の美佳がとても好きだったし、自慢の友人であり憧れだった。彼女の美しさは自然体で、頭もいいし、大企業に勤める旦那さんもカッコよかった。気付けば話題の中心にいるような、ユーモアがあって華もあり優しくて、つまりみんなの人気者なのであった。

 雪子は何の卑屈な感情もなく、心の底から彰子の発言についてこう返答した。

「いや、違うよ、一番仲いいとかじゃない。ほらこの人誰とでも仲良くできる人だから」やや薄味のミネストローネをスプーンですくいながら雪子がそう言うと美佳は笑いながら

「こらこら、『誰とでもホイホイ付き合う女』みたいな言い方せんといてよ、尻軽みたいに」そう茶化したあと「雪ちゃんとは共通の知人も多いし、いろいろ私の愚痴を聞いてもらってるねんよ」とフォローしてくれた。

 雪子は心の中で「私は、一番仲良しだと思ってるけどな……」と、加えたけれど、それは言わなかった。

 彼女の中の大勢いる友達の1人、それで十分だ。それに、いつも話を聞いてもらっているのは雪子の方であった。美佳は誰が見ても頼りがいのあるお姉さんだった。

 こんなに魅力的な人を私だけが独り占めしたいだなんて、そんなことを思うのはおこがましいと雪子は思っていた。

「雪ちゃんは、颯太君が小学校入ってからずっとTタイムの記者さんやってるんやもんね、すごいよね、かっこええわ。うちは上の子の公立高校受験もあるし、なかなか働くタイミングなくて」

「えー、美佳っちならどこでも働けそう。何でもやれるやろ、あなたやったら。私の方こそ働くのなんか無理よ。もう、ずっと莉音の受験のことで精一杯」彰子も頷いた。

 

 雪子は、小さな新聞社で地方紙のライターをしていた。二週間に一度、一般の新聞紙に折り込みされるタブロイド版情報誌「Tタイム」、その記事制作全般が、雪子の業務内容であった。

 市内の観光名所や飲食店、医療、介護施設まで、取材先は多岐に渡る。結婚前も地元で記者をしていた雪子にとって、出産・子育てブランク後には願ってもない再就職先であった。


「それにしても雪ちゃんは、ほんとお肌もつるつる。ていうか、毛穴どこにあるん?相変わらず美人よ、ウエストなんかきゅっとしてスタイル抜群やし。やっぱり外で働いてると、自分磨きになるねんな。私なんか、また太ってしもたわ」彰子が丸い頬に手を当ててため息をついた。

 それに対して雪子が何か言おうとした時、彰子が急に思い出したように美佳にこう尋ねた。「あ、そうや、ところで、この前の真淵塾の話はどうなった?」

「うん、体験授業には行ってみた。最終的に辺見学園に入会することにしたわ。彰ちゃん、色々教えてくれてありがとね」話がのみこめないでいる雪子に、美佳は少し申し訳なさそうに「うちも、中学受験することにしてん」と言った。


「ああ、そうやってんな、亮君賢いもんなあ」

 雪子は努めて明るくそう言いながら、少し口の中が乾いて、高そうなグラスに注がれたワインを一気に飲んだ。

「うちも、初めは乗り気じゃなかったのよ。ほんまマイペース。でも我が道を行くタイプの子は、私立中学が向いてると思うわ。個性的な子ってさ、公立中学向きじゃないんよ。だから私学しか考えられなくて。莉音は験進館やけど。一能研はちょっと教育方針のカラーが違うかな」

彰子の娘の莉音ちゃんは、3歳のまだオムツもとれていないような頃から国立小学校受験のために隣町の塾に通っていた。そして小学校のお受験は、残念ながら不合格だった。その時から彰子のことを知っている雪子は、彼女と莉音ちゃんに対しては、心の底からの尊敬の念しかないのであった。

 小学校受験は本当に過酷だ。特に莉音ちゃんのような3月末生まれの子供は、ライバルたちと約一年の成長の差がある。大きくなればなるほど、同学年内の早生まれの差は縮まるが、小学校受験地点での6歳児では、そのハンデはかなり厳しかった。そして、小学校受験は、親の、とりわけ「母親」の背負う覚悟や負担がかなり大きい。誰もが経験するであろう、受験という人生のステップの中でも、あそこまで子供と一体で喜怒哀楽を共にするものは小学校受験以外にないと雪子は傍目から見ていて思った。そのぐらい、莉音ちゃんが不合格だった時の彰子の落ち込みは、相当なものだった。そんな莉音ちゃんもまた、当然のことながら、中学受験をする。

「見て、これ偏差値の表やで。うちの子なんか、まだここらへん」そう言って彰子は、様々の学校名が縦軸の偏差値の純に散りばめられた図の「50」と書かれたあたりを指さして、肩をすくめてみせた。

「幼稚園の頃から模試を受けて、塾に行って、これよ」彰子は大きなため息とともにそう言った。

「それでも、50って、すごいよ」雪子は無理にフォローしたいわけではなく心からそう言った。

「だってさ、中学受験をする子どもたちだけの中での偏差値50、なんやで、もともとの母数のレベル高すぎるやん」

「その通りやね。中学受験は、小学校でやってる勉強が試験にでるというものではなく、全く別の受験勉強を小学校の課題と並行して出来ないといけないから」美佳が続けた。「でもさあ、美佳ちのとこの亮君は成績良いやろ、ほんま何でもできるやん。心配ないよ」彰子が美佳に話を振った。

「そんなことないで、うちの亮はドアホよ、お猿さんよ。ほんま、典型的な男子って感じ」

「いやいや、昔から、亮君は賢かったもんなあ」雪子と彰子は口々に美佳と亮君を褒めた。

「そんなことないんよお。……まあ、でも、計算は得意かな。あとは、主人が毎日課題を与えて、例えば諺を使った文章を書かせたりとか、まあ受験には関係ないけど一般教養として古典を毎日読ませたりは、してるかなあ……」これには、二人とも感嘆の声を上げたのだった。学校の宿題と受験勉強以外に、旦那さんの手作り問題集まで!


 仲が良い、と言われていたはずの雪子は、そんなことはまるで知らなかった。

 そして、雪子は、昨日の颯太の様子を思い浮かべていた。

 学校の算数の宿題の計算問題がわからずに泣く我が子の姿を。5年生になってから特に算数の問題につまずき、泣きながら夜遅くまで計算ドリルを解くことが増えた。うちの子は、学校の宿題さえ、ままならないのに。そう思って雪子は情けなくなった。

さらに雪子をここ最近毎朝苦しめるのは、颯太の「行き渋り」である。朝になるとおなかが痛いだとか、あれが嫌だこんなことが辛いだとか、その大半が行き当たりばったりの理由なのだけど、とにかく学校へ行きたくないと泣き叫ぶことが増えた。先日などは、行きたくないと喚く颯太と夫が取っ組み合いのけんかになり、買ったばかりの洋服がびりびりに破れてしまった。とりあえず服を着せなおし、夫に引きずられるように家を出る息子を見送った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る