第2話

「お兄さん、お隣いいですか?」


 忍び寄り、返事をもらう前に少し離れて着座する。

 街灯はあるが、それでも夜の薄暗さは払いきれない。


 でも、俺は一瞬で相手がわかった。タケにぃだ。

 少しやつれたようではあるが、7年たった今でも目の前のその人はタケにぃそのものだった。


 それにしても、こんなところで会うなんて、しかもいつもより気合を入れて可愛くした時に出会えるなんて僥倖だ。

 タケにぃだって順調なら、大学を卒業し今は社会人。もし、地元就職しているなら今後も町内で会う機会なんていくらでも作れるだろう。

 そのためには、まず今日をいいコミュニケーションで締めたいところ。


「ひ、ひっ…ご、ごめ、……ごめんなさい…」


 そりゃあ、突然隣に人が座ってきたら驚くよね。

 と心の内にクスリと小さな笑いをこぼす。


 この時点でドッキリ大成功でもいいくらいだ。



 ただ、

 暗さに慣れてきて、暗闇にぼやけていた顔がはっきりと見え始める。

 その顔は、必要以上に怯えているよう。


 ちょっとしたイタズラを仕掛けて、気持ちばかり気まずくさせて、ネタばらしのあとは過去を懐かしむ。そして、連絡先でも交換して解散。そんな和やかな会話を想像していたのに。


 なんでだろう。

 急に声を掛けれたから?違う。

 女の人に声を掛けられたから?違う。


 違う、これはに声を掛けられたから?



 自分を着飾ることがうまくなるにつれて、

 人からの目線にも機敏になってきた。


 どんな格好が、自分にあっているか。

 どんな仕草が、相手の心に刺さるのか。

 どんな立ち振る舞いが、自然と目線を誘導できるのか。

 どんな発言が、記憶に残るのか。


 周りの反応を見て、それを自分の出来栄えとして評価していたものが、

 いつしか相手の内を観察するスキルとなっていった。


 その眼で見るに、今のタケにぃは他人に恐怖を感じている。そう俺の直感は告げていた。


 これ以上傷つけたくない、だから離れなきゃ。と言う気持ちと、

 なんとか癒してあげたい、だから抱きしめたい。と言う気持ちがせめぎ合っている。


 俺の心も、ぐちゃぐちゃになっていく。


 俺が少しの逡巡の間に、目が合う。お互いを認識する。

 徐々にタケにぃの顔に安堵が広がっていく。


 俺の顔を見て、それで安心する表情に愛おしさを感じる。

 彼の心にまだ自分が生きていたんだ、とこちらが安心する。


「あっ…。け、慶ちゃん?」


 ポロとこぼれた言葉は、この閑静な公園でも湖畔に小石を投げ込んだような音量。すぐに暗闇に溶けていく程度だった。だが、俺に対してのそれは小さな波紋に収まらず、津波となって俺の防波堤を突破した。


 さきほどまでの心配を、歓喜と愛が塗りつぶした。


「…ふふ、ふふふっ。タケにぃ、僕のこと覚えていてくれたんだぁ♡うーれしぃなっ♪」

「あ、あはは…、7年ぶり…くらい、かな?……。すごく、おしゃれになったね。あの頃はメイさんに遊ばれていたけど、今は自分のおしゃれって感じがする。うん、とってもかわいいよ」

「て、照れるなぁ。ありがと。あのね!今ね、僕モデルのバイトもやっているんだ!いっぱい綺麗になって、いっぱいおしゃれして、いっぱい可愛いってタケにぃに言ってもらえるように努力したんだ!」


 理性をほんのちょっぴりと超えた心が、口から溢れてしまう。憧れていた、焦がれていた、待ち遠しかったあの人からの言葉がついつい嬉しくて。


 なんと子供みたいなことかと自分でも思うよ。もうちょっとタケにぃの現在ことを聞きたい気持ちもあるが、自分を認めてもらいたい欲求も大きい。姉ちゃんの彼氏として家に来ていたあの頃に、僕は帰ってきた。


 少し距離を開けて座ったはずの空間すきまは、いつしか接するものへと変わっていた。


 見上げた視界に入るタケにぃの表情は、まるで桜の花見をした時と同じ感動。僕に降り注ぐ優しさがそこにあった。より感情が高ぶるのを感じる。思わずタケにぃの胸に顔をうずくめる。顔を見なくて済むようにしたその行為は、脳にまで響くタケにぃのにおいを余計に感じてしまうと言う自滅技だった。


 幸せでくらくらとする頭で考えていたことは、小学生の時から続くこの恋慕に近い彼に対する好意だった。父のような安心感か、兄を欲する憧れか、はたまた姉をとられる嫉妬心か。


 僕の感情の奔流が落ち着いたのを見計らってだろう。

 タケにぃはしな垂れる僕をゆっくりと起こした。


「タケにぃ、ごめん。嬉しくてちょっと暴走しちゃった」

「大丈夫だよ。それだけ再会を喜んでくれたってことだもんね。うん、そう思ってくれて俺も嬉しいよ。そうだ、メイさんは元気かい?」


 ――もっと、僕を見て。


「…うん、元気だよ。でもね、タケにぃ?今は余韻にもうちょっと浸らせてよ。お姉ちゃんの話じゃなくて、もっと僕のこと聞いて?もっと僕のこと知って?もっとタケにぃのことも教えて?この7年間を埋めようよ。寂しかったんだよ?会えなくて。お引越しとか喧嘩別れとかのきっかけも無しに、急に来なくなったのはタケにぃだよ?あの時さ、心にぽっかり穴が空くって言葉の意味が理解できたよ。あぁ、こんな気持ちのこと言うんだってさ。だけどね、タケにぃに貰った「かわいい」の一言で今まで頑張ってきたんだ。さっきも言ってくれたよね、えへへ、ありがと。でもね、でもね。足りないの。全然、空いた穴が塞がらないの。だからね、教えてタケにぃ。タケにぃは今何やってるの?タケにぃは今まで何やってたの?タケにぃはこれから僕とどれだけ会えるの?タケにぃ…、僕を置いていかないで?タケにぃ?」


 痛い、痛い。

 苦しい、苦しい。


 この動悸、焦燥感。

 水中にいるかのように、重い。


 ずっと褒めてくれた彼が突然居なくなった。捨てられたように感じた。しばらくはひたすら暗闇を歩いているような空虚な時間だった。童心に帰った興奮は、どうやら喜びだけでなく捨てられる恐怖まで引き連れてきたらしい。


 はは、再会の喜びで舞い上がった反動に、あの感覚を思い出すなんて…。

 ずいぶんと情緒が不安定だよな。勝手に、捨てられると思い込むような奴。こんな奴を相手するの、疲れるし気持ち悪いよな。女装して、嫉妬して、病んでるみたいな振る舞い。


「……っ、慶ちゃん」

「え?」


 そっとタケにぃが手を握ってくれた。


「……大丈夫だよ、今度は急にいなくなったりしないよ。慶ちゃんに悩み事があったら相談に乗るし、楽しいことがあったら共有しよう?うん、もっと知りたいな。最近の慶ちゃんのこと」

「…ううん。こっちこそ、ごめんね。考えてみたら、ただの知り合いみたいなもんだもんね。全然、特別な関係なんかじゃないのに重いよね」

「そんなことないよ!慶ちゃんは、俺にとってものようなものだと思っているよ!……って、さすがに気持ち悪いかな」


 今、妹…って言った?


「タケにぃ、僕のこと妹だと思ってくれてるの?」

「へ?あぁ。あの家に遊びに行って、俺のことお兄ちゃんみたいに懐いてくれてたと感じてたからさ。俺も妹ができたと思って、嬉しかったんだ。だからかな、あんまり緊張しないでお話できているのも…」


「ふふっ、タケにぃと兄妹。僕も嬉しいな」


 確かに僕の知っている限りだと、特に性別に言及していなかった、気がする。妹と勘違いしたまま釈明も無く、姉ちゃんとの交際は終わった。つまり、彼の中で僕は女の子として生きている。


 ドクンっ。と心臓が強く鼓動したのをしっかりと感じた。


 これは使える。

 これから築くタケにぃとの関係性。

 騙しているようで気が引けるが、現状はどちらかの性別で接するかの選択権が自分にある。幸い、タケにぃの僕に対する好感度も低くない。


 はじめに見せた対人恐怖症のような反応。その解決に向けて、よりタケにぃに寄り添える選択をしていきたいな。

 まずは、そのストレッサーが何か。聞き出さないとね。


「ねぇ、タケにぃ」

「ん?」


 多分、他者に怯えている自分の方がつらいだろうに、僕に寄り添うその優しさ。

 僕を傷つけまいとして、自分の妹のようとまで言ってくれたその優しさ。

 今から、その優しさにつけ込むようなことを僕はする。


「妹分として、お願いがあるんだけどさ」

「お、俺にできることなら…」


「簡単だよ。僕ももう高校生だし、スマホも手に入れたんだぁ。連絡先交換しようよ」

「な、なんだ。そんなことか…」

「そんなことって言わないでよ。僕にとっては芸能人のサインをもらえるくらいの出来事なんだよ?」


 僕だと認識してからは警戒心も無くなったが、それでも薄っすらと壁は感じる。

 ただ、冗談を言い合えるくらいにはアイスブレイクもできたんじゃないかな?


「それとね、さっきは僕の話も聞いてほしいってわがまま言ってたけど…」


 今まで僕がつぎ込んできた可愛さのすべてで、好意的に見られている今の立場を十分に利用して、タケにぃの事情を聞きだしてやる。

 余計なお世話と思うかもしれない。いや、タケにぃのことだ。むしろ、僕に心労をかけたくないと変に気を負うかもしれない。


 でも、僕はタケにぃのことをできるだけ知りたい。困っているなら助けたい。独りよがりだとしても、恋愛対象の…外にいても。


「タケにぃの話も聞きたいなぁ♡」


 計算された仕草に、僕の愛を乗せて、全力のおねだりを。



 …。



「ただいま」

「おかえりー。お風呂湧いてるよー」

「ありがとう、姉さん」


 福見慶、帰宅。

 今日は愛する姉さんの方が帰宅が早かったようだ。


 カナさんの計らいで、関連会社への就職を果たした姉さん。姉さんは(身内びいきもあると思うが)容姿も良いし、器量も良い方だろう。カナさんやリュートさんからの情報では、新卒で入社してから期待の新人として奮闘しているようだ。


 そんな姉さんも今日は定時であがれたのか、家事に余裕があるようだった。夕飯の準備もできている。


「今日はいつもより遅かった。…何かあったの?」

「あぁ、リュートさんにコーヒーごちそうになったよ。めっちゃ姉さんに会いたがってたね」

「じゃあ、後でお礼言っておかないとね。他には?何か困りごととか悩み事ない?」

「あー、特にないかな?いつも通りだよ。…んじゃ、お風呂入ってくる」


 姉さん、少し嬉しそう。ほっとしている感じもある。

 まぁ、言い寄られているとは言え、リュートさんはイケメンだしね。それに、タケにぃ以降の歴代彼氏に比べたらリュートさんはだからね。でも、リュートさんはタケにぃには及ばないと思うけどなぁ。俺の中では断然、タケにぃ。


 あっ、そうだそうだ。

 せっかく連絡先交換したんだし、タケにぃにメッセージ送るか。


『今日は感動の再会だったね♪これからも末永くヨロシク★』


 返信が楽しみだなぁ。

 さて、制服をハンガーにかけて衣類用の消臭剤を振りまける。

 そして、パジャマや化粧落としの準備をして…と。


「ふぅ…」


 ちょいとひといき。

 今日は装いも、仕事もいつもより気合を入れていた。たまたま、気合を入れているタイミングでタケにぃと会った。そこで、彼の悩みを聞くことができた。これこそ、神の啓示というやつだろう。俺はこの時のために日々頑張ってきたのだ。


 準備を終え、風呂場に向かう前にスマホを確認する。

 返信は無い。


 ちゃんと家に帰ったのかな?まだ、あの公園で泣いていたりするのかな?

 ちょっと、心配だな。


『タケにぃはちゃんとお家帰れたかにゃ?』


 ふむ。

 彼女でもない奴からの帰宅確認のチャットはウザいかもしれないから、ちょっと茶化す感じでいいだろう。


 2階から階段で降り、脱衣所に向かう途中リビングを通る。姉さんもいることだし、もう一度お風呂宣言をする。


「今日はゆっくり目に入るよー」

「はいよー」


 着替えに化粧落としセットを定位置に置く。


 普段バイトへ向かう場合は制服から私服に着替えている。それに加えて撮影で使った衣装が気に入れば買い取ることもある。だからか、バイトの帰り道は結構かさ張ることが多い。

 なんなら、今日は俺のこと結構持ち上げてくれるブランド会社で割と格安にしてくれる。ちょっと買いすぎたかも。それらをまとめて洗濯機へ。


 浴室へ入る前にスマホを見る。

 まだ、返信は無い。


 お家着いた?スマホが見られない状況?事件に巻き込まれた?既読もつかない、


『大丈夫?』


 、一言だけだとわからないかも


『事件に巻き込まれてたりしないよね?』


 、ちゃんと気持ちを伝えた方がいいかも


『僕、タケにぃのこと心配で』


 、もしかしてスマホをマナーモードにしてるのかも


『スマホ通知切ってるだけだよね?』


 、お風呂入ってるのかな。ふふっ、僕もこれから入るんだよ


『お風呂入ってるのかな?おそろいだね♪』


 、お風呂入ってる証拠が必要かな。あまり、自撮りはしないけど


 <画像を送信しました>


『はい、お風呂入ってる証拠だよ♪』


 、う、やっぱり恥ずかしいな…


 <画像を削除しました>


『やっぱり恥ずかしいから消すね…』


 、うーん、まだ返信ないなぁ。間違えて送ってない…よね


『これ、タケにぃのチャットであってるよね?』


 、いや、この目でスマホを突き合わせて交換したのは覚えてる。間違えようがない。まさか


『ブロックしてないよね』


『ねぇ、反応してよ』


『捨てないでよ』


『無視しないでよ』


『タケにぃ』


「タケにぃ…」


「ごめん、ちょっと入るねぇー。洗剤切れてたでしょ…って、うぉ!あんた裸で何突っ立ってんの!?」

「…っ、姉さん。今、ちょうど。そう、ちょうど今、脱ぎ終わったところなの!」

「そう?ボーっとしてたように見えたけどねぇ。メイクも落とすんでしょ?さぁ、さっさと入った入った」

「わかった。わかったから押さないでよ」


 せっかく、あとちょっとで返信が来るところだったのに。

 せかされては仕方ない。楽しみは風呂上りにとっておこう。


 …。


「それじゃ、手を合わせて、と。はい、いただきます」

「……いただきます」


 今日は姉さんと2人で夕飯。

 サラダや魚のソテー、スープまで。

 仕事上がりでお疲れだと言うのに、しっかりと手作り料理なことに感謝だ。


 それはそれ。現状、すごく不満です。

 お風呂上りに楽しみにしていたタケにぃからの返信は、お預け状態にあった。

 どうやら、洗剤の補充で乱入してきた姉さんが、イイ感じの位置に置かれていたスマホに気付いてしまった。真っ裸で突っ立っていた原因を察したのか、夕飯食べ終わるまでスマホ没収と言う罰を受けているのである。


「まったく。慶ちゃんも、最近の若者らしくスマホに夢中ってぇ?家族の団らんが終わるまでは返さないからね!」


 美味しい夕飯に舌鼓をし、お皿の片付けまで終えた時にそんなに大きくない胸を張って威張ってくる。

 いつの間にか用意されていた紅茶は、テーブルに2つ。

 ……何か話したいことがあるのだろう。大人しく、いつもの位置に着座する。


「食べ終わるまでって言ったじゃん…。はぁ、今日はたまたまだよ、たまたま。今日少し遅くなったことと関係してるからあまりツッコまないでくれると嬉しいかな」

「うぅ…、慶ちゃんが秘密主義になっちゃったよぉ。お姉ちゃんさみしいなぁ」

「そう言わないでよ…。あぁ、でも姉さんにとっても朗報かもよ?」


 茶化すような明るい笑顔をしているかと思えば、こちらの心の内をあばくような眼光を向けてきた。


 姉さんは優しい。

 俺の家族は日常において多少言い合いがあっても、次の日には遺恨なく過ごせているくらいには普通に仲がいいと思う。

 特に姉さんは、温厚で前向きなキャラクター。学生時代の服装も相まって、軽いキャラと思われていただろう。

 明るい太陽みたいな一面が表なら、他人が傷つくくらいならと自己犠牲のヒーローのようなことを平気でするのが裏面か。

 姉さんが作ってきたそのキャラクターは、決して無理して演じているものではなく性格の、心の根っこからそういう者なのだから、より危うさがある。


 そんなヒーローのような姉さんの沸点を俺は知っている。

 生まれた時から弟をやってるから、身に染みてわかっている。


「それって、慶ちゃんが何か企んでたのと関係があること?」


 今、姉さんは上手に隠しているつもりだろうが、その不機嫌を俺は感じ取っている。姉さんは女優には成れないかもね。表情や態度がうまくコントロールできてないよ。……タケにぃの前で暴走した俺が言えることじゃないけど。


「企んでいるって何さ。何か悪いこと考えてるみたいな言い回しはやめてよ」


 スマホ没収の件もあり、少し煽るような態度で返答してしまう。

 あぁ、今日は珍しく喧嘩かもなぁ。

 頭の片隅ではそんなことをのんきに考えている。


 と言うより、でも姉さんの不機嫌センサーが反応するなんてね。俺もビックリしちゃった。

 今日帰宅した時に姉さんがほっとしてたのは、何でもないと俺が返答したことで不機嫌センサーが誤認かもと思ったから?

 でも、お風呂上りに不機嫌センサー再度反応した、と。だから、スマホを没収して俺を感情的にさせた、とかかな。


 はぁ、姉さんにはしてやられた。

 そう、姉さんの沸点、それは


「良くないことだよ。自分を抑え込むのは」


 同族嫌悪。他者の自己犠牲ヒロイズムが自身の英雄精神エゴイズムに反するのだろう。と俺は思っている。


 いいだろう。

 三度の飯よりは姉さんの笑顔が好きだが、呼吸よりも好きなタケにぃに関することだ。

 これは俺も引けない。


「ふぅ。俺も姉さんに聞きたいことがあるんだ。でも、聞きたいことの前に確認しておきたいことがある」

「確認?」


 俺も姉さんの目を見据える。


「姉さんは…、タケにぃのこと、今でも好き?」


 予想外の角度からの投球だったせいか、剣呑な雰囲気も霧散する。

 お互いにカップに口を付けて一息。


 姉さんは真面目な顔のままであったが、カップの淵をなぞり、髪先をいじり、左指のネイルを見ながら、思い出に浸っていた。


 少し優しい顔になっていた姉さんは、よどみなく返答する。


「好き、ではあるかな。でも、前にも言った通りに綺麗な思い出なんだ。好き、だった。高校1年生のくせして、もう結婚なんて考えてたかも。心残りがあるなら、お互いに嫌いになったでもなくやむを得ない理由でもなく、なんとなく会わなくなっていって、気が付いたらお互いに別の恋人ができて。それが、なんか寂しかったかな、なんて」


 照れながらはにかむ姉さんの顔は、乙女のそれであった。


 俺がタケにぃとの楽しい記憶に浸る時には、もれなく捨てられるイメージもセットだ。違うことがらの思い出でも、あの焦燥感はやってくる。おかずは変わるのに基本セットは変わらないあたり、日替わり定食だ。

 だから、美しい水面だけを見続けている姉さんを羨ましく思うし、妬ましくもある。


 俺のちょっとした嫉妬を感じ取ったのか、また真面目な顔に戻ってしまった。

 俺も感情が漏れちゃうなんて、俳優向いてないかもね。


「ねぇ、これが確認したいことなの?」

「いや、今聞いたのは前提だね。俺ら2人ともタケにぃのことを好きだよね、って前提。で、これからが本題に入る前の確認なんだけどさ。姉さんのその綺麗な思い出ってやつが、濁っちゃうかもしれないんだ」

「綺麗な思い出が、濁る?」


「そう、俺のやりたいことを話すのは良い。だけど、それは姉さんの綺麗な思い出が、綺麗なだけじゃなくなるんだ。人一倍正義感の強い姉さんなら、綺麗な部分だけ都合よく切り取るなんて、多分できない」


 姉さんは学生時代の淡い恋愛を思い出す度に、自身の無力感に苛まれるかもしれない。俺は姉さんに、キラキラした世界をモノクロに染めてほしくない。


 俺はタケにぃが好きだ。それは、気が狂うほどかもしれない。

 ただ、同じくらい身内が傷つくところを見たくないと思う。それくらいの正義感は俺にだってある。


 だから、


「だから、今回俺がやりたいことを聞かないでくれると、嬉しいかな。俺は姉さんが好きだから」


 今回は不機嫌センサーを収めてくれ。

 姉さんの思い出を汚したくないんだ。


「慶、それでも聞かせて」


 あぁ、また姉が傷ついてしまうこれだからヒーローってやつは

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