第3話 聞いてしまった夜



「桐生先生が脅したの?」


相楽茜の目は驚きで見開かれていた。美月は前夜の出来事を全て話し終えたところだった。二人は病院から離れた喫茶店で向かい合って座っていた。窓の外では雨が静かに降り、ガラスを打つ雨音が二人の緊張を和らげていた。


「ええ」美月は小声で答えた。「『あなたも消されるぞ』って言ったの」


「信じられないわ...」茜は頭を抱えた。「桐生先生が協力者だと思ってたのに」


美月はコーヒーをかき混ぜながら考えていた。桐生の言葉が脅しだったのか、それとも警告だったのか判断がつかない。彼は本当に水無瀬透子と佐々木の件に関わっているのだろうか?


「でも、私が図書館で見つけた記事は何かの手がかりになりそう」美月はスマートフォンを取り出し、撮影した新聞記事を茜に見せた。「7年前に306号室で起きた不審死の記事よ」


茜は記事を食い入るように読んだ。「夜間に容態が急変...家族は当直看護師の対応遅れを指摘...」


「患者の名前は書かれていないけど、水無瀬透子さんだった可能性が高いわ」美月は言った。「そして、この事件が何らかの形で病院に封印されたのではないかしら」


茜は記事から目を離し、窓の外を見た。「でも、なぜ今になって?佐々木さんがなぜ突然消えたの?そして、なぜあの部屋からナースコールが...」


その言葉は途中で途切れた。二人とも同じことを考えていた。何か重大な秘密が隠されている。そして、その秘密は彼女たちの命にも関わるかもしれない。


「次の夜勤まであと5時間よ」美月は時計を見ながら言った。「今夜は何としても病院の資料室を調べたい」


「危険よ」茜は心配そうに言った。「桐生先生や病院長に見つかったら...」


「でも、このまま何もしなければ私も消される可能性があるのよ」美月の声には決意が込められていた。「それに、本当に水無瀬さんが亡くなった理由が看護師の対応遅れだとしたら...」


茜は深いため息をついた。「そうね...私たちナースとして、真実を知る責任があるわ」


二人は作戦を立てた。今夜の夜勤中、病院がもっとも静かになる深夜3時頃を狙って資料室へ向かう。茜はスタッフの注意を引きつける役割を担い、美月が資料を探すことになった。


「見つかったら、私が責任を取るわ」美月は言った。


「そんなこと言わないで」茜は美月の手を握った。「一緒に解決しましょう」


その言葉に少し勇気づけられ、美月は微かに笑顔を見せた。しかし、その笑顔の裏には深い不安が隠されていた。


---


夜勤が始まった。美月はいつも通り制服に着替え、業務を開始した。表面上は普段と変わらない様子を装いながらも、内心は緊張で胸が締め付けられる思いだった。


桐生も当直医として病棟にいた。彼は普段と変わらぬ穏やかな笑顔で看護師たちに接していたが、美月と目が合うと、一瞬だけ表情が硬くなった。その一瞬の変化に、美月は背筋に冷たいものを感じた。


「小鳥遊さん、301号室の点滴を交換しておいてもらえる?」


桐生が普通の調子で声をかけてきた。まるで昨夜の出来事など何もなかったかのように。


「はい、わかりました」


美月は淡々と応じた。表情を読まれないよう、極力視線を合わせないようにしながら。


夜が更けるにつれ、病棟は徐々に静かになっていった。患者たちは眠りにつき、夜間の定期巡回以外は特に大きな動きもない。午前2時半、予定よりも早めに茜が美月に合図を送った。


「今よ」


茜の囁きに、美月は小さくうなずいた。桐生は当直室で休憩中だ。今がチャンスだった。


二人は別々の方向へ向かった。茜は万が一のための見張り役として廊下の監視を担当し、美月は病院の裏側にある資料室へと足を進めた。


資料室の鍵を開け、中に入る。前回より慎重に、美月は「水無瀬透子」に関する資料を探し始めた。一般の患者カルテが保管されている棚を丹念に調べるが、見つからない。次に、死亡患者の記録を探した。


「M...M...水無瀬...」


指で棚をなぞりながら探す美月。ようやく「水無瀬透子」のラベルを見つけた時、安堵のため息が漏れた。


急いでファイルを取り出し、中身を確認する。水無瀬透子、32歳。7年前に入院、同年に死亡。死因は「急性呼吸不全」となっていた。


ページをめくると、事故報告書のようなものが挟まれていた。そこには当時の状況が簡潔に記されていた。


「午前3時15分、患者からナースコール。当直看護師の対応が25分遅れ、到着時には既に心肺停止状態...」


美月の目が報告書の最後の部分に留まった。


「当直看護師:桐生礼二(当時研修医)」


「桐生先生...?」


美月は混乱した。桐生は医師のはずだ。なぜ看護師として記録されているのか?そして何より、彼が関わっていたという事実に震撼した。


突然、廊下から足音が聞こえた。美月は急いでファイルをバッグに入れ、隠れる場所を探した。しかし、狭い資料室には隠れる場所がない。


足音はドアの前で止まった。美月は息を止め、動かなかった。


*カチャ*


ドアノブが回される音。しかし、鍵をかけていたため開かない。


「誰かいるのか?」


男性の声。美月には桐生の声に聞こえた。彼女は返事をしなかった。


「小鳥遊さん、中にいるなら出てきなさい」


声は低く、威圧的だった。前夜の冷たい声と同じだ。美月は静かに窓に近づいた。二階だが、外には非常階段がある。逃げられるかもしれない。


「わかってるんだぞ、君が何を探しているか」


桐生の声はさらに強まった。ドアを叩く音。


「出てこないと、困ることになるよ」


美月は窓を少しずつ開けた。外は雨が強まっており、非常階段は滑りやすい状態だったが、他に選択肢はなかった。


「最後の警告だ」


その瞬間、ドアが勢いよく開いた。別の鍵を使ったのだろう。美月は慌てて窓を完全に開け、外に出ようとした。


「待て!」


桐生の声が背後で響いたが、美月は振り返らなかった。彼女は非常階段に飛び出し、急いで階段を駆け下りた。雨に濡れた金属の階段は滑りやすく、何度か転びそうになったが、何とか一階まで辿り着いた。


病院の裏庭に出た美月は、雨の中を走り続けた。病院から離れなければ。バッグには水無瀬透子のファイルが入っていた。これが真実への手がかりになるはずだ。


美月は病院から数ブロック離れた場所で立ち止まり、雨宿りのために閉まっている店の軒先に身を寄せた。息を整えながら、彼女は携帯電話を取り出し、茜に連絡しようとした。


しかし、着信音は鳴らなかった。


「圏外...?」


画面を見ると、確かに電波が入っていない。雨のせいだろうか。美月はもう少し移動してみることにした。


しかし、一歩踏み出したところで、誰かが後ろに立っていることに気づいた。


「見つけたよ、小鳥遊さん」


振り返ると、そこには雨に濡れた桐生が立っていた。彼の表情は暗く、目は冷たい光を放っていた。


「なぜ逃げたんだ?」


「あなたが...あなたこそなぜ私を追いかけるんですか?」美月は震える声で反論した。


「そのバッグの中身を返してもらおう」桐生は一歩近づいた。


「返しません」美月は決意を固めた。「あなたが水無瀬さんの死に関わっていたんですね。そして、それを隠蔽したのは病院...」


「君は何も知らない」桐生の声は低く、危険な響きを持っていた。「あの報告書は改ざんされたものだ。私は医師だった、看護師じゃない」


「では、真実は?」


「真実...」桐生はため息をついた。「真実を知りたいなら、ついてきなさい」


美月は躊躇した。桐生を信じるべきか?しかし、他に選択肢はなかった。茜にも連絡が取れない。


「どこへ?」


「病院だ」桐生は雨の中を指さした。「全てを見せよう、306号室の真実を」


美月は恐怖と好奇心の間で揺れ動いた。しかし、ここまで来たからには、真実を知る必要がある。


「わかりました、行きましょう」


二人は雨の中を病院へと戻った。美月は常に警戒を怠らず、逃げ道を探しながら歩いた。桐生は黙って前を歩き、時折振り返るだけだった。


病院に戻ると、桐生は裏口から中に入るよう美月に指示した。夜間の病院は通常より薄暗く、足音だけが廊下に響いた。


「茜さんは?」美月は不安に駆られて尋ねた。


「心配するな、彼女は無事だ」桐生の答えは簡潔だった。


二人はエレベーターで3階へと上がった。内科病棟に戻ってきたが、ナースステーションには誰もいなかった。


「皆どこへ?」


「緊急患者が来た。全員が対応中だ」桐生は306号室の前に立ち止まった。「さあ、中へ」


美月は恐怖を抑えきれなかった。306号室。あの声の源。水無瀬透子が最後を迎えた場所。


「怖いの?」桐生が美月を見つめた。「真実を知りたいんじゃなかったのか」


「怖くないわ」美月は震える手でドアノブを掴んだ。「開けるわ」


ドアを開けると、そこにはいつもと同じ空っぽの病室があった。しかし、今夜は違っていた。部屋の奥、窓際に一人の女性が立っていたのだ。


長い黒髪の女性。背中を向けていたが、美月にはわかった。モニターに映っていた女性、水無瀬透子だ。


「水無瀬...さん?」


女性はゆっくりと振り返った。その顔は確かに美月がモニターで見た女性のものだった。しかし、その表情には悲しみだけでなく、怒りが刻まれていた。


「やっと気づいた?」


その声は、美月が初めて聞いた306号室のモニターからの声と同じだった。


美月は一歩後ずさった。「あなたが...あの声の...」


「そう、私よ」女性は微動だにせず、まるで幻のように立っていた。「私は7年間、誰かに気づいてもらおうと待ち続けたの」


美月は桐生を見た。彼は表情を変えず、ただ立っていた。


「桐生先生、これは...」


「彼は知っているのよ」女性の声が美月の言葉を遮った。「彼は私が死んだ夜、当直だった医師。私がナースコールを押して、誰も来なかった時に」


桐生の表情が暗くなった。「そうだ。あの夜、私は確かに当直医だった。しかし、報告書は改ざんされていた。私は看護師として記録された。スケープゴートにされたんだ」


「でも、なぜ?」美月は混乱していた。


「病院の過失を隠すため」桐生は低い声で言った。「当時、ナースコールシステムに不具合があったんだ。透子さんのコールは表示されなかった。病院はシステムの不具合を認めたくなかった」


「だから...私のことを隠したのね」女性が言った。「私の死を、"自然死"として処理して」


美月は頭を抱えた。「でも、あなたはなぜここに...?」


「私は死にきれなかったの」女性の声は悲しみに満ちていた。「誰かに真実を知ってほしかった。だから、夜勤の看護師たちに声をかけ続けた」


「佐々木さんも...?」


「彼女も聞いたわ、私の声を」女性はうなずいた。「でも、彼女は怖くなって逃げた。そして病院は彼女の記録を消したの」


美月は桐生を見た。「あなたは知っていたのね、全て」


桐生は深いため息をついた。「知っていた。だが、簡単には話せなかった。病院の監視があったからね」


「でも、なぜ私を脅したの?」


「君を守るためだ」桐生の目には真摯な色が浮かんでいた。「もし病院側に君が調査していることがバレれば、佐々木と同じ運命をたどることになる」


「茜は?彼女は無事なの?」


桐生は窓の外を見た。「彼女も今、危険な状況にある。病院長が君たちの動きに気づいたんだ」


美月の心臓が高鳴った。「どういうこと?」


その時、ナースステーションから物音が聞こえた。誰かが戻ってきたようだ。


「聞いて」桐生は美月に近づいた。「もう時間がない。この報告書を持って警察に行きなさい。水無瀬さんの死の真相を明らかにするんだ」


「でも...」


「私はもう限界だ」桐生は苦しそうに言った。「7年間、この秘密を抱えてきた。もう終わりにしたい」


女性の姿が徐々に薄れていく。「お願い...私の声を届けて...」


その瞬間、病室のドアが開いた。茜が息を切らして立っていた。


「美月!無事だったのね!」


茜は美月に駆け寄った。「あなたを探してたの。資料室が荒らされてて...」


「茜さん...」美月は安堵のため息をついた。「私は大丈夫よ。それより、あなたは?」


「私?私は...」


茜の言葉は途中で途切れた。彼女の視線が部屋の奥に固定されていた。


「あれは...」


美月が振り返ると、水無瀬透子の姿はもう見えなかった。桐生だけが窓際に立っていた。


「桐生先生、話を続けましょう」美月は言った。「水無瀬さんの真実について」


桐生は美月を見つめ、そして小さくうなずいた。


「7年前、この病院で隠蔽された医療事故があった」彼は静かに話し始めた。「私はそれを止められなかった。今、君たちの助けが必要だ」


「私たちに何ができるの?」茜が尋ねた。


「証言者になってほしい」桐生は二人を見つめた。「水無瀬透子さんの声を、世界に届けるために」


美月はバッグの中の報告書を握りしめた。もはや後戻りはできない。彼女は水無瀬透子の声を聞いてしまった。そして今、その声を世界に届ける使命を感じていた。


「やります」美月は決意を固めた。「私たちで真実を明らかにしましょう」


三人は306号室から出ようとしたとき、廊下の向こうから複数の足音が聞こえてきた。


「病院長だ」桐生の表情が緊張した。「急いで」


美月と茜は桐生の後を追い、別の出口へと向かった。背後からは追跡の声が聞こえてくる。


逃げる途中、美月はふと耳元で囁く声を聞いた。


「ありがとう...」


それは水無瀬透子の声だった。美月は立ち止まらず、前を見据えて走り続けた。真実を明らかにするため、そして封じられた声を世界に届けるために。


廊下を走りながら、美月は恐怖よりも強い使命感に満たされていた。もはや後戻りはできない。彼女は声を聞いてしまった夜から、すべてが変わったのだ。


(続く)

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