ep.10
その日は母の言葉に従って、一度睡眠を取り、翌日に実家に戻ることにした。
しかし、早朝から着信音が鳴り、私は叩き起こされるように布団から手を伸ばして、電話に出た。
その声の主は、利内さんだった。
最初は泣き崩れるような声と、鼻を啜る音ばかりが聞こえ、話声は聞こえなかった。
私は何事かと思い、声を掛ける。
「……利内さん?どうしたの?」
「……先輩、私……もうだめです、死にます……」
あまりにも物騒なことを言い出したので、私はすっかり目が覚めてしまった。
慌てて体を起こし、再び尋ねる。
「何、言ってんの、朝っぱらから。ひとまず、落ち着いて!」
この言葉がいつもの大言壮語だと思いながらも、念のために引き留めた。
勢いあまって、本気で自殺でもされたらたまったものではない。
これだけ泣いているのだから、彼女に何か起きたということは、事実なのだろう。
「もう、私の人生、終わりです。助けてください、先輩……」
「助けてくれって……」
私は前髪を掻き上げ、呆れながら呟いた。
休暇前にはあれだけ大口をたたいておいて、今度は助けろだとか、利内さんらしいと思いながらもうんざりしてしまった。
正直、今は利内さんに構っている気力はない。
昨日判明した事実で、頭がいっぱいなのだ。
ダウンロードをした覚えのないマッチングアプリの存在や変装を意識したような衣装。
日頃なら絶対に使わないような化粧品や香水など、自分が選んだようには思えなかった。
それでも、それが私の部屋にあり、財布にレシートまで残っていたのだから、自分なのだろうとは思う。
最近、忙しすぎる所為か、記憶もあやふやで、ところどころ記憶の欠如が見られた。
特に仕事が終わった後のことを覚えていない。
休みの日には出来るだけ午前中に家事を済ませて、午後はゆっくりしようと、少しだけ休憩をとるつもりが、夜中まで眠っていたことも何度もあった。
それでも疲れが抜けず、疲労が慢性化していた。
まさかその意識のない間に、自分が勝手に動いていたなんて、まだ半信半疑だった。
その時、私の頭に井上さんが以前、話していた言葉が蘇る。
『不正が暴露された前日、苅田さんが御木本さんの机で何かしていたのを見たって言うんです。それに、利内さんが先輩社員の通うホストクラブを面白半分で偵察しに行った日、旦那さんと一緒に店の前で目撃したそうです。装いこそ派手で、最初は気が付かなかったけれど、あれは確かに苅田さんだったと』
あの言葉が事実なら、利内さんは私の何かを知っているはずだ。
私は改まって電話口で声をかけた。
「時間はかかるとは思うけど、今から利内さんの近くに行くから、どこにいるか教えて?」
すると利内さんは、泣きながら答える。
「……渋谷の、ミリオンズカフェです」
彼女の自宅は確か杉並区だったはずだが、なぜ、わざわざ渋谷まで出てきているのかはわからなかった。
私は、ひとまずそこで待つように言った。
ミリオンズカフェは連鎖店で、イートインブースが2階にあるため、多少の長居は見逃してもらえるだろう。
私は電話を切ると、急いで出かける支度をしながら、実家に泊まる準備と部屋の掃除もした。
利内さんに会ったら、すぐにその足で実家に戻るつもりだったからだ。
それに一度、この散らかった部屋を片付けて、他にも私の記憶にないものの痕跡が残っていないかも確かめたかった。
しかし、それらしいものは特に出てきていない。
思い起こせば、記憶があやふやになったのは、広岡課長に残業を強制された日だった。
会社で一人、残業をし始めてからの記憶があやふやで、気が付けば、あの終わりの見えない膨大な仕事を一人で終わらせていた。
翌日は、定時で退社し、早めに寝たはずだったのに、全く疲れがとれておらず、なぜか目を覚ますと寝間着を着ていたはずが、いつの間にか私服に着替えていた。
書き覚えのない『2140 GM麻布』のメモもずっと気になっている。
もし全てのことが繋がるとしたら、もう、私が知らないところでもう一人の私が動いているとしか思えない。
実は生き別れの双子がいて、その子がわざわざ私に成り代わって、何かをしているなんてことはドラマの中だけの話だ。
だとしても、私の意識がないところで私が動いている、なんてことがありうるのだろうか。
ただ、今は思い出せないだけで、私はちゃんと私の意思で動いていたのかもしれない。
このまま一人考えに耽っていても、埒が明かないことを悟った。
ひとまず利内さんに会い、彼女の話を聞いたついでに、利内さんの知っていることを確認しようと考えていた。
約束通り、彼女はカフェで待っていてくれた。
少し落ち着いたのか、もう涙は流れていなかったが、目はパンパンに腫れ上がっていた。
彼女は私に気付いた瞬間、涙声で名前を呼ぶので、私は慌てて近寄り、ひとまず店を出て、近くの公園に行くことにした。
さすがにこれ以上、カフェに迷惑はかけられない。
彼女をベンチに座らせ、私は自動販売機で飲み物を二つ買って戻って来た。
それを渡し、彼女の横に座る。
「それで、一体何があったの?」
私は彼女に泣いている理由を尋ねた。
すると彼女は震えた手で、自分のスマホの画面を見せてくる。
そこには衝撃的な画像が映っていた。
明らかに現場はどこかのラブホテルの部屋の中で、ベッドには男性が一人全裸で眠っている。
その近くに女の姿が写り込んでいたが、後ろ姿のため、彼女の顔は見えない。
ただ長い髪を肩に流し、ほっそりとした白いうなじが見えていた。
私はその画像に違和感を覚えた。
「……彼、浮気していたんですよ!!」
彼女は大きな声で叫んだ。
「……え?」
私はその迫力に押されて、驚くことしかできなかった。
「昨日の夜、この写真が私宛に送られてきて、彼に問い詰めたら、結婚する前からマッチングアプリを使い続けてたって。私と付き合ってからも、他の女の子と連絡とり合ったりして、私、ずっと彼に裏切られてたんですよ!!」
彼女の声は震え、嗚咽が漏れていた。
彼女は赫怒していたが、私はどこか胸がすく思いがしていた。
なぜなら、彼女はずっと夫に浮気された私をバカにしてきたからだ。
毎日のように彼氏との充実な生活を自慢し、離婚された私とは違うのだと主張しているようだった。
そんな彼女が、のろけていたあの瞬間でさえも、彼に裏切られ続けていたのだ。
いい気味だと思わずにはいられない。
しかし、それ以上に私はその『マッチングアプリ』という言葉が気になった。
「ねぇ、それってどんなアプリ?」
「はぁ?」
私の質問に利内さんは不快そうな目で見つめる。
しかし、少し間を置いた後、そのアプリを見せてくれた。
そこにはメニュー画面と一緒に、彼女の夫が登録したプロフィールも載っている。
それを見た瞬間、私の鼓動が一瞬止まったのを感じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます