ep.8
お盆という長期休暇の前週は、仕事が多忙になる。
気持ちよく休暇を迎えるためにも、私たちは必死で働いていた。
残業が当たり前に続くような日でも、利内さんは周りにお構いなく、定時で帰る。
彼女一人で帰るならまだしも、帰る時は必ず井上さんも連れていた。
井上さんはいつも私たちに申し訳ないといった顔で、頭を軽く下げて帰っていった。
利内さんは、教育係の意味をはき違えているのではないかと思い、今日こそは退社前の利内さんに声をかけることにした。
「利内さん、今日ぐらいは残業してくれてもいいんじゃない?」
私が真顔でそう言うと、彼女はゆっくりこちらへ振り向いて、眉間に皺を寄せた。
「残業の強要って、パワハラだって知ってます?」
利内さんは、さも自分が正論を述べているといった顔で、自信たっぷりに答えた。
ここは彼女の勢いに押されないように、私も言うべきことは言おうと決心する。
「私だって、利内さんがちゃんと、頼まれた仕事を終わらせて帰るのなら、残業なんて頼まない。けど最近、仕事をかなりため込んでいるよね。井上さんの教育係だからって言い訳しているけど、あなたの仕事は井上さんの面倒を見ることだけじゃないのよ。来週には会社も長期休暇に入るんだから、せめて自分の仕事は終わらせてから帰って」
言い方には、かなり気を使ったつもりだった。
しかし、その言葉さえ、利内さんの逆鱗に触れてしまったようだ。
彼女は私を勢いよく睨みつけて、叫んだ。
「先輩とは違うんですよ!私には、家庭があるんです!!」
私はなぜ、彼女がそのようなことを言い出したのか、理解できなかった。
「彼のために晩御飯も作らなきゃだし、家事だってしないといけない。独り身で、子供を親に預けられる先輩と、一緒にしないでください」
彼女の言っていることが全くもってわからない。
彼のためと言うが、彼女の夫は立派な大人だ。
自分一人で晩御飯も食べられるだろうし、家事だって頼めばしてくれるはずだ。
そもそも、家庭の事情を仕事に持ち込まれても困る。
彼女が何を勘違いして、そのような発言をしているのか、さっぱりわからなかった。
「今、それ関係ある?利内さんはまだ仕事を終えていない。だから、今日の仕事は今日中に終わらせてほしいって言ってるだけでしょ?仕事とプライベートを混同しないで」
私が呆れながらそう言うと、利内さんは更に突っかかって来た。
「先輩だって、今まで散々、子供のことで会社に迷惑かけてきたじゃないですか!なんで先輩はよくて、私はだめなんですか?先輩がチーフだからですか?」
「そうじゃない。それに、私が定時で帰ってたからって、代わりにあなたに仕事が回ってきたことないはずよ?」
私たちの言い争いに、周りも心配そうに顔を上げた。
私と利内さんの狭間に立っている井上さんが、戸惑っている。
「だから先輩は、旦那に浮気されるんですよ!仕事も家庭も子育ても中途半端で、正論ばっか言ってるから、旦那さんも嫌気がさして、他の女に逃げたんでしょ?……中途で、私とそんなに社歴変わらない癖に、チーフになったからって偉そうにしないでください。先輩はもう少し、配慮ってものを覚えた方がいいですよ」
あまりに不躾な物言いに、一瞬体が固まってしまったが、言い返そうとしたタイミングで、利内さんは勝手に歩き出した。
私は必死で彼女を呼び止めようとする。
「――ちょっと待って」
「ほら、井上ちゃんも行くよ」
利内さんは私の言葉を無視して、井上さんを呼びつけた。
しかし、井上さんは彼女の誘いには乗らず、震えながらその場で俯いている。
それを見て、利内さんは鼻息をつくと、不機嫌そうに一人で帰っていった。
課長は彼女の態度に何も思わないのかと思い、様子をうかがったが、課長はすぐに目をそらして何事もない顔で仕事に戻っていた。
――これだから、あの子が身勝手になるんじゃない!
私は自分本位な利内さんや人任せな課長に憤慨していたが、今は仕事を少しでも早く終わらせたかったため、気持ちを切り替えようと席に戻った。
すると、さっきまで震えていた井上さんが、そっと私に話しかけてくる。
「あのぉ、私は何をお手伝いしたらよろしいでしょうか?」
「そっか、残ってくれるのよね。ごめんね、井上さんも帰りたかっただろうに」
すると、彼女は慌てて両手を振った。
「いえいえ、さすがにこの忙しさで一人帰るのは申し訳なくて。私は、用事もありませんし、最後まで付き合います」
彼女の言葉がまさに地獄に仏だった。
結局、その後、三時間ほどの残業になったが、井上さんは宣言通り、最後まで残ってくれた。
急ぎである利内さんの残りの仕事を手伝ってもらい、ところどころ私が仕事を教えながら進めた。
彼女の様子から見て、利内さんが彼女にしっかりと教えられているようには見えない。
普段から二人は席にいることは少なく、利内さんが連れ回すように倉庫や給湯室に立ち寄っていたようだ。
井上さんも大人しい性格だから、社内の先輩に強くは言えなかったのだろう。
利内さんも自分に都合のいい仲間ができた気がして、気が大きくなっていたのかもしれない。
仕事を終えると、私たちは途中まで一緒に帰った。
こうして井上さんと二人きりで話すのは初めてだった。
そんな井上さんが私に向かって、ぎこちなく質問してくる。
「……あのぉ、不躾ながら、一つ質問してもよろしいですか?」
「何?」
井上さんは複雑な表情で、逡巡していた。
「……苅田さんが、その、以前勤めていた経理部の課長と、御木本さん?っていう元チーフを会社から追い出したって、本当ですか?」
予想だにしない問いに、私はつい大声を上げてしまった。
「はぁ?なにそれ」
すると、井上さんもすぐに察して、訂正する。
「ですよね、ですよね。私には苅田さんがそんなことをするような人には見えなかったので」
井上さんは自分でそう答え、なぜだかほっとしている。
これは詳しい事情を聴くべきだと考えた私は、逆に質問することにした。
「どこでそんな話しを聞いたの?」
彼女は気まずそうに口を閉ざしていたが、このまま黙っているわけにもいかず、ゆっくりと話し始めた。
「……その、私が話したってことは内緒にしてほしいんですけど、最近、利内さんが社内でそんな噂を流していて。実は苅田さんは二人の弱みを握っていて、都合が悪くなった際にその秘密を会社に暴露して、解雇させたんだって。だから、私も弱みを握られないように、苅田さんには気を付けた方がいいって、利内さんに言われました」
私は呆れて、ものも言えなくなった。
その場で頭を抱え、大きくため息をつく。
「そんな根も葉もない噂を……。それにしてもなんで、利内さんはそんなことをいいだしたのかしら」
課長の密告が御木本さんだといったのは、利内さん本人のはずだ。
私が理解に苦しんでいると、井上さんが言葉を付け加えた。
「それが、根拠がないわけでもないそうです。不正が暴露された前日、苅田さんが御木本さんの机で何かしていたのを見たって言うんです。それに、利内さんが先輩社員の通うホストクラブを面白半分で偵察しに行った日、旦那さんと一緒に店の前で目撃したそうです。装いこそ派手で、最初は気が付かなかったけれど、あれは確かに苅田さんだったと」
「私が、ホストクラブに?まさか……」
最初は利内さんが私を貶めようと、適当な事実をでっちあげているのだと思っていた。
ただ、嘘が苦手な利内さんの狂言にしては不自然で、胸のどこかに突っかかってはいた。
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