月は静かに目を覚ます。

よりた いと

第1話 月喰らい


『今年の開花予想は平年並み。3月下旬に桜前線がスタートし、ゆるやかに北上を続けます。4月の頭には満開を迎えるところもあるでしょう。なお今年は同時期に、日本全国で皆既月食を見ることができます』

 

 皆既月食という言葉につられ、私――沢井さわい瑠奈るなは冷蔵庫を覗き込んだ姿勢のまま顔だけテレビを振り返った。

 夕方のワイドショー、天気予報コーナーの真っ最中。気象予報士が指差し棒を手にアナウンサーへ、『幻想的な景色が見られるかもしれませんよ』と笑顔を向ける。


『地域によっては、満開の桜と同時に月食も楽しめるということですか?』

『そうなんです。大変珍しく、とても貴重な機会ですね』

『ちなみに月食の時間帯によっては、夜遅くだったりして見るのが難しい方もいらっしゃるかと思いますが……』


 冷蔵庫から個包装のチョコをひとつ取り出す。パタンと閉めた扉にもたれかかり、窓際のテレビをぼんやり見つめたままガサガサとフィルムを剥いた。


「……食べられちゃうな」


 呟いて、ひとくちサイズのチョコを口に放り込む。

 舌の上で転がしながら、棚にある写真立てに目を向けた。

 そこにあるのは、一枚のイラストだ。端が少し破れた、A4サイズの色褪せて微かに黄ばんだそれには桜と月が描かれている。

 ただ、その絵に色鮮やかさはない。経過した年月によるものではなく、もともと色が無いのだ。黒々とした鉛筆画だから。

 かつて、この絵を描いてくれた人が言った。何年も前、明日は月食だとニュースで流れたのを見て「明日の夜、影に食われちゃうね」と私を指して笑った。

 私の名前と、ルナという月の女神の名に引っかけて。


『今回はですね、ご心配には及びません。19時35分から開始予定始ですので、早い時間帯から見ることができます』

『なるほど。当日は金曜日ですので、ちょうどお仕事帰りの方もいらっしゃるかもしれませんね。天気だけ気がかりですが……』


 その時、ポケットの中に入れていたスマートフォンがブブ、と震えた。

 取り出すと、ふわりと浮かび上がったメールのタイトルに胸がズンと重くなる。


『【企業オファー】株式会社●●●/書類選考免除 ◎◎転職事務局です。沢井 様の………』


 ここのところ、1日に30通以上届く転職サイトからのメールだ。開く前に、さらにふわりと新しい通知が浮かび上がる。


『転職活動の状況はいかがでしょうか◆新着スカウトあり!◆今だけ面談確約!…………』

 

 タイトルだけで内容がある程度想像できるのは大変ありがたい。そのままスマホの画面を暗転させ、はあとため息を吐く。

 ちらり、とテレビに目をやった。


『月食の日はまだ3週間ほど先なので、今のところは何とも言えないのが残念ですね』


 苦笑いする気象予報士の言葉が、妙にリンクして胸の奥をざわざわとさせる。

 転職する気があるのか、ないのか。そもそも転職したいのか、したくないのか。「今のところは何とも言えない」。

 この月食が起こると言われている4月の頭には、何か状況が変わっているのだろうか。

 

『天気が良ければ、幻想的な景色が見られるかもしれません。ぜひみなさん、お花見がてら夜空を見上げてみてはいかがでしょうか。ちなみに、今回を逃すと次に桜の時期と重なるのはなんと54年後の――』


 ぶつり、と気象予報士の声が途切れる。

 テレビを切った瞬間、先ほどまで人の声で溢れていた部屋と同じ空間とは思えないほどの静けさに包まれる。

 画面に映し出されていた色も光も消え、黒い液晶にはリモコンを手にポツンと立つ女一人が映るだけ。


(よくない)


 反射して映る自分に見せつけるように、首をふるふると横に振った。

 このままでは鬱々モードで外へ出られなくなる。少しでも気分転換をしようという気力があるうちに、私はパーカーを羽織った。

 こういう時は、外の空気を吸うのがいちばん。

 カァ、カァと外から聞こえてくる烏の声。薄い灰雲に覆われた町並みからこの部屋を隠すかのように、シャッと勢いよくカーテンを閉じた。


 

  


 アパートを出て、いつもの道を進む。曇り空の下、アスファルトの道にのびる影はいつもより薄く力がなかった。

 大学卒業を機に引っ越してきたこの町は、高層ビルが立ち並ぶ都心からは遠く離れた郊外にある。新卒で入社した出版社が近いこともあり、大学卒業後に心機一転、新しい土地でスタートするため転居した。

 そして文字通り寝る間も惜しんでバリバリ働き、入社から9年目の現在――目下、休職中の身である。


「はあ」


 吐き出した息は、もう白くはならない。

 今年は例年より寒かったようで、この地域では珍しく2月末まで雪が降る日もあった。

 休職が始まった当日も凍えるほどに寒かったのに、今は長袖一枚にパーカーを羽織っただけで外を歩けるのだから季節の進みは本当に早い。あの時の風の冷たさを、体はもう忘れ始めている。

 

「ねえママ、今日ね! 学校でね、将来の夢のお話したよ!」

 

 横断歩道で待っていると、不意に後ろから子どもの声がした。車が勢いよく目の前の道路を行き交い、その勢いで起きた風が前髪をふわっと持ち上げる。

 振り返らないまま、真後ろの会話を耳だけで拾った。

 

「へぇ、そうなの。ユウマは何になりたいの?」

「ぼくね、運転手になりたいって言った!」

「あらいいねえ。ユウマは車好きだもんねー」

「うん! おっきなバスのね、運転をね……」

 

 信号が青になる。

 ゆっくりと歩き出すと、後ろで交わされている会話の声が徐々に近づいてきた。

 

「そうなったらね、でっかいバスにね、お母さん乗せてあげる!」

「ええ、ほんとに? それは楽しみだなあ」

 

 将来の夢を話しながら私を追い抜いていったのは、1組の親子。ぴょんぴょんと楽しそうに飛び跳ねる男の子と、その母親が笑顔で話しながら歩いていく。男の子は小学生だろう。2年生か、3年生ぐらい。

 

(将来の夢、かあ)

 

 微笑ましく思いながら、親子が横断歩道を渡りきったあと右に曲がって背中が遠くなっていくのを見送ると、私はいつものように左に曲がる。

 キャッキャと遠ざかる親子の声に、ひらりと舞い降りた一瞬の記憶。

 私が初めて夢について話した相手は、親ではなかった。そしてさらにいうと、兄弟でもなく、友達でもなく、彼氏でもなかったことを思い出す。

 私は、あのとき口に出した〝将来の自分〟に恥じない姿になれているのだろうか。





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